第21話紫の王
左目は、寮に帰っていた。
真っ直ぐに自分の部屋に戻り、一人であるということを再確認すると大きく息を吐いた。今まで呼吸するのを我慢していたかのように、肺の空気を全部出した。そして、ゆっくりと床に座り込む。
「あの……ばか」
左目は首筋を押さえる。
弦から連絡が来たとき、左目は耳を疑った。明知が死に掛けているだなんて、本当に嘘だと思った。それでも駆けつけると、本当に明知は血を流して倒れていた。
自分のせいなのかもしれない、と思った。
自分が明知の忠告を破って廃墟のホテルに行ったから……かもしれない。
自分がグールに追われていたから、明知が怪我をしたのかもしれない。そう思うと、たまらなくなった。怖くて、たまらなくなった。
「どうして……あいつが死にかけたんだよ」
怖い。
怖くて、息ができない。
「あいつ、強いのに」
明知は、グールと戦えていた。
勝つことはできなかったが、逃げることはできた。
なのに、今日は死にかけていた。
明知に怪我を負わせたのは、グールなのかもしれない。少なくとも左目は、グール以外で明知に怪我を負わせられる存在を知らなかった。
グールは、廃墟のホテルに向かっていた自分を追いかけていたらしい。
左目は、明知に止められたのにそこに向かった。
きっと、そのせいで明知はグール襲われたのだ。
「なんで・・・・・・全部が裏目に出るんだよ」
薬を買いにいった友人たちだって、左目が足になどならなければ行方不明にならなかった。左目が良かれと思ってやったことが裏目にでた。
「くそ!!」
左目は、部屋の隅に向かってヘルメットを投げた。
きっと、壁にぶつかって大きな音をたてる。だが、ヘルメットは音をたてなかった。左目は顔を上げる。
「おっと、こんなものを投げるなんて危ないぞ」
部屋の暗がりの奥に、誰かがいる。
左目は、それを警戒した。
「だ……誰だ」
目を凝らすが、声の相手は見えない。
左目は、ピアス型の補助機に触れる。補助機は部屋の電化製品のスイッチもかねている。だから、左目がピアス型の補助機の操作をするだけで部屋の明かりがついた。
「いきなり明るくなったか」
明るくなった部屋にいたのは、男である。
背は低く、冗談みたいに尖った犬歯が道化のような印象を与える。
「自己紹介がまだだったな。俺は紫の……」
男が何かを言う前に、左目は飛び上がる。
唖然とした男の顔面に、左目は膝をのめりこませた。
「ふごぁ!」
「不法侵入者!!」
左目の跳び膝蹴りを食らった男は、部屋の床でのた打ち回っていた。
左目は、部屋の窓が開いていることを確認する。あそこから進入できる者など、人狼か吸血鬼以外はありえない。
「おまえ……モンスターだな」
「分からなくても、跳び膝蹴りなんてことをやったのか!!」
男は顔面を押さえながらも、怒鳴った。
吸血鬼であるから無傷であるが、もしも男が人間であったのならば歯の二三本は折れていたであろう。
「あてて、なんて若者だ。いや、なんて人間だ……ふごっ」
「不法侵入者が何を言ってやがる!」
左目は、男を蹴り上げる。
男は、股間を押さえていた。
どうやらモンスターとはいえ、急所は強化されていないらしい。いいことを覚えた、と左目は思った。今度から積極的に急所を狙って蹴ることにしよう。
「おま……人の話を聞け!!」
男は叫んだ。
「不法侵入者の言うことなんて聞いている暇があるか!!」
モンスターは人間よりも痛みからの回復が早い。
普通だったら、まだ悶絶しているはずなのに目の前の男はぴんぴんしている。
逃げるか、と左目は考えた。
だが、逃げる隙を得るには強力な一撃を相手に食らわせなければならない。人間の左目のそんな一撃は放てない。そして、逃げたところですぐに追いつかれる。
弦に電話で助けを求める、という手も考えた。
だが、弦がここに駆けつけるまで左目は一人ではしのげない。
「……あんまり生意気をやっているから、ホラ」
モンスターの男が、今まで彼を蹴っていた左目の足を掴む。
左目は、力を入れるがモンスターの男はびくともしない。
「圧倒的な力量さで逆転されてしまうぞ」
「そんなこと……分かってたさ」
左目は、懐に入っていたスプレーを取り出した。
それは、痴漢撃退用のスプレーだった。
「ここ数日でやたらとモンスターに絡まれるようになったからな。用心はしてたんだよ!」
これが有効なことは身にもって知っていた。
だから、廃墟のホテルに行くときに護身用に持っていたのだ。
「うわぁぁぁ!」
スプレーを浴びたモンスターの男は、目を押さえながら悶絶していた。
予想通りの結果である。
「よし、やっぱり効いた」
左目は、ほっとする。
経験からしばらくはもだえているはずだ。この隙に逃げて、弦に助けを呼ぶのだ。
だが、そう思った矢先に拳が飛んでくる。
早い――逃げることも避けることもできない。
だた、来るとしか感じることができない。
左目は、モンスターの男相手に油断も何もしなかった。ただ単純に両者の間には、絶対的な身体能力の差があっただけである。
「ごんな……スプレーなんで。息を止めてればぁ、なんとか、なる」
腹を殴られた左目は、倒れながらもモンスターの男を睨んだ。
モンスターの男の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃであった。元々、道化を感じさせる顔立ちであったからだろうか。今の表情には、奇妙に愛嬌があった。
「なんとか……なってないだろうが」
逃げなければ、と左目は這う。
腹の痛みが酷い。
それでも、逃げなければならない。
「にげ……ぐほっ、ぐほぉ、ほぉ!!」
モンスターの男が、咳き込みながらも左目の足を掴む。
左目は足を振り上げて、モンスターの男を蹴った。苦し紛れの蹴りなど、モンスターの男には利いていないようであったが。
「おどなしく……」
「大人しくなんて……できるか!!」
左目は、蹴ることを止めない。
モンスターの男も、左目を離さない。
「まったくもって、見苦しい」
声が響いた。
モンスターの男のものではない。
それでも、どこかで聞いたことのある声だ。
「むらざき……のおう」
「紫の王?」
モンスターの男が、紫の王と言った。
その言葉が確かならば、紫の王とは吸血鬼の代表の一角である。
「君は、人間の一人を連れて帰ることもできないんだね」
「おまえは……」
左目は、現れた紫の王に対して呆然とする。
「なんで、おまえがここにいるんだ」
その言葉に、紫の王は答えた。
「ボクは一秒でも長く、ボクでいたい」
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