第28話たどりつく夜
片足が潰れた。
壁だと思っていたものは、紫の王が受け継いだ業の結晶であった。質量を増幅できる壁は、明知が予測していたよりもずっと利便性に優れた能力であった。
明知は、青の能力を自分と同じ射程しかないと予測した。
それが間違いであった。
紫の王は、離れた場所に血の壁を出現させることができた。明知は、質量の増し
た血の壁にはさまれた。完全にはさまれる前に逃げたが、片足は潰された。
回復させなければ、と思う。
だが、血が足りない。
肉体の全てを回復させれば、間違いなく動けなくなってしまう。紫の王の前で、そんな隙を見せればきっと文字通り食い物にされることであろう。
明知は、全身をめぐる血に意識を集中させる。
立ち上がれる程度になればいい。
砕けた骨を、切断された筋肉や欠陥を集中させる。全部は治さない。
痛みが徐々にひいていき、うっかり苦しみから完全に逃げそうになる。だが、意志の力で痛みからは逃げない。痛みから逃げるためにすべてを修復すれば、血が足りなくなって動けない。
まだ、紫の王の姿は見えない。
最初に引き離したのが功をそうしたが、時間が経てば紫の王はこちらに追いかけてくるだろう。だから、はやく足を最低限回復されて逃げなければ。
「つ――血が……」
歩こうとするが、想像以上に潰れた足が回復していない。
痛みが脳を突き刺し、足は動かない。
床に無様に倒れて、這いずるように明知は前に進む。
「血が足りない……」
血が欲しい。
足を回復させるために血が欲しい。
紫の王から逃げるために血が欲しい。
左目を助けるために血が欲しい。
「なんで、おまえがこんなところで血を流しているんだよ」
声が、上から降ってきた。
明知は顔を上げる。
そこには、左目がいた。
首筋をさらした左目は膝をつき、明知に近づく。
「とりあえず、飲め」
「私は……あなたを」
「そんなのどうでもいい」
左目は、きっぱりと告げる。
明知が見た、左目の顔は複雑なものであった。悲しいような、怒っているような、あまりに複雑だったから表情だけで左目の感情を読み取ることは不可能だと明
知は思った。
「今は、吸え。殴ろうと思ったけど、あとだ」
明知は、さらされた首筋に牙を沈める。
血の味が、口の中に広がった。
こんなときなのに――こんなときだからこそ、血はすごく美味しい。
「駄目です……」
明知は、左目から離れた。
左目の顔を再び見れば、彼の顔色は白い。これ以上吸血をしたら、左目の体を壊
してしまうかもしれない。それは、明知が望むことではない。
「もう、血は大丈夫です。歩けるようになりました……あの、左目さん。どうして
ここに?」
明知は、左目を探すつもりでいた。
だが、逆に左目のほうから明知を見つけてしまった。
「てっきり、身動きができない状態かと思っていました」
「……紫の王が真樹だったから、自主的に大人しく捕まっていただけだ。抵抗する
気がなかったら、あっちも縛ったりとかしなかったし」
左目は、目を伏せる。
彼は紫の王の正体を知ったからこそ、紫の王について行ったのだ。
「夜鷹のことが心配だった」
「それは……あの紫の王の正体を知れば、誰でもそう思います」
紫の王の一番近くにいるのは、夜鷹である。
彼女を知っているならば、夜鷹から少しでも紫の王を引き離したいと思うことだ
ろう。
「でも……ここで、おまえの血の匂いを感じた」
「私の血?」
「ああ、どこかで嗅いだことのある血の匂いだった。きっとアパートのときだと思
う」
その血は、明知のものではない。
左目は勘違いしているが、明知のアパートに散らばっていた血は明知のものではない。明知が飲めずに吐き出した、愛人の血である。だから、もしも左目が明知の血の匂いをかぎ取れたとしても血の匂いが合致するはずがないのだ。
「いや、違うか……なんか匂いを感じたときに血の味も思い出したし」
「左目さん、あなた……」
明知は、一度だけ左目に噛まれた。そのとき左目は人狼と化しており、明知の肉を噛み、血を飲んだことでグール化した。そのときの記憶が、うっすらと残っているのだろうか。それとも消えたモンスターの左目が、人間の左目と同化したのだろうか。
「まぁ、どうでもいい。俺は、おまえを殴りに来た」
「……意味が分からないのですが」
明知は、左目を助けに来たのだ。
実際は助けられてしまっているが、それでも殴られる理由が分からない。
「前々から少し思ってたけど、おまえ弱いだろ」
左目は、はっきりと言い切った。
明知は、唖然とする。
「そっ、そんなに弱いほうではないのですが」
「だって、グール相手にも逃げるしかなかっただろ。アパートでも怪我して倒れていたし」
「グールは強いんです。アパートのアレだって、色々と理由がありまして……」
「だから、もう俺を助けになんてくるな」
左目は、そういった。
「俺だって、他人を守れる。おまえが愛人だからとかいう訳の分からない理由で、俺を守ろうとする理由はないんだ。現に、おまえは俺に助けられただろ」
明知は、左目を突き飛ばした。
未成年の左目の体は明知よりも細く弱く、簡単に距離を取らせる。
「笑わせないでください」
明知の声は低い。
「あなたは、誰も守っていない。あなたの行動は夜鷹を守ったかもしれませんが、あなた自身を危険にさらした」
それは、誰も望まないことであった。
「俺は、大丈夫だ」
明知は、強く左目の手を掴んだ。
左目の目が見開かれ、明知はいまだかつてない強い口調で左目に攻め寄った。
「あなたこそ、なんの実績があって大丈夫だと豪語しているんですか?」
「実績……」
左目は戸惑う。
仕方がないことだ。左目はまだ十八歳で、何かを成すにあまりに幼い。明知もそのことを知っている。だからこそ、今強く言わなければならないと思った。
「私は、あなたが弱いと感じても百年を生きた吸血鬼です。夜鷹は、見た目はあれでもモンスターにも恐れられる存在です。あなたは、なにもやってはいない。他人を安心させる実績を何も作っていないなら、大人しく守られていてください」
左目は、男子だ。誰かを守れるし、誰かを守るべきだと思っているだろう。その心根は正しく、気高い。だが、それでも左目はまだ子供なのだ。無意識に、誰かに守られてしまう子供なのだ。
「俺は……大丈夫なんだ」
その言葉は、強がりではないだろう。
左目自身は、そうだと信じていた。自分は大丈夫であると。それは若い時分だからこそ強く思うことであるだろう。だが、人間の若者は自分たちが思うよりもずっと弱いのだ。
「左目さん」
明知は、左目の手を引いた。
左目は、明知の胸の中に落ちる。冷たく硬い感触がした。吸血鬼に体温はない。だから、胸の中に落ちても冷たいままなのである。
先ほど左目の血を吸わせてもらったおかげで、足の修復は終わっている。今だったら逃げられるし、逃げなければならない。けれども、今だからこそ言わなければならないと思った。今、言わなければ正しくは伝わらないと思った。
「あなたは、これから何かをする人間なんです……だから、あなたが実績を作るまで私に守らせてください。私は、あなたにだけは生きていて欲しいんです」
立ち上がった明知は、走り出す。
逃げなければならないと考え、はっとする。
「じっ、時間!」
もうすでに日が昇る時間になりつつあり、明知は焦った。朝日が昇る前に、夜鷹の車まで帰る予定であった。そのために夜鷹に日の光が避けられる車を運転してきてもらったのに、今からでは間に合いそうにない。
「左目さん、屋上に行きますよ!」
明知は、上に向って走る。
「この時間に外にでたら、おまえが灰に!」
「屋上に出るのは、あなただけです……」
明知は、左目に自分のタブレット型の補助機を持たせた。
さび付いていたドアを蹴り破り、明知は左目を屋上へと放り出した。日が昇れば、吸血鬼は屋上へと迎えない。左目は安全である。その間に夜鷹を呼べば、左目
の安全は確保できる。
「おまえ……」
「もしも、日の出前に紫の王がここまできたら足止めします」
明知の言葉に、左目は目を見張る。
「おい、負けるだろ。おまえは弱いのに」
左目の言葉を、明知は聞かないようにした。
明知は、前方の闇を見ていた。
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