第12話さようならの夜
「左目さん?」
突然、左目が立ち上がる。
その行動に、明知は警戒した。
左目の瞳からは、いつもの闊達さがなくなっていた。
「左目さん……」
一瞬、左目の姿が消える。
明知が気がついたときには、左目は夜鷹の目の前にいた。今の左目は、人狼並みの力を発揮できるはずである。
一方で、夜鷹は推理力に優れてはいるが普通の人間だ。勝負になるはずもないし、逃げることも出来ない。
「夜鷹!」
明知が焦って手を伸ばす前に、夜鷹がスプレーを取り出した。
それを夜鷹は、左目に向って噴射する。離れていたはずの明知にまでとどく刺激臭に、思わず明知は夜鷹から距離をとった。鼻を押さえるとニンニクの匂いも遅れて感じた。
「この匂いは……痴漢撃退スプレー?」
本来ならば、人間に使われる刺激臭の強いスプレーである。だが、人間以上の嗅覚を持つ人狼には致命傷になりうる武器であった。
吸血鬼も人狼ほどではないが嗅覚にすぐれているために、明知は涙目になっていた。
涙も止まらないし、鼻水も止まらない。
ゴミ箱代わりの黒ポリがあってよかった。
テッシュをいくら消費しても、捨てる場所には困らない。
直撃した左目は、ものすごく苦しんでいた。
床に転がり、息も絶え絶えも様子である。
明知は自分以上に素早い左目の動きを簡単に封じることができたことを喜ぶべきか、二千円未満で購入できる痴漢撃退用のスプレーに倒されるような左目に逃げられたことを悲しむべきか迷った。
「あなたは狂ったように見えていても、理性ある行動をしているわ。この密室のなかで、私と明知がいるのだったら。私を人質にして、外に出る。そう思ったのよ」
夜鷹は、そういうが左目は人の話を聞けていない。
床に転がって、苦しんでいる。
痴漢撃退スプレーを直撃したのだから、しかたがない。明知は、左目にちょっと同情した。可能ならば、洗面所に誘導して顔を洗わせたいぐらいだった。
「あなたは、何者?」
夜鷹は、左目にささやく。
ようやく涙や鼻水が収まってきた左目は、答えた。
「ボクは……モンスター」
スプレーの影響で喉はがらがらであったが、左目は答えた。
その声は左目のものであり、明知は少しばかりほっとする。
夜鷹が今の左目に理性があるというのならば、理性はあるのであろう。
思い出せば、この状態の左目は逆送したとあってもバイクに飛び乗っているのである。道路交通法は無視しても、バイクに乗れるだけの理性はあったのだ。
「モンスター?人狼ではなくて?」
「ごほ……ごほ、ごほ」
スプレーの影響で、左目がそれ以上話すのは難しそうであった。
明知は、左目に水を飲ませてやる。ついでにティッシュやハンカチも渡した。痴漢撃退用のスプレーの効果が弱まるまで待たなければ、まともな話はできないであろう。
少し落ちついた左目は、ふぅと息を吐いた。だが、目は真っ赤である。
「……人狼に噛まれようと、吸血鬼の血を飲もうと、グールになろうとも現れるのはボクだ」
水を飲んだ左目の言葉に、夜鷹は少し考えた。
「あなたは、左目君がモンスター化したときの人格ってことかしら?」
左目は頷く。
スプレーのせいで涙目になっているからか、今の左目はいつもの左目よりも幼い印象である。
そもそも左目の顔つきは幼いのだが、言動が年相応の少年らしいものだった。だが、今の左目からはその少年らしさが失われている。
なんにもない空洞。
明知は、彼をそう思った。
地球に隕石が落ちてきて出来た穴に、無理やり人格を生み出して喋らせているふうに感じられた。左目の格好をした偽者に、明知は嫌悪感のようなものを感じる。
「あなたは、どうして狂ったような真似をしていたの?」
夜鷹の質問に、左目は答える。
「時間がもったいなかった。ボクが表に出れる時間は、もう三十分とない。はやく、あそこに行かないと」
左目は立ち上がろうとするが、スプレーの影響でまだ目や鼻がやられているらしくつまずく。
人狼は、嗅覚に大きく依存している。スプレーの影響で左目が人狼化している間は、まともに歩くことも出来ないだろう。
明知は、左目を椅子に座らせる。たとえ今の左目に嫌悪感のようなものを感じても、肉体は本物の左目だ。本物の左目のことを明知は、それなりに気に入っている。
「あそこというのは、廃墟のホテルのこと?どうして、そこに向うのかしら」
明知も、それは思っていたことだ。
あの廃墟のホテルは特別な場所ではない。十年以上に潰れて、ずっとそのままになっている。
十年以上前はラブホテルとして営業していたが、潰れてからは買い手も現れないからずっと放置されているらしい。どこにでもある、ありふれた廃墟だ。
「あそこは、ボクの生まれた場所。だから、本当に消えるのならばあの場所がいい」
本当に消える、と言う言葉に明知は違和感を覚えた。
「消えるということは、どういうことでしょうか?私には左目が生きていて、人狼化する薬を服薬すればいくらでも蘇れる気がしますが」
彼が左目の別の人格ならば、彼はモンスターになるための薬を飲めば復活できるような気がする。だが、左目は首を振った。
「吸血鬼になっても、ボクがでる。そもそもボクは吸血鬼です。あの廃墟のホテルで、吸血鬼の血を飲んだからボクは吸血鬼になった」
明知と夜鷹は、顔を見合わせる。
今の言葉は、二人の知る情報にはない。
「たしか、あなたは小学校三年生のときに事故にあっているわね。そのときのことかしら」
夜鷹の言葉に、左目は頷く。
左目の言葉が確かならば、左目はあの廃墟のホテル付近で事故にあったということだ。左目は、そこであの廃墟のホテルに繋がっていたのである。
「たぶん。その事故現場を発見した吸血鬼は、ボクに血を飲ませた。薬じゃない転化は、薬よりも多少転化するまでの時間が早くなる。吸血鬼になれば吸血で肉体の回復ができるから、上手くすればそれでボクを助けられると思ったみたいだった。でも……ボクはその血ですぐにボクになってしまった」
左目が幼い頃に、彼はすでに吸血鬼の血を飲んでいた。
そして、モンスターの人格である彼が生まれた。
本来ならば、モンスターになっても自分の人格が生まれなおすということはない。明知の人格は、人間から続いてきたものだ。弦もそうであろう。
「……どうして、そんなことが?」
明知の質問に、左目は若干戸惑った。
「分からない。けど、ボクの寿命短い。最初こそ、半年はずっとボクが表に出ていたけど、半年を過ぎたら人間に戻っていた。それからは、表に出ている時間がずっと減り続けている。最初の一年だけ特定の吸血鬼から血をもらい続けたけど、それでも長くボクが出続けていたことはなかった。今では、もう一時間以上もボクがでることはない。だから、もうボクは死ぬ。消えて、二度とモンスターのボクにはなれなくなる。だから、その前に――」
生まれた場所に行く。
それが、モンスターである左目の望みであった。
「……もしかして、あなたは吸血鬼になった最初の一年間は誰かと一緒にいたんじゃないの。たとえば、あなたをモンスターにした大人の吸血鬼とか」
夜鷹の言葉を左目は肯定する。
合点がいった、と言う顔を夜鷹はしていた。
「どうりで十年前に事故にあったあとの一年間の記録が少なかったはずよ。一年間吸血鬼につれまわされていたのならば誘拐扱いになってる。しかも、本人が記憶喪失状態だったのならば、後事件の概要を知ってショックを与えないように情報が秘匿されていてもおかしくはないわ」
大人たちから見れば、左目は誘拐のショックで記憶を失った子供だったのだろう。
だから、記録が秘匿された。
「本題に入るわよ。あなたは……三日間も本来の人格に戻らない時があったわね。そのときも、あなたが表に出ていたの?」
左目は、うなずいた。
夜鷹は問いかけの答えを真剣に聞いていた。
「だれかが、あなたの特異体質に気が付いて血を飲ませ続けたのね。答えて、それは誰。目的は知っているの」
「目的をボクは知らない。あの時、あの場にいたのはたぶん全員が吸血鬼だった。あと……誰かが一人を紫の王と呼んでいた」
明知は、頭のなかで左目について整理をする。
彼はモンスターに転化するさいに、第二の人格といったものが発生する。ただし、その人格が表に出ているのは左目がモンスターである期間だけ。
左目がモンスター化している時間は次第に短くなっていき、最後には転化すらしなくなるという。
それが、モンスターの左目の死なのだという。
左目がグールに追いかけられる前――失踪していたという期間――このモンスターの左目は吸血鬼たちの元にいた。そして吸血鬼が、紫の王と誰かを呼んでいたらしい。
「なぜ、あなたはその吸血鬼たちから逃げていたのですか?」
明知は、たずねる。
「ボクが吸血鬼たちと行動していたのは任意ではなくて、あちらの力が強かったからだ。だから、隙を見て逃げ出した」
その理由が、明知には解せない。
モンスターの左目は、あそこで吸血鬼の血を飲んで生まれたのだという。そして、ただそれだけの理由でモンスターの左目は廃墟のホテルへと危険を冒してまで向かった。
その理由が、どうしても明知には理解できないのだ。
吸血鬼たちから逃げ出すまでは、まだ理解ができる。
だが、どうして誰もいない廃墟のホテルへとモンスターの左目は逃げたのか。
明知は自分だったら、まずは調停機関へと行くと思った。あるいは人間の価値観ならば、警察に飛び込むのもありうる話なのだろう。
だが、モンスターの左目はそれをしなかった。
ただ、自分の生まれた場所へと舞い戻った。
「ボクを理解できない顔をしているね」
モンスターの左目は、明知に向かってそう言った。
明知は、自分の考えを素直に伝える。
「そうですね。あなたの行動は、本当に理解に苦しみます。あなたはもっと安全な策を取るべきです」
モンスターの左目は、明知を見た。
大きな瞳は、どこか空虚を感じる空洞だった。まるで右目も、左目と同じく義眼になってしまったかのようであった。
「……君は、よっぽどボクに安全でいてほしいんだね」
「未成年ですから」
と明知は言う。
「正直、あなたにはもう出てきて欲しくはありません。あなたの存在は、おそらくは左目さんを危険にさらす」
明知の言葉に、夜鷹は少しばかり驚いたようであった。
おそらくは、明知がそのようなことを言うとは思わなかったのだろう。
今は、モンスターの左目がほぼ唯一の手がかりのような状況である。その状況で彼を否定すれば、情報が引き出せなくなる可能性があった。それでも明知は、モンスターの左目を否定した。
「あなたの言うことは正しい」
モンスターの左目は、以外にも明知の言葉を肯定した。
明知は、それに少しばかり面食らう。自分で言っといておかしな話だが、今の自分の言葉に明知自身は怒る確信があった。だが、左目は明知の言葉を受け入れる。
「あなたは安堵していい。ボクはもうどのモンスターの血を飲んでも現れることはない。ボクは、もう寿命なんだ」
今消えてもう二度と出てくることはないよ、とモンスターの左目を語った。
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