十五 時計都市の王


 天変地異のような揺れが終わり、人影が絶えたパスリムの街は静まりかえった。

 かつて中央時計塔や中央広場があった中心部には巨大な円柱状の構造物が鎮座し、その上部には大きく傾いた長針塔や短針塔がいまだ原型をとどめている。

 避難した人々は遠巻きにそれを眺め、事の成り行きを見守っていた。


 ウィゼアは立ち上がり、ギアソンとの距離をはかる。

 十歩あるかないか。彼女の靴なら、逃げることは難しくない。

 いや、今となってはそう言い切れない。地上からはるか高く、落ちればただではすまない場所にいる。逃げることはできても、逃げ切ることはできないだろう。

「おまえは吸血鬼なのか。それとも人形なのか。どっちなんだ」

「人形に間借りしているだけだ。光から身を隠し、姿を偽るのに、意外と都合がいい」

 ギアソンが一歩を進むごとに、ウィゼアは一歩を退く。

「さて、宝玉を返してもらおうか」

「誰が渡すか」

「では力づくでいこう」

 ギアソンの身体がゆらめく。端々が黒い影となり、陽炎のようにぼやける。

 まずい、とウィゼアは焦った。

 女吸血鬼とやりあった時のことを思い出す。まともに勝てる相手ではない。

 ギアソンが腕に黒い影を集め、槍状にする。その際、腕が一度黒ずみ、剥がれるようにして人形の腕が露わになる。

 影の槍をふりかざし、それをウィゼアに向けて放つ。

 ウィゼアは真横へ跳んだ。瓦礫と破片が散らばる地面にかまわず、転がり、そのまま腕を靴のかかとにのばす。

 第二撃が放たれる前に地面を蹴る。

 ウィゼアの身体が空を舞った。素晴らしい跳躍でギアソンから距離を取る。

 だが影の槍を何度もかわすのは難しい。どこか隠れる場所はないのか。

 前を見ると、視界に巨大な建造物が入る。

 倒壊寸前まで傾いた長針塔。

 もはや迷っている時間はなかった。ウィゼアは鳥のように駆け跳び、塔を目指す。

 それを見たギアソンは、影を機械の身体に戻し、少女が向かった長針塔を見上げる。

「ちょうどいい」

 そして後を追った。


 髪を風になびかせ、長針塔の中を駆け抜けながら、ウィゼアは内心で喝采を叫んだ。

 ベルランフィエに幸いあれ! 彼女の靴は百年前に作られたとは思えないほど、快調な跳躍をもたらしてくれていた。ただ修理しただけでなく、調節までしてくれたらしい。以前とは見違えるように、ウィゼアの意のままに跳んでくれる。

 長針塔の内部は、傾いたことで調度品や工作機械が下方向へとぶちまけられ、惨憺たる有様を示している。その中を慎重に、けれども急いで進む。

 どこへ向かうべきかは、わかなかった。このままではジリ貧なのは目に見えている。

 かといってギアソンに立ち向かうこともできない。彼女一人でどうにかできる相手ではないし、唯一対抗できたであろうデッケンベルターも行方が知れない。

 いざとなったら。この大宝玉を隠すか、捨てるかして……。

「……なぜ、あいつはまだこれを狙っている?」

 ウィゼアはポケットに入れた大宝玉を、服の上から撫でる。

 遺産は起動した。百年分の魔法の力は使い切った。はず。

 本当に?

 ちらと、ウィゼアはポケットの中の大宝玉を覗き見る。

 地下にあった時はまばゆい輝きに満ちていた。今はどうか。

 大宝玉は、光の入らない服の中にあっても、衰えたとはいえ、なお強い輝きを湛えていた。

「魔法が、使い切れてない」

 ギアソンはこのことを知っていたのか。だとしたら、これをなぜ欲しがる。何に使う?

 あの女吸血鬼のように、奪われた宝玉を取り戻したいだけか。それとも。

「……兵器に使う気か、あいつ」

 ウィゼアが幽閉されている間に製造されたという新兵器。かなりの数が造られたと、中央の技師たちが話していたのを聞いた。それに遺産の魔法を転用するつもりだとも。

 中央時計塔がこうなった今、ロンビオンとの取引を続けるとは思えない。

 ならば、その使い道は。

「冗談じゃないぞ。ここまできて、悪用されてたまるか」

 怖気のようなものを感じ、ウィゼアはあたりを見渡した。とにかくギアソンに大宝玉を渡してはならない。それだけは防がねば。

 だが、焦るあまり、彼女は致命的なミスを侵す。

 塔の外壁に設けられた窓。その外側を確認せず、そばを通り過ぎようとする。

 瞬間、窓ガラスを破って黒い手がのび、ウィゼアの腕を捕まえた。

 そして強い力に引っ張られ、身体ごと外へ引きずりだされる。

 ウィゼアは腕一本を掴まれた状態で、空中に宙づりとなってしまった。もがこうとしたが、靴が蹴るべき地面はそこにはなかった。

「これでもう跳べまい」

 ギアソンの冷ややかな声が風に流される。彼は真横になった外壁に対して垂直に立ち、ウィゼアを吊り降ろしたまま歩きだす。

「手間が省けた。これから特等席へ案内しよう」


 〇


 かつて大ホールだった瓦礫の山を無造作に掘りおこしていくと、意外なものが出てきた。

「あら。こんなところにいたの」

 ケートリィは足元にあらわれた顔を見下ろす。

 粉々になった屋根瓦の下から出てきたのは、北の国の騎士だ。顔は真っ赤に染まり、死んでいるのか気を失っているのか、ぴくりともしない。

 目当てのものではない。無視して他を探そうとすると、瓦礫の山が持ち上がり、ケートリィの前に巨躯があらわれる。

「そう、あなたが守ったのね」

 飛竜リーズは威嚇の唸り声をあげ、主を守るように吸血鬼の前へ出る。

「別に殺す気はないわよ」

 興味をなくしたようにケートリィは別の瓦礫の山へと向かう。

 黒い影を鞭のようにしならせ、掃き掃除でもするかのごとく大雑把に掘り進めていく吸血鬼を、リーズは絶えず見続けていた。


 〇


 長針塔上部、塔身部の最上階に、その部屋はあった。

 石組みだけで装飾はほとんどなく、何かを操作する金属機械が壁や床に取り付けられている。尖塔の屋根は脱落し、その面からは空が丸見えであった。

 ギアソンの人形も何体かおり、彼がつれてきたウィゼアを拘束した。靴を奪われ、手足をしっかりとおさえられ、彼女の力では振りほどくことはできない。

 すぐにウィゼアは、この場所の異様さに気づいた。

「……どういうことだ。なんで、ここは水平になっている」

 長針塔は今、大きく傾いている。にも関わらず、彼らがいる場所の床や壁は、まるでごく普通に建てられたかのように、水平と垂直を維持していた。

「最初から、この塔が傾くことが、わかっていたのか」

「そうだ」

 床から苗木のように生える機械に手をかけながら、ギアソンは答える。まわりの年古りたものとは違い、それはごく最近取り付けられた装置に見えた。

「中央時計塔は、なんのために建てられたんだ。こんな、傾かせる意味があるのか」

 その問いに、ギアソンはウィゼアへ振り向き、そっけなく言った。

「日時計だ」

 ウィゼアは、言われたことを理解できなかった。言葉の意味はわかった。意図するところがわからなかった。

「……なんだと?」

「太陽の影で時間を計る、原始的な時計だ」  

「ちょっと待てよ、なにを言ってやがる。ふざけてんのか」

 ギアソンは至極真面目な表情を崩さない。だが、その目の奥で、熾火が息を吹き返すかのように、憎悪の光が燃えだした。

「あの男はいつも言っていた。太陽が重要なのだと。時間とは太陽の上り下りを均等に分割したものにすぎない。ゆえに全ての時間を決めるものは太陽に他ならないと」

 燃え広がる野火のごとく、目は険しくなり、口は歪みはじめる。

「私とて本気で信じはしなかった。単なる日時計を造るためだけに、あれほど莫大な労力を注ぎ込むはずがない。なにか隠された目的があると、この百年考えてきた。だが!」

 激怒に顔が歪み、左目が黒い影となってゆらめき、その下の壊れた眼窩が露わになる。

「なんだこれは! こんな馬鹿げたガラクタのために、私は百年も屈従を強いられていたのか! 私の宝玉を無下に扱われたというのか! この恨み、この屈辱、あやつの魂を切り刻んで地獄の業火にくべてもまだ足らぬ!」

 ギアソンは獣のように吠えた。

「貴様もだバーネンマイゼンの娘。見るがいい、この有様を。人間の世界ことごとく滅びるまで大人しくしていれば良かったのだ。結果どうなった。ただいたずらに百年の魔法を浪費しただけではないか。貴様など、宝玉を外す役割だけまっとうしていれば良かったのだ」

「だったら、てめぇのほうがマシだってのか」

 ウィゼアはギアソンを睨み付ける。

「クソじじいにコキ使われたのは御愁傷様だったな。だが、だからって無関係な街の連中を巻き込むな。百年の魔法が無駄になった? けっこうなことじゃねぇか。てめぇのくだらない火遊びに使われるより、よっぽどマシだ!」

「そうとも。くだらぬ私怨だ」

 すっと、ギアソンの目が細められる。

「だが、やらずにはおれぬ。貴様たちの作りしもの皆ことごとく燃やし尽くさぬかぎり、私の気がすまぬのだ。叶うならば我らに苦汁を飲ませた西方世界も焼き払ってやりたかったが。そこへ落とす予定だった爆弾もここで使ってしまおう」

「爆弾だと」

「ああ爆弾、そして砲弾だ。合わせて一千。これだけあれば溜飲を下げるに足るだろう」

「一千」ウィゼアはうめいた。「馬鹿な、それだけの数に、今から力を移し替えられるものか。魔法の力を移すには……」

「時間が必要?」ギアソンは悪事を自慢するように笑った。「時間ならあったとも。君の中の大宝玉、それが組み込まれる前、何に使われていたと思う?」

「な、に。まさか、てめぇ」

 ギアソンの口元に嗜虐的な微笑が浮かぶ。

「遺産を守り、君を守るよう強いられてはいた。だが力を他へ移し替えるなとは言われていなかった。契約の裏をかくことなど、造作もない」

 操作を終えたのか、ギアソンは装置から手を放し、ゆっくりとウィゼアへ近づいた。

「準備はできた。さあ、宝玉を返してもらおうか」

「女の子の服をまさぐる気? 趣味が悪い」

 答えたのはウィゼアではなかった。

 ギアソンの背後、かつて塔の屋根があった、空が剥きだしの一角。そこから声は来た。

「ケートリィ」

 赤い眼を燃え上がらせる吸血鬼と、その横にもう一人。

 ウィゼアは叫んだ。

「ランゼル!」


 投擲された白い凶弾が、ウィゼアを拘束していた人形たちを貫通する。

 自由を得たウィゼアは、ランゼルに駆け寄ろうとして、間をギアソンに阻まれる。

「何の用かね」

「あら、そんなの決まっているじゃない。宝玉を取り戻しにきたの」

 ケートリィは手に白い骨を生やし、ギアソンに狙いを定める。

「事が済めば返す。それでは駄目かね」

「駄目。嘘つきの言葉は信用ならないわ」

「交渉決裂か」

 事情が呑み込めないウィゼアが、ランゼルに問う。

「おい、どうなってる。なんでおまえが、あいつと一緒に」

「今だけ味方だ」

 短い返答に、ウィゼアは状況を察し、女吸血鬼に向かって叫ぶ。

「そいつは宝玉で兵器を作動させるつもりだ! 爆弾にでも使われたら木っ端微塵だぞ!」

 彼女の言葉にケートリィは頷いた。

「交渉決裂ね」

 ギアソンは嘆息し、ケートリィに向き直った。その隙にランゼルがウィゼアへ駆け寄る。

 ウィゼアはランゼルへ抱き着いた。さも、別れていた二人が、再開を喜ぶように。

「わ、わっと、ウィゼア……」

「まさか生きてるなんて」

 言いつつ、彼女はランゼルを盾にして、ギアソンから死角になるようにする。そしてポケットから大宝玉を取り出し、ランゼルの身体に押し付けた。

「隠せ」

 ささやくように小さく、そして必死な声でランゼルに耳打ちする。

 ランゼルのほうもそれで理解したのか、黙って宝玉を受け取り、服にしまいこむ。

 受け渡す間、ウィゼアはギアソンを注意深く見ていた。幸運にも、彼は女吸血鬼のほうを見ており、こちらを一度も振り返らなかった。

「残念だケートリィ。同郷のよしみで、隷属の苦しみを与えるつもりはなかったのに」

「おあいにくさま。あなたの下につく気なんて、最初からないわ」

 ケートリィは腕をひるがえし、凶弾を放つ。

 それを影の槍で弾き落とし、ギアソンは溜め息をはく。

「君の遺志は関係ないのだよ」

 そして彼は告げた。

「止まれ」

 その言葉に、ケートリィは最初怪訝な顔をし、そして目を見開き、最後に絶句した。

「な……に……」

 彼女の身体は固まった。口を開くことすら、困難なほどに。

「倒れろ」

 ケートリィは膝を折り、床に崩れ落ちる。

 何が起きたのか、見ていたランゼルたちには理解できなかった。

 ただ当のケートリィだけが、驚愕にうち震えていた。

「これ、は……まさか……」

 彼女は目だけで上を見る。

「かつて。レムマキア戦争でバーネンマイゼンは吸血鬼の王を破り、宝玉を奪い取った」

 服の懐に手を入れつつ、ギアソンは言った。

「私がその王だ」


 床に這いつくばるケートリィへ、冷酷な顔をした男は歩み寄る。

「百年を経てもまだ、王命の力が残っているとは、喜ぶべきか。だが、やはり弱いな」

 彼の足元で、女吸血鬼は身をこわばらせながらも、徐々に立ち上がろうとしていた。

「忌々しいが、衰えた今、調伏の力はこいつのほうが強い」

 ギアソンは懐から出したものを、ケートリィに向かって掲げた。

「再契約だ。君も百年の屈従を味わいたまえ」

 かつて彼自身を縛り付けていた契約の魔法。それを内包する古びた懐中時計。

 その蓋を開き、文字盤をかざす。

「『王の邪魔をするなかれ』」

 その言葉と共に時計は輝きだし、ケートリィは苦悶の声をあげ、のたうち、力尽きた。もはやなにも言わず、ただ倒れ伏すのみ。

「これで邪魔者はいなくなった」

 そしてギアソンは、古の吸血鬼の王にして復讐に燃える男は、ウィゼアへ振り返る。

「いや、まだいたな」

 ギアソンの目は、ウィゼアの前に立ちはだかる少年を見た。

 彼は少女を守るように両腕を広げ、にらみつけてくる。

 その顔は見たことがあった。昨日、地下の縦穴で少女と一緒にいた少年。ということは、ケートリィが捕まえてきた、見習い工。

 そこまで思い出した時、ギアソンの顔は怒りで染まった。

「そうか、貴様。貴様がやったのか」

 影の槍を作り出し、歩きだす。

「ランゼル、逃げろ!」

 ウィゼアの叫び。それに応える隙を与えず、槍が少年を打ち据える。

「貴様が、魔法陣を、組み込んだのか!」

 ランゼルは突かれ、叩かれ、弾き飛ばされた。壁面にぶつかり、勢いあまって床へしたたかに打ちつけられる。

 苦痛に息すらできず、痙攣しはじめた彼の腹を、ギアソンは踏みつぶした。

 ランゼルは叫び、次いで血反吐をこぼす。

「余計なことを。あれさえなければ、宝玉だけ取り外せたものを!」

 そして影の槍がランゼルの喉に突き立てられた。

 ウィゼアの悲鳴が空気を激しく揺さぶる。

 それも空しく、少年は喉を串刺しにされたまま、槍に身体ごと持ち上げらえる。

「目障りだ。落ちて潰れろ」

 無造作に放り投げられたランゼルは、空に面した一角から、下へと落ちていった。


 ウィゼアは、今見たものを、理解できなかった。

 自失と絶望に襲われた彼女に、冷たい声が投げかけられる。

「さて。ようやくだな」

 人一人を殺めたばかりとは思えぬほど、ギアソンは落ち着きを取り戻していた。

 彼はウィゼアに詰め寄り、片手で首を掴む。

「宝玉を返してもらおう」

 人形の彼女にとって、首を絞められたところで、なんら苦痛は感じない。だが、いかに抗おうと、もはや手立てがないことが、彼女を苦しめた。

 それでも、目の前の男に屈することだけは、できなかった。

「捨てたさ」ウィゼアは気力を総動員してギアソンをにらんだ。「今頃は、地面に落ちて砕けているだろうよ」

 ギアソンはウィゼアの身体をつぶさに見た。その言葉が、少なくとも大宝玉を彼女が持っていないことは、真実だと理解できたらしい。

「そうか」

 彼は短く言うと頷き、もう一方の手をかざす。

「では、君の宝玉を使おう」

 影をまとった手が、ウィゼアの胸に突きこまれた。

 金属の砕ける音と共に、彼女の心臓部を成す、もう一つの大宝玉が引きずりだされる。

 ウィゼアの身体から、急速に力が失われていった。夜が冷たさをもたらすがごとく、死が血潮を止めるがごとく、四肢から胴に向かって全ての感覚が消えていく。

「やはりな」ギアソンは露わになったウィゼアの内部を見て呟いた。「魔法陣が正しい向きで組み込まれている。偶然だろうが、忌々しいことを」

 そして彼は無造作にウィゼアを床へ放り投げた。まるで飽きた人形をうち捨てるように。

「その状態でも意識はあるだろう。そこでゆっくり我が復讐の成就を見るがいい」

 ギアソンは輝く宝玉を手に、装置へと向かう。

 それを機械の中心におさめ、固定する。

「て……めぇ……」

 わずかな声に、ギアソンは振り向いた。

「驚いたな。まだ喋れるか」

「まだ……わた、しは……」

 力尽き、それでもまだ抗う少女に、復讐鬼は凄惨な笑みを浮かべた。

「無駄だ。もはや全ては終わったのだ。最後にバーネンマイゼンへ敬意を表し、時計の街は時計で滅ぼすことにした」

 彼は宝玉が使われた装置を手で軽く叩く。

「これはただの制御装置だ。勝手に起動しないよう、大宝玉がなければ動かないが。爆弾はこの塔の地下貯蔵庫にある。そして今、全ての時限装置が動き始めた」

 狂気に歪んだ口が、哄笑をもらした。

「間もなく正午だ。時計都市が終わるには、ぴったりの時間ではないかね」


 ギアソンは床に横たわるケートリィへ近づく。

「さて、我々はここを離れるとしよう。君も共に来たまえ」

 そして手をのばし、彼女を起こそうとした時。

「……なにを、笑っている?」

 ケートリィは喉を鳴らし、赤い唇で笑っていた。愉快げに、おかしげに。

「あなたの言うとおりね」彼女は笑いながら言う。「契約の裏をかくなんて、ほんと簡単」

「なにを……」

 ギアソンの言葉は途中で止まった。

 倒れ伏していたケートリィの身体。隠れて見えていなかったところが、欠落していた。

「腕をどこへやった」

 右腕のない女吸血鬼は、勝ち誇ったように笑った。

「邪魔はしていないわ。私は彼を助けただけだもの」

 その言葉に呼応するかのごとく、部屋の天井、かつて窓だったところを突き破って、黒い影が落ちてくる。

 ケートリィの黒い腕に掴まれて、少年が少女の前に戻って来た。

「貴様!」

 はじめてギアソンの顔に驚愕が生まれた。確かに命を奪ったはずの相手が、力強い遺志を顔にみなぎらせ、しっかりと床を踏みしめて立っていたからである。

 そしてその手には、彼が百年間切望し、ついに手に入れることができなかった、もう一つの光り輝く大宝玉が握られていた。

「ウィゼアー!!」

 少年は少女の名を叫び、砕かれた胸に大宝玉を嵌め込む。

 その瞬間、まばゆい光が周囲を包んだ。


 〇


 パスリムの中心に、光が生まれた。

 南に大きく傾いていた長針塔の先端に、青い光があふれる。

 避難していた人々は、それがなんの光かわからなかった。

 ただ、とても美しいと、そう思った者が大勢いた。


 〇


 青い光に包まれて、ウィゼアは目を開ける。

 パスリムの地下を流れる水路で見た、魔法を運ぶ水が放つものによく似た光だ。

 光はウィゼアの胸元から溢れ出ていた。こんこんと湧きだす泉のように、魔法の力が周囲へ広まり、染みゆき、どこまでも行き渡る。

 彼女にはわかった。その力はこの街の隅々まで流れていくのだと。

 そして、不思議なことに、あるものがどこにあり、それがどんな仕組みなのか、理解できた。街中にある一つ一つ、小さなものも大きなものも、機械式も魔法式も、あらゆる時計が自分自身であるかのように感じられ、意識することができた。

「ウィゼア」

 自分の名前を呼ぶ声に、彼女は前を見る。

「君の呪いは、呪いじゃなかった」

 少年の背中が、自分を守るかのように立っている。

「時計を操る魔法だったんだ。周りの時計の時刻を、君と同じにする。調律の魔法だ」

「ランゼル」

 少年の名を呼ぶ。二度、もう会えないと思った。

「呪いだと思ったのは、君の中の時計が正確じゃなかったから。百年の間に、少しだけ遅れてしまったんだ」

「ランゼル」

「遺産の正体がわかったよ」

 彼はこちらを振り向かない。それでも構わなかった。

「でもウィゼア、それは後で話す。あいつを倒そう」

 少年の見ている先に、復讐鬼がいる。

「君にはわかるかもしれないけれど、上に……」

「わかってる」

 ウィゼアはもう理解していた。どうすれば良いのかを。

「おまえは、いいものを持ってきてくれた」


 まばゆい光の本流の中、ギアソンは黒い影の槍を作り上げた。

「大宝玉を、持ってきたか」

 目を細め、槍を構えて歩み寄る。

「そこをどけ、小僧」

 両手を広げて立ちふさがる少年。その後ろに、まどろむように浮かぶ少女がいる。大宝玉に込められた魔法があまりにも膨大なためか、その身体は床を離れてただよっている。

 これだけの力、全て人間世界を滅ぼすために使えれば、どれほど素晴らしかったか。

 その目論見を潰してくれた相手が、目の前にいる。容赦をする理由はどこにもなかった。

 槍が少年の胸、心臓に突き立てられる。

「う、ぐ……」

 少年が再び血を吐く。

 それだけに留まらず、新たに出した槍を、肺、腸、肝臓、鎖骨、そして脳、思いつくかぎりの急所に串刺す。

 今度こそ殺した。

「それじゃ駄目よ」

 背後でケートリィがたしなめるように言った。

 なんのことかと、振り返ると、彼女はギアソンを見ていなかった。

「ちゃんと避けないと。しょうがない子ね」

 ギアソンは急いで少年に向き直った。

「貴様……っ」

 言葉が彼の喉に詰まる。

「ケートリィ! 貴様、こやつを……!」

 彼の目の前で、串刺しにされた少年の身体が、黒い影となって元の形を取り戻そうとする。

「ええそう」ケートリィは笑った。「その子はもう、私の眷属よ」

「貴様ぁ!」

 ギアソンの激怒は頂点を迎えつつあった。奴隷ではなく、新たな吸血鬼を軽々しく産みだすとは。それも、こともあろうに自分の目論見を潰した子どもを!

「ならば王命に従え!」

 吸血鬼となったのであれば、王たる自分に逆らうことはできない。まだ支配の魔法を使うことができるのは、ケートリィで試したばかりだ。

 ギアソンは服従を強いようと、口を開く。

 だが、彼の背後で、もう一つの口が開いた。

 外から部屋に飛び込んできた飛竜が、その大きな口で、ギアソンの身体に食らいつき、そのまま嚙み潰した。

 リーズは壁面にそれらを吐き出し、叩きつける。

 人形の身体は大きく二つに噛み千切られ、もはや修復不可能なほどにまでバラバラとなり、部品だったものがあたりに散乱した。

 だが、それでもギアソンは死ななかった。所詮、間借りしていた人形が壊れただけであり、吸血鬼としての彼は無傷に等しかったのだから。

 影が集まり、人の姿をとる。

「おのれ、次から次へと」

 影の槍が投げつけられ、かろうじて避けたリーズは空へと逃げる。

 人形の身体は喪った。だが、それはかえって好都合だ。人の姿に囚われることなく、これで好きなように動ける。

「よくやったリーズ」その時、少女が讃えるように言った。「これで終わりだ」

 そして、少年が落ちてきた窓から、新たに四つの影が現れる。

 ギアソンはそれを見て、戦慄した。忌まわしい記憶が蘇る。

 彼は逃げ出そうとした。倒れる人形に入り込もうとした。だが、そんな時間はなかった。

 ウィゼアによって操られた四体の人形が、胸部を開き、そこから吸血鬼にとって致命的である光を放った。

「あが、ああああ……!!」

 ギアソンは絶叫した。恐怖と絶望に満ちた断末魔だった。

「き、きさ、まぁ……! バー、ネン、マ、イゼン……!」

 彼の目は見た。憎き仇敵の娘が、輝く金の瞳で、こちらを見ているのを。

 それはかつて、吸血鬼の王だった彼を打ち負かした男の眼と、同じだった。

「時計を、統べる、者……時計、の、支配、者……」

 彼は理解した。目の前にいるのが誰なのかを。

「時計、王……!」

 人形たちは近づき、それと共にギアソンの身体は崩壊していった。

 だがまだ死んではいない。必死に影を繋ぎ合わせ、生きあがく。

 最後に、彼には見届けたいものがあった。

「もう、遅い……! どうせ、すべて……消え、失せる……!」

 時計塔地下にある千を数える新兵器。ウィゼアに組み込まれた大宝玉から盗みだした魔法がこめられたそれらが起動すれば、ここはおろか、パスリム全域が消し飛ぶ。

 せめてそれを見るまでは。

 そうして苦しみの中で狂ったようにギアソンは笑う。

 だが。

「……な、なぜ……」

 永劫続くような痛みの中、それでも意識を保っていた彼は、いつまで経ってもその時が訪れないことに気づいた。

 音も、振動も、爆発を知らせるものは何も伝わってこなかった。

「なぜ、だ……!」

 それに対する答えは、怨嗟と恨みのこもった声としてやってきた。

「よくも……」

 少女の前に立つ少年が、憤怒に染まった目を投げつけてきた。

 彼は魂の叫びをあげた。

「よくも僕に、時計を狂わさせたなぁ!!」

 ギアソンは見た。少年の手が、背後の少女の身体の中に突きこまれているのを。

 そこに内蔵されている、文字盤の針を、真下へ掴み止めているのを。

「き、さ……!」

 彼は悟った。周囲の時刻を自分の時計に従わせる少女。その彼女自身の時間のほうを、大きく戻したのだと。起爆がはじまるより、はるか前に。

 悟ったと同時。ギアソンの身体に四体の人形がとりついた。

 最大の激痛が彼を襲う。そこへ少年が踏み込んだ。

 渾身の力をこめた拳が、ギアソンと四体の人形を打ち倒した。


 長針塔の先端から、もつれあった人影が落ちる。

 それを見るのは人間ではないものの目のみ。

「あそこに、いるのであるか」

 リーズに語りかけながら、デッケンベルターは拾い上げた槍を握った。

 彼の身体は傷つき、足は折れ、顔は流血で真っ赤に染まっている。目に血が入り、視界はぼやけて何も見ることができない。

「もう目が開かぬ。リーズよ、自分の目となってくれ」

 クェーエ、といななき、リーズは主人を抱えて飛び立った。

 デッケンベルターは全てをリーズに託し、自分はただ槍の一突きに全身全霊を込める。

 飛竜は過たず、落ち行く吸血鬼の王を捉えていた。

 両者が交差する瞬間、リーズは主人を掴んでいた手を放す。

 デッケンベルターは雄たけびをあげ、最後の力を振り絞って、槍を突き入れた。

 パスリムの空に断末魔が轟く。

 影は霧を晴らすように四散し、もはや二度と集まることはない。

 それを見ることなく、しかし確かな手ごたえを得たデッケンベルターは、落下に身を任せながら、声高に告げた。

「悪漢、討ち果たしたり!」


 時計都市パスリムの騒乱は、こうして幕を閉じた。

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