月下狂人
クラン
第1話 プロローグ ~夏への戸口~
十六歳の夏、僕たちは憂鬱と月の光にべっとりと染められていた。線香の匂い、銀紙の月、波の唸り、
坊さんの読経が永遠に続くような気がして、僕は酷く退屈だった。木魚のリズムと線香の匂い。押し殺したような啜り泣き。うんざりだ。
六月の終わりに同級生が死んだ。学校からの帰り道、トラックに轢かれたらしい。詳しいことは分からないが、即死だったと聞いている。
神妙な面持ちで
葬儀は丁度教室くらいの小ぶりな部屋で
読経に飽きた僕は、横目で彼女を眺めていた。無表情には二種類あると思う。決然とした、揺るぎない無関心の表れとしての無表情と、どことなく不安定で
そのうちに焼香の順番が回ってきた。
遺影を前にすると、なんだか妙な気分になった。大して接点のないクラスメイトなのに、
彼女は焼香中も終始無表情だった。その胸の内に何が隠されているかは不明だが、
高校入学当初、僕と彼女の席が隣り合っており、他愛のない会話を幾つか交わしただけの
葬式後の数日間は、クラス中が水の底に沈んでいるみたいだった。どこかで誰かが喋っても
そんな雰囲気も、日が
幾ら時間が経っても彼女の無表情は変わらなかった。以前から表情豊かというわけではなかったが、それまでの月並みな感情を
彼女は決まって昼休みに、花瓶の水を代える。はじめはクラスメイトもいたわるような視線を向けていたが、二週間が経過しても繰り返される習慣にやがて目を背けるようになった。いつしか彼女は『いたわるべき存在』から『触れてはいけない存在』にシフトしてしまったようだった。
彼女は
正直、羨ましいとは思う。そこまで身軽に、こだわりなく接することができればどんなに楽だろう。
彼女の習慣は夏休みの前日まで、
夏休み前の最後のホームルームが終わると、浮ついた
帰宅途中、僕は机の中に教科書類を一式入れたままだったことに気が付いた。これでは夏休み中の課題に差し
教室に戻ろうとした僕は、
耳を澄ましても、囁き声が断片的に届くだけで言葉としては聴き取れなかった。自分の鼓動がやけに大きく、二人の会話を邪魔しているみたいだ。
耳だけでは不十分なので、中腰になってもう一度ガラス越しに彼女たちを覗き込んだ。随分親密な調子で話し込んでいる様子だった。彼女はこちらに背中を向けているので表情は分からなかったが、壬生のほうは微笑混じりである。
不意に、その微笑が消えた。そして壬生は花瓶を持ちあげる。微動だにしない彼女の頭の上で、中の水をぶちまけた。
水滴が散り、菊が床へと落ちていく。からっぽの花瓶を机に置く鈍い音が響く。一瞬の事で、何も判断が付かなかった。一体何故このような事になっているのか全く理解ができない。
「死んで良かったんじゃない?」
その声がはっきりと僕の耳に届いた瞬間、皮膚に熱が走り、身体は無意識的に動いていた。
扉の音が強烈に響く。二人は同時に、僕へ視線を向けた。壬生はぎょっと目を見開いていたが、彼女は無表情だった。
「なにやってんだ」
怒鳴るように叫んだつもりだったが、出てきた声は随分かすれていた。慣れない事はするものではない。後悔先に立たず。怒りに駆られながらも頭はクリアだった。
「どうかしたの、
壬生の声はよく通る。滑舌がよく、声量も大きい。どうしても
彼女の髪から雫が落ちた。その無表情の眼の奥で、確実に何かが
僕は壬生に駆けより、そのままのスピードで肩を掴んで押し倒した。そして馬乗りになって、拳を振り上げる。
結論から言うと、その拳を振り下ろすことはできなかった。振り上げた僕の腕を、何故か彼女の両手が掴んでいたのだ。どうして、という言葉すら出て来ないほどに僕は混乱していた。何で壬生を守る必要があるのだ。こいつが君に何をして、どんな言葉をぶつけたか理解しているのか。
「暴力はんたーい」
仰向けの状態で、気だるげに壬生は言う。妙な表情だった。口元や眉間、鼻や頬の筋肉は普段と変わらない壬生なのだが、目元だけが違っていた。ぞっとするほど冷たく、無感情な目付き。ただただ不快のみを表現するような、そんな眼差し。
彼女の両手が外され、僕は何も言えずに立ち上がった。
壬生は「サイアクなんですけど」とか「シャツ濡れたし」とか「どーしてくれんのよ」とかぶつぶつ吐きながら椅子に腰かける。その目付きは普段通りの、楽観的で身軽で不満の多い女子のそれに戻っていた。
「さて」と壬生は彼女を見つめて切り出した。「
「まだ少しだけ、動揺してます」
「それは、天田が乱入したから?」
「両方です。壬生さんの言葉も、天田くんがしたことも」
「そう、残念」
僕は説明を求めるように壬生を見つめる。しかし、反応は返って来なかった。彼女に目線を移しても、それは人形を眺めるのと同じだった。僕ひとりが取り残されているような疎外感と、行き場を失った怒り。発散できない感情は頭をぐるぐると
「ところで天田は、どうしてここにいるの?」
不意に壬生が聞く。随分と素っ気ない口調だった。
僕は呼吸を整える。今度はちゃんと声を出せるように、と。
「教科書を忘れた。それで、戻ってきたらおまえがとんでもない事をしてるのを見て、許せなくなった」
話すほどに不機嫌な口調になっていくのを感じて、僕は僕自身が嫌になる。こんな直情的な人間ではない
「とんでもない事って?」壬生は首を傾げる。
「花瓶の水をかけたろ。月岡さんに」
彼女は無表情だった。しかし、瞳は細かく震えているようで、おや、と思った。
壬生はというと、手の甲を顔まで持ち上げて爪を点検しながら「そうだよ」とだけ答えた。
「なんだそれ」と思わず漏れた。壬生の言動が何ひとつ理解できない。開き直っているとも違う感じだ。無関心。それが一番近い。
「どうでもいいんだけどさ、天田って正義感持ってたんだ。意外なんだけど」
指摘されて少し恥ずかしくなった後、急激に虚しくなった。僕自身の中に正義感とやらがあるとは思えない。行動したのは確かだが、そこに意志があったとはいえないし、
俯いて、自分の右手の甲を見つめた。正義。なんだか暴力の匂いがする。きっとそれは、血と涙の味がするに違いない。直線的な信念と豊かな肉体、そんなイメージだ。考えるだに恐ろしい。僕から一番離れたものだ。
壬生は何か考え込むように机に肘を付いていた。その両脚は
えくちゅん。
僕は、いや、壬生も同じだったろうが、初めそれが彼女のくしゃみだとは思えなかった。厳粛で息苦しい沈黙を、彼女が可愛らしく破るとは。相変わらず無表情だったが、やや俯いているように見えた。
壬生は、からからと鈴が転がるような笑い声を上げた。嫌味のない、さっぱりとした笑いかただ。僕は怒っていいのか、一緒になって笑っていいのか判断がつかず、ただ立ち尽くしていた。
ひとしきり笑い、指で目尻を拭ってから壬生は「さあて、解散解散」と呟いて立ち上がった。
「いや、待てよ」
「なんだよ天田、かまってちゃんかよ」
「いや、謝れよ、月岡さんに」
「なんで?」
こいつは狂っているのか。またぞろ、怒りがぶくぶくと沸騰しかける。壬生へと一歩踏み出したところで僕は彼女の声を聴いた。
「ごめんなさい。壬生さん、不快な思いをさせてごめんなさい」少し、震えた声だった。何が彼女にこんな台詞を喋らせているのか、
「別に。てかさあ、そういう事言うと天田が誤解するだけじゃん。あたしも殴られたりしたくないし」
「……そうだね」
やはり、僕だけが取り残されていた。僕の正義感とやらが誤解なのだとするとそれは
「だから、どういう事だよ。説明しろよ」
壬生は考えるように唸ってから、愉快そうに口を
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