第30話王の夜

「おまえ、やっぱりバカなんだろ」


 屋上で、左目は言う。


 その声を、明知は聞いた。


 ドアに阻まれて、姿は見えない。けれども、大層あきれられていることであろう。仕方がないことだ。だが、これだけは言わせてもらう。


「あなたのほうがバカです」


「いいや、おまえのほうが百倍バカだ」


「だったら、あなたはそのバカの百乗バカです」


「おまえ……今どれぐらいバカの単位がたまっているか把握してるか?」


 左目は、ため息をつきながら尋ねた


 日常のようなやり取りに明知は笑う。左目には、こういった学生らしいたわいも

ないやり取りが似合う。最後には、笑ってごまかされてしまうような。彼を日の当たる場所に連れ戻したいと思いながら、明知は彼に言葉をかける。


「同じ質問をあなたにしてもいいですか?」


 これで、日常の延長線は終わり。


 左目も、それは感じ取ったのだろう。


「……おまえがこんなところに来る必要なんてなかった」


 左目は、そう言った。


 悲しそうな声であった。


「なんで、こないと思ったんですか……」


「おまえが死に掛けると……俺が苦しくなるから来て欲しくなかった」


 左目の言葉に、明知ははっとする。


 胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。甘い痺れと共に、泣きたくなるほどの痛みに明知は

懐かしい感覚に陥る。こんな感情になったのは、とても久しぶりなことだった。人間だったころに、少しだけ。吸血鬼になってからは、味わったことすらない感情。


「弦から、おまえが死に掛けてるって電話をもらったときに……俺がどう思ったのかも考えなかったのかよ」


「それは……」


 正気な話、考えなかった。


 左目にとって自分ははた迷惑な吸血鬼でしかないだろうし、心配されるだなんて思いもしなかった。だから、あえて考えなかった。


「俺は苦しかった。たとえ俺を助けるためだとしても、危ない場所には来て欲しくないと思った。おまえ……弱いから」


 明知が思う。


 左目は、もしや自分と同じ気持ちでいるのではないだろうかと。


 だが、それは幸福ではない。


 明知と左目では生きているペースが違う。それに左目が自分の気持ちに気がつけば、明知が彼以外の血を飲めなくなったことにも気がつかれるかもしれない。それは、左目の心理的な負担だ。だから、明知は嘘をつく。


「左目さんは、優しいですね」


 これは、嘘だ。


 左目の感情は、無償の優しさゆえになりたっているものではない。もっと強くて我欲的感情――すなわち情愛であった。明知は大人であるから、その感情にすぐに名前を付けられる。だが、左目は感情に名前を付けられずに苛立っていた。


「優しいって言葉で、解決するものなのか?」


 不安そうな左目の声。


 明知は、自身の感情の高ぶりを押さえて答える。


「解決しますよ」


 明知は、微笑む。


 その微笑は、左目には見えないだろう。左目と明知との間には、屋上と室内を隔てるドアがある。このドアがある限りは、左目は明知の笑みの秘密を知ることはない。


 明知は、笑っている。


 この世で、一番幸福な顔で笑っている。


 どうしてこの世に生まれてきたのとたずねられれば、今のためにと答えられるほどに幸福に微笑んでいる。


「あなたは、優しい。だから、私の無鉄砲さが気になるんです。約束してもいいですか?」


 明知は、ドアをコンコンと二回たたく。


「コレが終わったら、私は無鉄砲なことをしません。ただし、あなたもしてはいけません。あなたが無鉄砲で危険なことをしたら、私は約束を破りますから」


「悪いけど、俺は自分から危険になんて入り込んでないからな」


 不満そうな左目の声が聞こえる。


 たしかに、彼は自分からは危険地帯に入り込んでいない。


 明知の言葉は、不愉快であったことだろう。


「そうですね……なら、今度から自分を一番に守ってください。他人が守ろうとか

を考えてはいけませんよ」


 それでも、明知は紫の王についてきた。


 それは、改めさせなければならない。


「横暴だろ、それ」


「横暴でかまいません。私は、あなたに生きていて欲しいんです」


 たとえ、誰かが傷ついても左目が無傷だったらかまわない。


 自分勝手に、明知はそう思う。実際に夜鷹や弦が傷ついたら、明知は傷付くであ

ろう。だが、今だけは左目だけの安全を願う。恋は、あまりに身勝手だから。


 明知は、闇の向こう側を見た。


 暗いホテルの廊下の向こう側から、口の周りを血で汚した紫の王が現れた。


「そこに左目がいるの?なら、彼を帰してほしい。彼は、ボクにとって最後の希望

だ。彼の全てが分かれば、ボクの全てが分かるのかもしれない」


 紫の王の目には、希望があった。


 生きていられる、という希望。


「そんなことはできません。あなたは、もう寿命なのです。大人しく真樹になっ

て、人間の人生を生きてください」


 モンスターの左目は、人間として生きることを選択した。


 紫の王も、そうなるべきなのだ。


「ボクは、生きたい!」


 紫の王は、明知に接近する。そして、二人の間には紫の王が作り出した血の壁が

出現する。明知はその壁に押し切られ、屋上のドアごと背中から倒れこんだ。


「明知!」


 屋上にいた左目が声を上げる。


 紫の王は、顔を上げた。


「そこにいたんだ……君なら、理解できるよな。ボクのことを。あんな目で見てい

たんだから」


 紫の王は、助けを求めるように左目に手を伸ばした。


 できることならば、その手をさえぎってしまいたい。


 明知はそう願ったが、左目は逃げようともしなかった。ただ、左目は紫の王を見

る。夜鷹の情報に間違いがないのならば、真樹と左目は血を分けた兄弟だ。


 同じ体質で――同じように完全にはモンスターにはなりようがない存在。なのに、二人はぜんぜん似ていなかった。


 左目の顔立ちは幼く、真樹の顔は年相応だ。左目の髪は黒々としており、真樹の髪は染めているのかうっすらと茶色い。あまりに似ていないから、今まで兄弟だとは誰も気がつかなかった。


 血とは――家族とは、見た目だけでは判別できない。

 なくなったのは、当然だ。


 もう、血のつながりなんてなんの役にも立たない。


「なぁ、紫の王。俺は、おまえのことをかわいそうだと思うよ。おまえはたぶん紫の王になるために、すごい努力をした。その努力がこんなふうに無にされるのは、嫌だよな」


 左目は、目を閉じる。


 何を言うのか、と明知は不安になった。


「なら……私に協力してください。私は吸血鬼として生きたい。人間になんて、も

どりたくない!!」


 紫の王の叫びを、明知は血の壁に潰されながら聞いていた。


 死にたくない、今の自分のままで生きていたい。


 紫の王の叫びは単純だ。彼は、その単純な欲求にために人間の若者をさらって吸血鬼へと転化させて血をすすった。それでも紫の王の寿命は延びず、同じ体質の左目の体質を理解することに希望を見出した。


 きっと紫の王の目には、左目の姿が輝いて見えることであろう。


 生への可能性に満ちているように思われるだろう。


「でも……嫌だ」


 左目は、そう答えた。


 生を求める者に対して、この世で一番残酷な言葉であった。


「紫の王……おまえを助けることは、俺自身を危険にさらすことだ。それで、明知が怪我したらすごく嫌だ。だから、俺はおまえを助けないよ」


 その言葉に、紫の王は呆然としていた。


 明知も言葉を失う。


 左目が、ここまで残酷なことを言うとは思わなかった。


「そんな、理由で……君は」


 紫の王もまた言葉を失う。


 だが、左目は揺るがない。


「ああ、俺はそんな理由でおまえを見捨てる」


 ぞっとするほどに残酷で、ほっとほどにたくましい姿。


 明知は、それに左目の決意を見た。


 彼は、きっと明知との約束を守ってくれるだろう。どんなに残酷な窮地に陥っても、彼は自分の身を守ってくれるだろう。明知を守るために。


 明知は、紫の王の壁を蹴り上げる。


 紫の王は、明知から距離をとった。その目には、明知への嫉妬があった。左目の全てを手に入れた明知への嫉妬である。


「明知、君を殺せば左目は……こちらに来てくれるかな?」


 紫の王は、尋ねた。


「それは……駄目です」


 明知は、そう言った。


 ただ感情だけで「駄目」と言った。渡したくないと思った。信頼も約束も情愛も、左目が自分に向けている感情は何一つとして紫の王には渡したくはないと思った。


「それに、あなたはもう私の血を飲んだ」


 明知は、自身の胸に手を当てる。


 どくん、と血が流れている。


 自分の体のなかに、吸血鬼の親から受け継いだ血が流れている。


「私が親から受け継いだ能力は、王殺し。ですが、王を殺した実績などありません」


 明知の能力は、自分の血を内部から外部へと押し出す能力。


 それを武器にも出来るが、能力の根本はそれである。明知の全身の皮膚から、血の槍が飛び出す。明知は文字通り血まみれになり、紫の王の元に槍は飛んだ。


「そんな自爆技……避けることさえできれば、次はないから怖くない」


 その通りだ、と明知は思う。


 血だらけになりながら、明知はそう考える。弦も、明知が受け継いだものは自爆

技だと言った。そうなのである。


 本来ならば明知の血は、明知と明知に能力を受け継がせた親しかもっていない。

だから、本来ならばこの技の被害者となるのは一人だけなのである。


「ええ、これは自爆。ですが、あなたが私の血を飲んでいれば」


 明知は、紫の王に目を向ける。


「ぐほ……」


 紫の王の口から、血が滴る。


 紫の王は、一体何が起こったのかわからないようだった。彼の胸からは、小さな棘が突き出ている。その棘は槍であり、紫の王の心臓を突き刺していた。


「……私の血を飲めば、王でさえ殺すことができます。私の血は、あなたを内部から突き刺すのです」


 知っていれば、紫の王は明知の血を飲まなかったであろう。


 「明知!」


 左目は、明知に駆け寄った。


 膝を突いていた明知だったが、すでに喋るような気力はなかった。元々血が足りなかった上に、さっきの技で血を流しすぎたのだ。歩けず喋れずにいる明知の首筋に、左目の指が添えられる。


「脈はあるな……おまえ、自分で言っているそばから無理するな。俺が無茶しないかぎりは、おまえも無茶しないんじゃないのかよ」


 左目は明知にまだ息があることを確認して、ホテルの内部へと引きずる。


 もう空は、白くなり始めていた。吸血鬼は、日光を浴びれば灰になって儚く死ぬ。左目はそれは許さないと念じながら、ホテルのなかへと運び込む。


「左目さん……」


 やっと明知は、左目に語りかけることができた。


 左目は、明知をホテルの内部まで運びこむと大きく息を吸い込んだ。


「ちょっと待ってろ」


 左目は、再び屋上へと出た。


 何をする気なのだ、と明知は無理やり体制を変えて屋上をのぞく。


 そこでは、左目が倒れた紫の王へと手を差し伸べていた。


「おまえは、まだ人間として生きられる」


 生きたいのならば手を取れ、と左目は言った。


 さっきまでの叫びを聞いて、紫の王が人間として生きたいとなんて思うはずもな

い。それでも、左目は尋ねる。生きて欲しいのだろう、と明知は思った。


 左目は、真樹と廃墟のホテルで喋った。


 だから、生きて欲しいと願っているのだろう。


 左目は、夜鷹だけを救いたかったのではない。


 真樹もまた、救いたかったのだ。



 紫の王は、左目の手を振りほどいた。


 そして、這ったまま屋上を進む。左目は、それをもう止めようとしない。誰が何を言っても、彼の歩みを止めることは不可能だろう。


「嫌だ……人間になんて戻りたくない。私は吸血鬼で、ずっと吸血鬼で……つまらない人間になんて、戻るものか」


 紫の王は、怨念を呟く。


 明知は、それを聞いていた。聞きながら、考えていた。今の自分が人間に戻ってしまうとしたら、それを喜ぶかと。


 喜ばないであろう、と明知は思った。


 左目と同じ時間を生きられるとしても、明知の自己は吸血鬼として固定されてしまっている。吸血鬼をやめて人間に戻るということは、明知にとっても死に等しいことであった。


 それでも、たとえ寿命を延ばせるとしても明知は吸血鬼の血をすすらない。若者をさらって吸血鬼にし、それを浴びるほどは飲まない。


 なぜ、と問われれば答えはすぐに出てくる。


 したくないからだ。


「紫の王、あなたは……なぜそこまで死にたくないと願ったのですか?」


 問いかけながら、明知は目を瞑る。


 日光が昇る。


 左目は、その光景を見ていた。


「ああああっ、熱い!燃える、死んでしまうっ!!それでも、戻りたくはない……!!」


 紫の王は、悲鳴を上げた。


 全身を掻き毟り、もだえながら屋上を紫の王は転げ回る。痛みと熱さの苦しみを味わいながら、紫の王は左目に助けを求めなかった。紫の王はなおも苦しみもがき、最後に左目の足を掴んだ。


 左目はぎょっとしたが、紫の王もまた驚いていた。


 どうやら、紫の王は無意識に左目の足を掴んでいたらしい。


 焼け爛れる、皮膚。


 灰になって行く、肉体。


 死と苦しみの狭間にいる紫の王に、左目は手を伸ばすことはなかった。紫の王も左目に助けを求めずに、苦しみもがいて悲鳴を出し切って――灰となった。 


 それは、最後まで彼が吸血鬼でいた証拠だった。


 風がふけて飛んでいけば消えてしまうものこそが、紫の王が最後まで守りとした

矜持であった。


「なぁ、明知」


 左目は、口を開く。


「こんなふうに死ぬのなら、生きてるってことに意味なんて……」


 尋ねかけた左目は、ふいに顔を上げる。


 本当に生きていくことの意味を明知に答えて欲しかったのに、その瞬間に左目は質問しようとしたことなどどうでもよくなった。


 寂れたホテルの屋上から日光は、あまりに美しかった。


 どこまでも続く緑の森に、自分たちが住んでいる町がぽつんとある。それら全てを太陽が照らしていて左目は「ここがあなたの世界です」と誰かがささやく声が聞こえたような気がした。その声は、自分のものとよく似ている。


「明知」


 左目は、室内に運び込んだ明知のほうへと足を向ける。


 彼は、血を流しすぎていた。


「とりあえず、おまえは俺の血を吸え」


 左目は、首筋を自分で露にさせる。


 朝の空気が少し冷たい。


 それに、左目は身震いする。それでも、左目は自分の首筋をさらした。この若いだけの皮膚や血は、吸血鬼にはおいしそうに見えるのだろうか。左目は、そのことを少しばかり不安に思った。だが、明知はそんな思いを知らずに「すみません」とだけ告げる。


 今の状態が、本当に危ないからだろう。


 左目は何も言わずに、明知に首を差し出す。明知は左目の首筋に口を近づけ、その息が左目の首筋にかかる。吸血鬼の息は冷たく、その肉体が冷えていることを知らせる。


 暖められるのだろうか、と左目は考える。


 冷たい明知の唇が、左目の首筋に触れる。氷を押し当てられるよりは温く、人の唇が押し当てられるよりは冷たい感触。走る痛みは、突き立てられた牙の痛みだ。


 首筋に痛みを感じながら、左目は呟く。


「なぁ、俺はどうしてもう一人の自分がここに来たかったのかがわかった」


 明知は、血を吸うのに忙しく左目の話など聞いていないだろう。


 それでもいいと左目は思った。


 左目は、母親の母乳を飲んだことがない。明知はもしかしたら、飲んだことがあるかもしれない。でも、もしも与える側になったとしたら、このような気持ちになるのかもしれないと左目は思った。限りなく優しくて、限りなく傲慢な気持ちだ。無力な自分に牙をつきたてる相手をただ許すというのは。


「あのな、明知。ここから見る太陽は本当に綺麗で、新しい人生が始まるみたいだったんだ。あいつはここに死ぬために来たっていったけど、新しく生まれるために――俺に太陽を最初に見て欲しいからやってきたんだよ」

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