第26話戦闘の夜

 吸血鬼になりたい。


 完璧な吸血鬼に、なりたい。


 紫の王は、常にそう願っていた。紫の王は吸血鬼になった瞬間から、人間に戻ることが決定されている。人間に戻れば、紫の王だった時間の記憶は消える。


 代わりに、何も持っていない人間の人格が現れる。


 あの人格は、特に何も残すでもなく、ごく普通に生きて、ごく普通に死ぬのだろう。そんなの嫌だ。紫の王は、前の王から王の位を継いだ。たとえ、そこに何の意味も拘束力もなくとも紫の王という名前と称号は紫の王が唯一持てるものだった。


 それが、ただの人間に塗りつぶされる。


 ――怖い。


 ――嫌だ。


 紫の王は、吸血鬼になりたい。


 吸血鬼のままでいたい。


 偶然に見つけた自分の同胞も、そのように願っていると思っていた。だが、彼は

紫の王の手から逃れた。逃れて、逃れて、とうとう帰ってこなくなった。


 死んだのである。


 いくらあの人間が血を飲もうと人狼に噛まれようとも、彼は帰ってこない。


「信じない……ボクの肉体はまだ生きている。なのに、どうして寿命だけが早く訪れるんだ。ボクは、まだ生きたい。生きたいのに」


 紫の王は、願う。


 カミサマ、カミサマ、どうか自分を生きながらえさせてください。


 それが叶わないのであれば――……。


 紫の王は、目を開けた。


 その瞬間、目に入ってきたのは一人の吸血鬼であった。


 若い男の吸血鬼である。


 髪は長く、背が高い痩身の吸血鬼。目には何の感情もなく、鋭い爪の先が紫の王に伸びようとしていた。音だけではなく、気配を殺して――彼は紫の王に接近していた。


「くっ!」


「っつ、気づかれましたか」


 紫の王は、吸血鬼の男から離れる。


 見覚えがある顔であった。


 恐らくは、紫の王が人間であったころに見知った人物なのだ。その証拠に、吸血鬼は呆然としている。


「気配を殺してここまで接近するなんて、やるね――君は明知だね」


「あなたは――真樹さんなのですか」


 紫の王は、久々に人間の自分の名前を聞いた。


 明知は、驚きのあまりよろける。


「あなたは……調停機関の人間で、どうして。でも、あなたが紫の王ならば、確かに夜鷹は簡単に追跡できます。なにせ、あなたは人間のときにずっと……夜鷹の側にいたのですから」


 明知の言葉に、紫の王は舌打ちをしたくなった。


 真樹が慕う夜鷹は、厄介な存在だった。調停機関の職員で頭が切れて、明知という吸血鬼を駒のように扱うことができる人間。始末しなかったのは、厄介な存在でも人間だったからだ。


 自分が見捨てる人間が、自分の足を引っ張るはずがない。


 そう思ったからこそ、紫の王は夜鷹を放置した。


 だが、その夜鷹は明知を紫の王の眼前によこした。


 明知は、深呼吸する。


「……真樹さん。調停機関の夜鷹の代わりに、あなたに自首をお勧めします」


 その言葉に、紫の王は呆気に取られた。


 気配すら悟られずに、ここまでやってきた吸血鬼がいうにはあまりに間抜けすぎる一言だったからである。


「冗談だろ」


「いいえ。真樹さんを助けるために、夜鷹ならばそういうと思います。だから、言っただけです。あなたが、それを受け入れられないのは分かっていました」


 紫の王は、明知の言葉を聞いて何故かほっとしていた。


 受け入れられないのが分かってもらっていたことが、とてもうれしかった。自分を理解してもらったような気さえした。


「ですが、私にとってはどうでもいいのです」


 明知は、床を蹴る。


 紫の王の眼前に、明知がいた。


 彼の鋭い爪があった。紫の王は、自らの指に噛り付き血を噴出させる。


「鉄壁の――!」


 薄い血の皮膜が、明知を覆おうとする。


 明知は、すぐさま後方へと跳んだ。


 床に着地した皮膜は床に着地し、見た目を裏切る比重で床をへこませた。


「――解除!!」


 紫の王の一言で、血の幕が消える。


 どうやら、あの血の幕は紫の王の任意で重さや厚さというものが変えられるらしい。すぐさま消したということは、体内の血は解除すると本人の元に戻るのかもしれない。


「エコの精神に根ざした能力ですよ、まったく……ツダと戦ったときに、当時の私があれを食らえば殺されていましたね」


 今のはくると分かっていたから、避けることができた。


 そして、紫の王の出自からツダから能力を受け継いでいることも予測できていた。故に、明知は紫の王の能力を知るために攻撃をしかけたのであった。


「さて――では、逃げさせていただきます」


 明知は、ドアから逃げ出す。


 その背中に、紫の王は唖然としたことだろう。


 明知は、最初から紫の王と戦う気などない。左目を連れ戻し、廃墟のホテルを離れることができれば明知の勝ちなのである。


 紫の王は、長くは生きない。


 ここで何が起ころうとも、いずれは消えるであろう。


 だが、紫の王が持っているだろう能力が問題だった。彼がどんな能力を持っているか分からなければ、左目を救出した後に悪戯に危険にさらすことにもなりかねない。だから明知は気配を殺して忍び込んだのに、わざと見つかったのだ。


 そして、紫の王が継承した能力を見定めた。


 明知が継承した能力と違い、紫の王が継承した能力は利便性が高い。わずかな出血で盾として使用でき、その後は相手を押しつぶすこともできる。


 だが、その能力の内容を知ってしまえば恐るべきものではない。


 ツダが使えば、明知はなす術もなく殺されていただろう。


 だが、戦闘経験がほぼないと思われる紫の王相手ならば恐れることはあまりない。正面から向き合わず、射程の範囲外にさえ逃げていれば――。


「離れていれば大丈夫と思ったの?」


 遠くから紫の王の声が聞こえ、明知が走っていたホテルの廊下の壁が傾いだ。


「まさか……――」


「そう、それもボクの能力。圧死してしまえ」


 予想外だった、と明知は思う。


 自分の能力と紫の王の能力の射程が同じだと考えた明知は、接近しなければ紫の王の能力は脅威がないと判断した。その初歩的のミスは、明知自身に戦闘の経験が

少なかったことと能力持ちの吸血鬼と会った経験がほぼなかったことにあった。


 自分と同じだ、という思い込みで明知は見落とした。


 紫の王の能力の射程は、明知よりもはるかに長い。


 自分に向かって落ちてくる壁は、血と同じ色をしていた。

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