第19話勘違いの夜

 弦が、アパート前で待っていると一台の暴走バイクがやってきた。


 恐るべきスピードを出していたバイクは急停車し、気のせいでなければその車体は三十度ほどの角度で浮いていた。


 暴れ馬のようだった。


 それを御す少年は、いつものように黒いライダースーツを身にまとう。


「……ひ、ひだりめ?」


 予想以上のスピードで登場した左目に、弦は面食らった。明知が死にそうだとは連絡したが、まさかこんなに早く荒々しくやってくるとは思わなかった。


「明知の奴、無事なのか!?」


 バイクから降りた左目は、弦に詰め寄る。

 人狼の弦は左目など簡単にひねり潰すことができるのに、今の左目からは恐ろしいほどの迫力を感じた。


だが、フルフェイスのヘルメットを取ったときに弦は自分が感じていた迫力は錯覚だったと悟った。


 左目は、息を切らしていた。


 いつもの黒いライダースーツ姿でフルフェイスのヘルメットを小脇に抱いて、左目は弦に尋ねる。


「明知……無事か」


「ああ――まだ生きてるよ。二階の端っこの部屋だから、行ってやれ」


 左目は、明知にヘルメットを押し付けた。


 そして、階段を駆け上がる。


 左目は息を切らしながら、明知の部屋のドアを開けた。


 ドアを開けた左目が最初に見たのは、部屋に散らばった血であった。それを見た左目はビクリと体を震わせるが、意を決したように室内へと入っていく。そして、ようやく部屋の中央で明知を見つけた。


「明知!」


 左目は、倒れていた明知に駆け寄る。


「弦から連絡が来て……おまえが死にそうだって」


「あなたが、考えているようなことではありません」


 心配そうな左目の顔に、明知は罪悪感に襲われた。


間違いなく、左目は明知が深刻な怪我をしたと思い込んでいる。床に血が散らばっていれば、人間ならそう勘違いするであろう。弦が勘違いしなかったのは、彼が優れた鼻を持っているからである。


「俺……昼間に、廃墟のホテルに行った。明知が止めたのに」


 明知の眉がぴくりと動く。


 左目が、そう動くことを明知は読んでいた。読んでいたから、グールに対する囮につかってしまった。グールが左目に害を加えないとは考えていたし、見張りの弦が口では文句を言いながらも「もしも」のときは手助けするだろうと思っていた。


「俺のせいで、グールっていう化け物に襲われたのか?おまえは、単に俺を見つけただけで無関係なのに……」


 泣きそうな左目の声に、明知は呆然としていた。


 左目は、明知と縁があるツダからグールの情報を得ていたとは知らない。だから、左目にとって明知は単に巻き込まれた吸血鬼なのだ。明知は左目が未成年であると思い、自分の考えや情報から遠ざけていた。だが、それは左目に罪悪感を抱かせることになった。


 明知は、左目がかかわっているからグールについて調べているのではない。


 ツダがかかわっているかもしれないから、グールについて調べているのだ。ことによっては、左目は吸血鬼の事情に巻き込まれてしまった人間と言う立場にすらなる。だが、左目にとっては明知のほうが、自分の事情にまきこまれた吸血鬼なのだ。


「左目さん……ごめんなさい」


「なんで、誤るんだよ」


「私は、あなたがグールにかかわっていなくとも彼らのことを調べていました。私の行動に、あなたの存在は直結していないのです」


 たとえ、グールに追われていたのは左目ではなくとも明知はグールのことを追おうとしただろう。だが、左目に心配される筋合いなどない。この飢えは、きっと罰なのだ。


「だから、あなたは私がどうなったって悲しむ必要はないのです」


 明知は、左目の頬に手を伸ばす。


 自分の手に付着していた他人の血液が、左目の頬を汚した。そのことが、明知には酷く申し訳なく感じる。それと同時に、手に届く範囲に左目がいることで彼の匂いを強く感じた。


 ――血の味を思い出す。


「……左目さん、血をください」


 若い首筋にかじりついて、牙を突き立てたい。


 明知は欲望に、必死に耐える。


 叶うのならば、今すぐにでも血をすすりたいのだ。


「ああ、好きなだけくれてやるよ」


 左目は、ライダースーツの胸元を大きく開けた。若い首筋に牙をつきたてながら、明知の罪悪感は育っていった。


 久しぶりに飲む血は――すごく美味しい。

 甘くて、甘くて、渇いた喉をどんどんと潤していく。


 これ以外はいらないし、これ以外は飲みたくない。


 血が明知の喉を通って、全身にめぐる。


 そろそろ吸血行為を止めなければならない。左目のことを考えるのならば、今すぐにでも血を吸う行為を止めるべきなのだ。なのに、渇いていた体は瑞々しい血の詰まった肉体を離さない。


 ――離したいのだ。


 ――守りたいのだ。


 ――なのに、吸ってしまうのだ。


「いつっ……」


 左目の声に、明知ははっとする。


 首筋から口を離せば、自分の牙が少しばかり深く食い込みすぎていたことに気がついた。本来ならば先端で少し傷をつけるだけでいいのに、飢えすぎて上手くいかなかったのである。


「左目さん、すみません……」


「大丈夫だ。それより、もうちょっと飲んでおけ。まだ、足りないだろ」


 左目は、ライダースーツの襟を掴んでさらに大きく広げる。明知が血を吸いやすいようにしているのだろうが、明知は首を振って左目の襟を正した。


「もう……大丈夫です」


「そうか。なんだ、傷も血を吸ったらよくなったみたいだな」


 左目は、ほっとしていた。


 だが、最初から傷などなかった。


 左目は散乱した血液パックの血を見て、明知がグールに襲われたと勘違いした。明知も弦もそれを正すことなく、明知は左目の血を吸った。


「左目さん――今後も、あなたの血を時々頂いてもいいですか?」


「……おまえ、吸血鬼の癖に愛人が少なそうだもんな」


 左目は、吸血鬼の生態をちゃんと理解していた。


 理解した上で、自分を愛人の一人だと思っていた。明知も、そうするつもりだったのだ。数いる愛人の一人で、左目には負担をかけないようにするつもりだった。


 でも、駄目だった。


 左目を好きになってしまった。


 左目以外はいらない、と思うふうになってしまった。


「いいよ。おまえに血が足りなくなったら、俺がやる。あんまり、無理をするんじゃねーぞ」


 左目は立ち上がり、ふらりと大きくよろけた。


 あわてて、明知が左目を支えようとする。だが、倒れそうになった左目を受け止めたのは弦であった。


「貧血だ。吸血の後に、すぐに立とうとするな」


 弦は、ビニール袋を左目に差し出す。中に入っていたのは薬の瓶とファーストフード店の袋だった。


「増血剤とハンバーガー。とりあえず、これで血を作れ」


 弦は左目が貧血を起こすのを予知して、薬と食べ物を買ってきてくれたらしい。血なまぐさいところでは薬を飲む気にもなれなくて、左目は弦に支えてもらいながら外に向う。


「弦……俺はハンバーグのほうが好きだ」


 外で一息ついたとき、左目はそんなことを言い出した。


「パンにはさんであったほうが、食うのは楽だろうが」


「だから、明知に伝えといてくれ。冷蔵庫にレトルトでいいから、ハンバーグを入れとけって」

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