第2話 夜 ~静止した時間~
海岸への道はほとんど街灯がなかった。潮の香りが鼻を刺激し、一足ごとに波音が強くなっていく。
僕は、
彼女について知りたい。たったそれだけだ。
今宵は満月で、夜道は真昼とは表情の違う明るさを
こうまで自然の音が強いと、生きている人間は僕ひとりなのではないかと錯覚してしまう。この地から僕を除いた生物が消え去ってしまったかのような、緩やかな優越感。あらゆるものから孤立した時間と場所。
浜に着いたとき、僕は心臓が飛び出しそうな驚きを味わい、思わず林に身を隠した。
カップルが抱き合い、キスをしていたのだ。幸いに、僕とふたりの間には距離があったので気付かれずに済んだようだ。或いは、ふたりだけの世界に沈んでいるのか、気付くよしもない空間だったのかもしれない。
驚くべき事に、ふたりとも女性だった。海風に
木の影からそっと覗く。片方は身体を脱力させ、もう片方は両腕で相手の腰を抱いている。ふたりは唇を重ねたまま身じろぎひとつしなかった。キスの瞬間に時間が静止したような、そんな具合。ふたりを取り巻く海鳴りと月光。潮風に踊る髪。
まじまじと見つめていると、やがて気が付いた。長髪の女性は、
彼女は壬生とは対照的に、白を基調としたワンピースだった。これもやはり、無表情で沈んだ様子の彼女とはかけ離れた衣装である。
多分、普通なら嘲笑した事だろう。しかし、
欲情がなかったわけではないが、それに身を任せてしまうのは嫌だった。この特別な時間を不純な
月明かりの下、ふたりは静止していた。唇と唇で、何かを分け合っているような具合に。たとえば、
まじまじ見つめると、壬生も昼の印象とは遠くかけ離れている。装いを抜きにしても、彼女の腰を抱きとめる腕のしなやかさや、薄く閉じられた瞼の憂いには、境界を飛び越える身軽で無神経な女子の雰囲気は皆無である。どこか冷たく、超然とした空気を
彼女と壬生はごく自然に密着し、秘密を共有するように長く唇を重ねている。妙な事だが、僕にはふたりがひとつの生き物のように思えてならなかった。それぞれが別の人格と、異なる肉体を持っていることが不自然なくらい、完結してしまっている。
誇張だろうか。だとすると、それは満月に狂わされただけだろう。
どのくらい見つめていたか分からない。腕時計を見ると、時刻は午前一時半だった。家を出たのは零時五分、ここまで来るのに三十分もかかっていないはずだ。すると、一時間以上もふたりはキスをしていることになる。まるで時間を停められたみたいだ。夜が時間を奪い去り、粉々に砕いて月光にまぶしている、そんな様を想像した。
不意にふたりは唇を離した。ゆっくりと、尾を引くように。
自然と、吐息が漏れた。クラスメイトの死が訪れる前までは、よく微笑していたのだ、彼女は。そのひと欠片が目線の先に存在している。なんて尊いんだろう。失ったものほど輝いて見える。
壬生たちは手を繋ぎ合って、
僕は今、ふたりと同じ世界にいるのだろうか。不確かだった。時計は二時を回ろうとしている。この場所に踏み込んで、僕はどうなるというのだろう。僕自身が不純物ではないだろうか。
しかし、
勇気を振り絞ったわけではない。開き直るような気持ちで僕はふたりのほうへと歩いて行った。振り向いた
「ごきげんよう」
そう言って壬生は彼女に寄り、ひとりぶん座れるスペースを空けてみせた。
聞きたいことは山ほどあったが、
波音は大きく、月光は眩しい。
「壬生さんですよね」
「そう、私は私だよ」
しっとりと、憂いのある声だった。壬生である事に違いはないのだが、同時に、全く別の人間として理解しなければならないような切迫感がある。
壬生はスカートの上で手を組み合わせている。じっと、動く事なく。
彼女はというと、無表情で月を見上げていた。先ほどまでの柔らかさはなく、普段通りの硬質な無表情。僕はどこか、突き放されるような寂しさを覚えた。
「聞きたい事が沢山ある」
「昼間の事かしら」
「……いや」
壬生はクスクスと笑ってから、どろりとした眼差しを僕に向ける。「そうよね、夜の事が先でしょう?」
頷くと、潮風が強く吹いた。
「ねえ、
「別の人生?」
「そう」
たとえば、何だろう。スポーツマンだろうか、それとも成績優秀な学級委員長だろうか。或いはもっと根本的なものかもしれない。
「思わないよ。
「たとえば?」
僕は一度、深呼吸をする。そうして考えつくだけのものを並べ立てる。
「たとえば、週末にペットショップに行く人生」
「サーフボードで波をとらえる人生」
「ランチの写真をSNSに投稿する人生」
「月9ドラマを毎週欠かさず観る人生」
「深い
「数日も経てば、死んだ人間の事なんて綺麗さっぱり忘れ去ってしまう人生」
語尾の震えを感じて、口を
どれだけ素直になっても、この空間なら許される気がした。けれども全部は言葉にできない。
「キミらしい」
壬生は真っ直ぐ僕を見据える。茶化すような響きはなかった。照れ臭くなって、思わず目を
「キミが思っている以上に、他人はキミを観察しているんだよ」言って、壬生はその場でくるりと一回転した。何の意味があるのかは分からないが、率直で自由な動きだった。
「キミは乾いている」
何を言っているのだろう、と思いながらも納得している自分もいた。僕は乾いていて、冷たく、或いは彼女くらいには無感情に見えていたのかもしれない。
「最後に笑ったのがいつの事か覚えてる? 泣いたのは?」
僕は首を振る。覚えていないのだ。
「今日、私を押し倒した時のキミは、本当に怒っていたのかしら?」
言葉が胸に突き刺さる。自分はあの瞬間、『本当に』怒っていたのだろうか。怒りがあったのは確かだが、それは心にまで根を下ろしていなかった。ただ頭で何かが破裂したような感覚があった。それを純粋な怒りと表現するのはあまりに
後は、
しかし、それらの感情に何ら後ろめたさを感じてはいなかった。
潮風が鼻腔を刺激する。月光を反射する波は、銀紙のようだ。
「なんて答えていいか分からない。そんな気もするし、そうじゃない気もする」
壬生は即座に返す。「なら、それは本当の感情じゃないわ。きらきらと濁りながら身体の中に溜まった
「多分、壬生さんの言う通りだと思う。なんだかぐちゃぐちゃした気持ちが心に広がっていて、それをただ見つめている自分がいる」
伝わるだろうか、と不安になりながらも言葉にする。それは
壬生は暫く目を閉じていた。だから、というわけではないが、僕は月を浴びる同級生の顔を
「うん」
壬生は確かにそう呟いて、緩やかに瞼を開いた。
「キミは、
何の事やら分からなかったが、彼女にとっては重大だったらしく、すくりと立ち上がって一歩壬生に寄った。
「どうして?」
相変わらず無感情な声ではあったが、どことなく、不安定であった。動揺しているのだろうか。或いは、這い出ようとしている膿を押し留めているのだろうか。
そんな彼女に、壬生は優しげに笑いかけた。「私が必要だと思うなら、それはあなたにとっても必要じゃなくって?」
「でも」
「……ねえ、月岡クン。あなたがなりたい自分はどういうものだったかしら。そして、彼はどういう人間かしら」
ああ、ダシにされている。そう気付いても特に不快ではなかった。
「月岡クン、よく聞いて。彼は何が起きようと、自分自身の感情がどろどろに沸騰しようとも、そこから離れた場所にいる事ができるのよ。ところで、あなたはどんな人間になりたかったのかしら」
「ごめんなさい」と彼女は俯く。
ポーズだ、と直観した。彼女はそうすべき反応を演じている。今、その表情は硬く凍っているが、いつかそれも、粘土細工のように変幻自在のものになるのかもしれない。今はその過程で、不安定に強張っているのだ。
「いいの、謝らないで」彼女の肩に触れて
「
壬生は僕に向き直る。こうして見ると、二人とも青白く、
「月岡クンのために、協力してくれないかしら。勿論、タダとは言わない。彼女の事を全部、教えてあげるっていうのはいかが? 知りたくないなら、断っても構わないけど」
彼女の事。そうだ、僕は彼女について、どこまでも知りたいのだ。何故だか上手く言い表す事は難しい。一概に恋とも言えず、好奇心では大枠過ぎる。思うに僕は、友人の死を告げられた瞬間の彼女や、顔色ひとつ変えずに焼香を済ました彼女の、内面に積もった
僕はふわりと身軽な気分になる。率直に、自由に。品性も評価もここでは意味をなさないだろうから。
「断ったら、この夜も終わってしまうだろ? そりゃ詰まらない」
やっと、夜に足を踏み入れた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます