第37話 好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好好




 僕は、楓から逃げてしまった。

 楓の部屋を出て、心配そうに顔を覗かせる楓の母親に軽く会釈をすると、早歩きで玄関から出た。母親と目を合わせられなかったのは、何も解決できなかった申し訳なさと僕が泣く一歩手前だったからだろう。一言でも慰められるとその場で泣き崩れてしまいそうだった。


 玄関を出ると憂鬱な気持ちを吐き出すように大きく息を吐いた。しかし胸のムカムカは何度息を吐いても取れない。その内吐き気を催してきたのでやめた。


 とにかく歩きながら考えよう。一度落ち着こう。僕はそう言い聞かせると震える足で機械的に道路の端を歩く。目的地などなく、先ほどの絶望的な光景を頭から振り払われるのを願って僕は歩く。


 結局の所、歩き出したのは楓の家から一刻も早く逃げ出したいという浅ましい考えからの行動だろう。最もな理由は何個も思いつくけど、それは僕の本音じゃない。


 僕は、これ以上変わり果てた楓を見たくなかったのだ。


 彼女なのに。大切な人なのに。好きなのに。助けてやりたいと思うのに。寄り添ってあげたいのに。


 だけど、心の中の自分が発した第一声は「逃げろ!」だった。……自分がとことん嫌いになりそうだ。


 ああ、浅ましい。

 僕は自分のことばっかりだ。


「ははっ」


 自虐的に笑うと、僕は馬鹿みたいに腕をぶん回し全力で走り出した。頭が回らないぐらい疲れ果てたい気分だった。


 十字路を適応に右に曲がり、歩道橋を全力で駆け上がり、階段を転げ落ちたところで――僕の体力が底をついた。草むらで倒れこみ、何度もむせ返りながら呼吸を整える。虫が足を這い上がってきたがそんなのはどうでもいい。


「はぁ……はぁ……」


 全身から噴き出す汗が不快だ。僕は倒れたまま目に入った汗を強く拭うと、自分の服の袖が破れている事に気付いた。小さな穴だけど、このまま放置するのはあまり得策ではないだろう。


 そこまで考えて――ふと花音のことが頭をよぎった。


 僕の両親はほとんど海外にいるため、家事は必然的に僕が行ななければならなかった。最初の頃は訳が分からず花音の母親に聞くことが多かったけど、何年もすると家事は習慣の一部になった。


 しかし、家事は出来ても裁縫は苦手であった。丁度今みたいに服に穴が開くと、僕は花音に頼んで直してもらっていた。意外にも手先が器用な花音は、時々僕が出来ない事をぶぅぶぅと文句をいいつつも肩代わりしてくれた。


 どんな時も花音は僕の傍に寄り添ってくれたし、僕にとって花音は掛け替えのない大切な家族のようなものだった。




 ――花音に会いたいと、思った。


 会って、今までの事を全部ぶちまけたい。逃げ出した事を懺悔したい。怒られるかもしれないけど、それでも花音だったら最後には許して一緒に考えてくれるに違いない。


「……………………」


 最低だなと思う。僕は楓の件は自分一人で抱えきれないから、他人を巻き込もうとしているのだ。


 ……それでも、一人でウジウジ悩んでいるよりは幾分マシな気がした。それに口に出せば少しでもこの胸の中のモヤモヤが晴れるような気がした。落ち着いたら、もう少しマシな考えが浮かぶかもしれない。


「――――――よし」


 目的を定めたら、少しだけ活力が湧いた。とにかく客観的な意見を聞きたい。花音と加々爪と白鹿由利を呼んで作戦会議をしよう。


 ……そういえば、由利ちゃんのお願いを放置したまま楓の家に向かったんだった――と、今更ながらそれを思い出して、重ね重ね申し訳ないなと思った。きっと、加々爪と由利ちゃんも心配しているだろう。とにかく結果報告だけでもしておいた方がいいなと、僕は重い体を持ち上げる。全力疾走でかなり疲労したらしく、立ち上がる時に震える足のせいで危うく倒れそうになった。


 ポケットに入ったスマホを取り出して、花音の通話をする。プルルルルとコールを待っている間に、そういえば花音と最後に会ったのはいつだろうかと記憶を手繰り寄せる。



 プルルルル。



 出ない。

 出ない。

 出ない。

 嫌な予感がする。


 留守番電話を入れて、念のためにもう一度通話をするが結果は同じであった。



 ――まさか。と思った。


 白鹿が、楓だけではなく花音にも何らかの手を加えている可能性。


 ……否定できる訳がなかった。


 双子の妹をカッターで脅し、楓をあそこまで追い詰める冷酷さと狂気を持ち合わせた白鹿ならば、花音に何らかのアクションを起こしていても何らおかしくなかった。



 ――もっと早く、気付くべきだった。


 現状維持なんて甘い考えのせいで、取り返しのつかない事態まで発展してしまった。自分の能力を自覚していたならば、もっと早い段階で手を打てていたのではないのか? と後悔が次々と浮かんでは消える。


 過去を振り返っても何も変わらないのは分かってはいるが、噴き出した罪悪感に蓋をする術を僕は持ち合わせていなかった。


「……………………」


 いっそ叫んで子供のように泣きじゃくれば、少しでも楽になれるかもしれないが、


 胸に渦巻く焼けるような後悔が、涙を枯らしてしまったらしい。







 * * * * *










 現状は僕の心境と同じく、最悪であった。


 あれから僕は加々爪に連絡し、一度加々爪と白鹿由利と合流した。

 それから楓の時と同じように花音の両親に連絡したのだが「まだ帰ってないわよ?」と母親は特に焦った様子もなく言った。事情を聞くと、どうやらこれも楓と同様に僕と長期旅行に出ていると聞いていたらしい。


 違うのは、楓はラインだけだったのに対し、花音の母親は花音から直接旅行に出ると聞いたらしい。その辺は少し不可思議であったが、それをじっくり考えている時間はなかった。


 僕は、花音の母親に事情を簡単に説明した。白鹿のこと。楓のこと。

 ――もしかすると、花音が拉致されてしまっていること。



 最初は落ち着いた様子で聞いていた花音の母親であったが、拉致の話をすると声からでも分かるぐらいに動揺を露にした。僕が電話を切る頃には母親は涙をこらえるのでやっとの様子で、震える声が僕の胸を鋭いナイフがえぐった。


 とにかく、もう事態はたかが学生がどうにか出来る範疇を超えていた。

 僕はついに警察に連絡した。拉致は僕の憶測であるため行方不明だと警察に伝え、警察に捜索してもらうことにした。


 電話を切ると、僕は自分なりに自転車を使って捜索をすることにした。警察からは自宅待機と釘をさされたが、このまま自宅でじっとしていると気が狂いそうだったので、とにかく花音がいそうな場所だけでも探そうと自転車を走らせた。


 流石に加々爪と由利ちゃんには白鹿のターゲットである可能性があるため、それぞれの家まで送った。


 由利ちゃんに関しては、むしろ自宅の方が危険な感じがしたのだが「……いえ、今は不自然な行動は避けるべきかと思います。私がお姉ちゃんを裏切っているとはまだバレていないと思うので」と由利ちゃんは無理に笑ってみせた。それに夜になると両親が帰って来るので、突然襲われるという事はないハズ……と由利ちゃんは付け足した。


 当然ながら危険が少ないだけで、安全という訳では決してなかった。それでも自宅に帰ると言ったのは、余裕が無い僕を気遣っての判断だと思う。加々爪の家でかくまって貰う案もあったが、最終的に由利ちゃんの強い要望により白鹿家に帰ることになった。警察が動き出した今、白鹿も下手な行動は取れないと信じたいが……。



 結局、ファミレスで行われた話し合いは中途半端な所で打ち切りになってしまったが、止む負えない。とにかく、今は何より花音が安否が優先である。



「――――――ッ!!」


 そんな中、僕はもう真っ暗になった夜道を漕いでいると――ふと、橋の上で見覚えのある後ろ姿を捉えた。何気なく視線を動かした先にいて、危うく見過ごしてしまいそうだった。




「花音ッ!!」


 僕は叫ぶ。彼女が暗闇に消えていかないように。後ろ姿しか見えていないが、長年一緒にいた友人の後ろ姿だ。間違える訳がなかった。


 僕の声に反応してか――彼女の特徴的なサイドテールがぴょこんと跳ねた。


「――――あはぁ。太一じゃん」


 橋の上に着くと、彼女は振り向いた。僕の予想通り、彼女は花音であったのだが――。


















「おはよぉ。あはははあはははははああ。ぶうおど」


 花音は夜に朝の挨拶をすると、何がおかしいのか腹を抱えて笑った。まるで酔っ払いのようなだらしない笑みを浮かべる花音に、僕は本能的に寒気を覚えた。






 何かと言うか、何もかもがおかしい。



 花音はこんな風に笑わないし、彼女の瞳はどこか虚ろで対話しているのに目が合っていない。着崩した服の袖はどこかで擦ったのか、真っ黒に変色していた。シャツのボタンは一つも止められていないせいで、黒いブラが顔を覗かせていた。


 何がそんなに愉快なのか、固まる僕を見てへらへらと笑う。幼馴染だからこそ、些細な変化に気付ける僕だからこそ――彼女の激変は尋常じゃないことを痛感していた。


「太一ぃ。あのね右手が笑顔で線対称の堂々巡りではははははあ。好きだから愛してる大好きごめんなさい」



 子供みたいに指をしゃぶる花音が、顔を高揚させてゆるりと近づいて来た。片手を大きく開けて、ハグでもしたいのか僕との距離を詰めてくる。



「――――くっ」


 僕は彼女を拒んでしまった。本能的に危機感を感じ、近寄る花音の肩を押して数歩さがる。その時、露骨に彼女は表情を歪ませた。



「なんで。なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!!!!!!!!!!!」

 笑顔から一変、駄々をこねる子供のように手をブンブンと振り回し、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら泣き喚いた。通り過ぎた通行人が、ぎょっとした表情でこちらを見るが、関わりたくないのか急ぎ足で去っていった。



「おかしいよぉ。太一はだってだってだってだって。愛し合っていて、愛がいっぱい溢れてあ愛あかい明るい未来の太陽なんでなんで」


 不規則な言葉の羅列が聞こえるたびに、僕の胸がズキズキと痛んだ。涙は乾いて出ないけど、なんだか僕も泣きたい気分になった。



 彼女は変わってしまった。

 白鹿に?

 ――いや、元を辿ればすべての元凶は僕だ。

 僕が、彼女を変えてしまったのだ。




「……ごめん」


 絞り出すような謝罪。彼女は別に謝って欲しい訳ではないだろう。それでも謝らずにはいられなかった。自己満足のただの懺悔だと分かっていても。


 頭を下げたせいで、視線が彼女の足元まで下がる。




 そして、ぞっとする。

 裸足だった。

 何時間アスファルトの上を歩いたのかは分からないが、足は道路の汚れと痛々しい擦り傷でボロボロになっていた。



「――太一ぃ。私たち、付き合ってるよねぇえええ?」





 今度はちゃんと聞き取れた。

 しかし、その内容は酷く的外れなものであった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る