第24話望みの夜

 埃の匂いがした。

 

 なんとなく、見覚えのある場所だ。遅れて、この場所が廃墟のホテルの一室だったと気がつく。ベットなどの家具はなく、はがれそうになっているカーペットだけがかつてホテルであったころの名残を残していた。窓すらない部屋には、息苦しさがある。別に左目は、縛られているわけではない。ただ目の前に、モンスターが二人もいた。

 

 ただの人間では、それを振り切って逃げることは不可能だ。それに左目には、逃げるつもりもなかった。

 

 逃げたら、左目が知っている人間が死ぬかもしれない。

 

 吸血鬼たちは、それ口にしたわけではない。それでも彼ならば、自身の存在自体が脅しになっていることは分かっているだろう。

 

 左目は、血を飲む。

 

 だが、いくら飲んでも肉体に変化は起こらない。

 

 本当ならば、吸血鬼や人狼になってもおかしくはないのに。


「人狼は……噛まれるとなるんだっけか」 


 左目は、口元を袖でぬぐう。


 こみ上げてくるのは、吐き気である。だが、もう吐き出すだけのものは胃袋に残していない。吸血鬼の味覚は、人間の味覚と同じと聞く。


 だとしたら、明知はすごい。


 こんなものを必死に飲んで、あんなに幸せそうな顔をできるなんて――すごい。人への情がすごい。


 吸血鬼は人への愛情で、血の味をごまかしているという。自分は、かつての友人の血を飲んだというのに吐き気ばかり。


「みんな……吸血鬼になってたんだな」


 左目は、ぼそりつ呟く。


 行方不明になっていた左目以外の人間全員は、吸血鬼になっていた。そして、彼らは紫の王に血を絞り取られて死んでいた。左目だけが、モンスターの左目だけが紫の王から逃れて生き延びた。


「どうして……」


 左目の隣で、紫の王は嘆く。


「どうして……どうして……どうして、君は吸血鬼に戻らない」


 自分は元々が人間だ、と言う言葉が胃酸で焼けた喉では出てこない。


 おまえも人間だ、という言葉も出てこない。


 一人の先輩に憧れて、それを誇っていた人間なのだと左目は言いたかった。


「紫の王……もうストックの吸血鬼の血が」


 道化のようなモンスターの男が、紫の王に語りかける。


 左目をここにつれてきたのも彼だが、紫の王の前に立つと彼はおろおろするばかりであった。それほどまでに、紫の王は強いのだろうかと左目はひっそりと思う。


 残念ながら、左目は吸血鬼の序列のことは詳しく分からない。それでも、王を冠するほどなのだから偉いのだろうとことは分かる。


「黙れ、おまえの血を抜いてやろうか!」


 紫の王の言葉に、モンスターの男が震え上がる。


 小作りな道化のような顔は、いっそう漫画じみて拍子抜けする。きっと紫の王もそう思ったのだろう。柔らかな表情をモンスターの男に向けた。


「冗談だ。……冗談だ、青」


 この道化じみた男は、青というらしい。


「ボクは欲しいだけなんだ。ボクがずっと、ボクでいられる術を。ずっと紫の王でいられる――術を」


「そんな……ものはない」


 吐きすぎたせいで、胃酸でかすれた声で左目は言う。


 左目は、吸血鬼の飲んでも、人狼に噛まれても、モンスターにはならない体質だ。だが、過去には一時だけモンスターになるときに別の人格が現れていた。


 彼に名前はない。


 あったのかもしれないが、左目は知らない。


 もう、彼は消えてしまったらしい。


 だから、左目は二度とモンスターになることはない。消えてしまった選択肢は愛しが、それは消えてしまったから愛しいだけである。目の前の男のように執着はしていない。


「おまえは……人間だろ」


 左目は、彼の名を呼んだ。


 いや、人間であった彼が名乗っていた名前。


 今は違うかも知れない名前。


「ボクは、紫の王なんだ。真樹だなんて、つまらない人間の名前じゃない」


 見知った男の顔をした吸血鬼は、苦しそうな顔をした。


 左目は、覚えてなどいない。


「かつて、君とボクは同じ吸血鬼――ツダの血を飲んだ」


 覚えていない。


 それは、左目が所有していない記憶であった。


「ボクたちは、王候補だった。ツダは紫の王に相応しい、自分の血を飲んでも死なない人間を探してた。ボクたちは、唯一死なない人間だった。でも――君は人に戻った」


 紫の王は、目を閉じる。


「吸血鬼になったのに、王になったのに――ボクらには限界があった。ボクらは、人間に戻るタイムリミットがあった。でも……なんでそんなのあったんだろうな。なければ、よかったのに」


 左目は、目を閉じる。


 ああ――そうか。


 だから、紫の王は人間を誘拐したのだ。さらった人間を吸血鬼にし、浴びるように血を飲んだのであろう。だが、それでも紫の王の吸血鬼としての寿命を延ばすことはできなかった。


「君は、もう吸血鬼にはならないの。あのモンスターには……ならないの?」


 縋るように、紫の王は左目に尋ねた。


 さらってきた相手にするような表情はではない、今にも泣きそうな顔。それは幼子のようで、左目は級友の死体の血を飲まされているのに胸が高鳴った。


 自分は、人でなしなのかもしれない。


 級友の死体から血を絞り取られて飲まされても、子供のような紫の王の瞳に同情してしまう。あるいは、この世で左目だけが紫の王の無念を理解しているせいなのか。


 ――もう、なれないと諦めるしかない悔しさと愛しさを知っているからなのか。


「なぁ、人間ってそんなのどうしようもないものなのか?」


 左目は、口にする。


 左目には、人間の記憶しかない。


 だから、人間は素晴らしいと思う。そこしか、知らないから素晴らしいと思う。


「ボクにとってはそうだよ。ボクは、紫の王になれた。でも、人間に戻ればボクは

その資格を失う」


 紫の王は、悲しそうな目をしていた。


「吸血鬼の血を飲んで、吸血鬼になるほどに……ボクの寿命は減っていく。君は、

一足早く逝ってしまったのか?」


「まだ……俺は生きてるだろうが」


 左目は、紫の王の言葉を否定する。


 モンスターの左目が、その寿命を終えたとしても左目自身はまだ生きていた。


「吸血鬼になれない君なんて、死んだと同じだよ」


 紫の王は、人間に何も見出さない。


 きっと紫の王の人間の姿が、他人に憧れるだけで何も持っていないからなのだろう。


「ボクは一生を吸血鬼のままで過ごしたい」


 紫の王は独白し、左目は王を見た。


「君を分かれば……ボクが分かる。僕らは、同じ体質なんだ」


 紫の王は、殺したがっているわけではない。


 ただ、生き残りたがっている。


 そのために、左目と自分の体質を解明したいと思っているのである。自分と同じ

体質だから、隅々まで調べればきっと分かると思っているのだ。


「左目、君はツダを覚えている?」


 紫の王は、左目にそう尋ねた。


「知らない。名前も聞いたことがない」


「……ボクたちはツダに――前の紫の王に吸血鬼にされた。吸血鬼の王の力を受け継がせるために、彼は人間に血を与え続けた。でも、彼は年を取りすぎていて血が毒になっていた。もう普通の人間は、彼の血に耐えることが出来なかった。唯一、耐えることが出来たのがボクらだ。でも、君はボクよりも随分とはやく人間に戻ってしまった」


 絶望だった、と紫の王は語る。


「夢が覚めるみたいに――全てを忘れて、ボクらは人間に戻る。吸血鬼である間に、いくら努力を積み重ねても……人間に戻ってしまう」


 紫の王にとっては、それが絶望であった。


「仕方がないだろ。そういう体質なんだから」


 左目は、モンスターになることに夢もロマンも抱かなかった。


 人間のままで、ずっと生きていくつもりだった。


 それでも、紫の王の気持ちが理解できるのは失った選択肢が愛しいだけ。


「なんで、完全な吸血鬼になれないんだ……なんで、人間に戻るんだ」


 紫の王の吸血鬼としての寿命は、きっともう尽きかけている。


 左目でさえ、そうだったのである。


 紫の王が死に掛けているとしても、おかしいことはなにもない。


「うあ……」


 紫の王は、頭を抱えた。


「人間に……また、人間に戻り始めてる。どうしよう、もうだいぶ吸血鬼でいられる時間が短くなった。血を――……血を飲んでこないと」


 紫の王は、苦しむように部屋を出て行った。


 左目は、息を吸う。


「吸血鬼は……みんな、ここが好きなのかよ」


 友人の血で汚れた口を袖でぬぐいながら、左目は誰に尋ねるわけでもなく呟く。


 廃墟のホテル。


 モンスターの自分もここに来たがった。何も特別なものはないのに、ここに来たがっていた。左目には、その理由がまったく分からなかった。


「本当に、なにも覚えていない……ここで、あんたは吸血鬼になった。そして、吸血鬼から人間に戻ると決めたのもこの場所だった」


 青が、口を開く。


「おまえは、紫の吸血鬼か?」


「ああ、もうずっと紫の王に協力してる。なぁ、あんたは本当に吸血鬼だったころのことを覚えていないのか?」


 青は、恐る恐る左目にたずねる。


 左目は、首を振る。


「本当に覚えていない……」


 モンスターであったときの記憶を左目は、所有していない。


 だから、ここがどんな場所なのかも分からない。


「昔――ツダっていう、吸血鬼がいたんだ」


 青は、ぽつりとぽつりと話し始める。


「そいつは周りには隠していたけど、紫の王だった」


「吸血鬼は……自分の血を吸わせた相手を次の王にするのか?」


「ほとんどの吸血鬼の王は、もう違う方法で後継者を探してる。でも、ツダは年寄りだったから昔のやり方に固執していた。人間の子を育てて、その子に血を飲ませるはずだった。でも、ツダは人間に血を飲ませていくなかで、自分の血がすでに毒物になっていたことを知った。それを育てていた子に与えるほどの勇気はなくて……事故現場から助けた子供に与えたらしい」


「それが、俺か」


 青は、頷く。


「でも、あんたは人間に戻った。ツダはあんたの血縁者を調べて、今の紫の王にも血を与えた。紫の王は死ななかったが、徐々に人間に戻っていく……それでも紫の王はあんたと違って吸血鬼を望んだ」


 望んでも、吸血鬼でいられる時間は限られている。


 紫の王は、浴びるように血を飲んだ。


 吸血鬼をさらえば、犯人が吸血鬼だと簡単に露見する。だから、人間をさらって

いた。


「悪夢なんだろうな」


 ぼそり、と左目は呟いた。



「いつかは覚める幸福な夢は……悪夢なんだろうな」

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