四 時計都市の朝

 中央時計塔の上部にある文字盤の針は、日の出までまだまだ時間があることを示していた。

 パスリムは時計都市であると共に、塔の街でもある。各所に様々な用途のため立てられた塔があり、水の浄化や、運河の流れ、ゴミの焼却、そしてもちろん時を告げるために働いていた。

 それらの塔の中で最も高く巨大なものが、パスリムの中心部にそびえる二つの塔である。時計の針に見立てて、高いほうを長針塔、短いほうを短針塔とし、人々は両者をあわせて中央時計塔と呼んだ。


 長針塔の北向きに面した部屋で、男は窓から外を眺めていた。

 なでつけた白髪まじりの髪を、うしろで結んだ初老の男だ。彼は窓べりに立ち、まんじりともせず夜のパスリムをじっと見ている。

 部屋の明かりは落とされ、街灯や月や星からのものが合わさった光だけが差し込んでいた。

「戻りましたか、ケートリィ」

 男が口を開くと、背後の暗がりから出てくる者がいた。

「首尾は」

「ご覧のとおり、よ」

 男は振り返った。そこには生者とは思えぬ白い顔と赤い眼の女がいた。妖艶ではあったが、今は顔の半分がまだ渦を巻く闇のまま。見れば身体の端々も同じように人の形をしていない。

「取り逃しましたか」

「邪魔が入ったの」

「邪魔?」

「騎士様がね。確か、ターラント、と言っていたわ」

「ふむ……」

 ケートリィと呼ばれた女から視線を宙に外し、男は記憶を探る。

「そういえば、今日の展示会にターラントの貴族が来ていた。特別に招待した相手で、取り計らうよう依頼してきたのは、ハーダー男爵……」

 頭の中の名簿を閲覧していた男は、ある時計店の名前にたどりついた。

「ベルランフィエ。男爵お気に入りの店。探ってみるべき、か」

「お役に立てたかしら」

 吸血鬼ケートリィが半分の顔だけで笑う。

「目的は果たせなかったが、手がかりが掴めただけ良しとしよう」

「それなら結構。それじゃ、私は休ませてもらうわ」

 男は窓の外を見た。北向きとはいえ、そこからでも日の出前であることはわかった。

「夜が終わるにはまだ早いのでは」

「吸血鬼も不死身じゃないのよ。あなたたちには、そう見えるのかもしれないけどね」

 嘲笑するような、自嘲するような笑い声を残して、ケートリィの姿は闇に溶けた。

 部屋の中に一人取り残されたのを確認するかのように、時間をおいてから、男は呟く。

「不死身ではない、か」

 窓の外はまだ暗いものの、徐々に夜空から星が消えていく。夜明けが近い。


 〇


 東の空が白む頃、西の空に姿を現したものがあった。

 空を飛ぶ巨鯨のような船は、ロンビオンの最新鋭飛行船『空の女王号』である。

 世界に冠たる大帝国の首都から歓声と共に見送られてより半月あまり。処女航海を済ませ、いよいよ大計画である世界一周の旅に出ようとしていた。

 しかし前代未聞の長旅には、緯度経度を正確に計測するための装置が必要となる。空を進む女王は、それを受け取るべく、まずは小さな山国を訪れようとしていた。


 飛行船の展望室に入ってきた若い男は、目当ての人物をすぐに見つけた。

 欄干に寄りかかり、ガラス張りの壁面越しに飛行船の進行方向を眺めているのは、上背が高く、猫背で、陰気な顔をした壮年の男である。

「おはようございます。ここにいましたか、マゴンサット卿」

「おはよう、ポービズリー君」

 それだけを言うと、マゴンサット卿は再び黙りこんだ。ポービズリーのほうは、大して意に介さなかった。いつものことである。

 しかし珍しいことに、ポービズリーが近づいて隣へ並ぶ前に、再び口が開かれた。

「見たまえ」マゴンサット卿は地上を指さした。「パスリムだ」

「もう見えてきましたか。あれが、時計都市」

 山間に突如として、尖塔が立ち並ぶ大きな町が現れた。飛行船が近づくにつれて、その広さと、塔の多さがよく見えた。

「あの時計塔が全て、魔法の時計なんですか」

「パスリムは時計産業で栄えた街だ。時計王バーネンマイゼンが基礎を造り、百年かけてその業を磨いてきた。東方の異教徒との戦争が終わり、他の国々が衰退していく中で、オストワイムがかろうじて存続しているのは、ここの時計機械によるものと言っても過言ではない」

 マゴンサット卿はつらつらと語る。同僚に聞かせるようでもあり、独り言のようでもあった。

「そういえば、明日が、その百年を祝う祭だそうですね」

「本来は秋分の日の祭りだ。とはいえ時計王の時代から、重要な日とされていたようだが。昼と夜の時間が同じになる日は、時刻合わせの基準になる」

「なるほど」

 解説に頷いてから、ポービズリーは用事を思い出した。

「忘れてました。マゴンサット卿、船長がお呼びです」

「そうか」

 うってかわって、それだけを言うと、マゴンサット卿は億劫そうに歩きだす。

 その背中を追って、ポービズリーは苦笑しながらついていった。


 〇


 話し声や旋盤の動く音、どたどた歩く音がする中で、ランゼルは目を覚ました。いつの間にか身体には毛布がかけられている。

「よ、おはようさん」

 視線を上げると、机の上にウィゼアが腰かけていた。ランゼルが目をこすりながら上体を起こすと、彼女は何かを放り投げてきた。リンゴだった。

「ありがと。なんだか騒がしいね」

 朝食がわりのリンゴを頬張る。みずみずしい果汁が喉を潤し、齧る時の歯ごたえが頭から眠りを追い出す。

「おまえが寝ちまったあと、ターラントの領主様ご一行が来てな」

「シャペオン様が?」

 ランゼルは立ち上がり、窓へと近寄った。

 ベルランフィエの工房の前に、数台の馬車が停まっている。昨夜見かけたシャペオン夫人の付き人の姿も何人か見えた。

「なんでここに」

「リーズが教えてくれたんだとさ。領主様は今、工房の人たちと話をしているところだ。事情を漏らすことになったが、あの人が昨日の件を喋ってくれたおかげで、色々と楽になったよ」

「僕らと一緒に襲われたもんね。デッケンベルターさんは? 無事だった?」

「そこにいるだろ」

 見ると、部屋の隅、壁に背をあずけるようにして、デッケンベルターが座り込んでいた。

「吸血鬼とやりあって疲れたろうって、休むよう言われたんだ。まだ寝かしといてやろうぜ」

 デッケンベルターは目を閉じ、静かに呼吸をしていたが、両手にはしっかりと槍を握りしめたままだった。再び吸血鬼が来ることを警戒していたのだろうか。

 ランゼルは起こさないよう、慎重に足を運びながら、顔を洗うため廊下へと出ようとした。ところが、その努力はすぐに無駄になってしまう。

「大変だ!」

 工房全体を震わすような大声をあげて駆け込んできたのは、技師の一人だった。

「本店に官憲が乗り込んできた! 店にはとても近づけない。ここも危ないぞ!」


 工房は一挙に慌ただしくなり、まるで戦争でもはじまるかのような騒ぎとなった。

「中央に忍び込んだ盗人を匿ったって疑いがかけられていた」

「いくらなんでも動きが早すぎる。普通、乗り込むにはもっと時間がかかるぞ」

「俺らの中に内通したやつが?」

「だったらまず、こっちに来るだろう。別の証言か、証拠があったか……」

「とにかくこれで、話の信憑性が増したな」

 技師たちは頷き、ウィゼアを見た。

「手が早いが、ここにいることはバレてないらしい」

「じゃが、本店がシロとわかれば、次はここじゃ。時間の問題じゃぞ」

「一旦、隠れるか、逃げるか……」

 うつむいていたウィゼアは工房長を見た。

「後のことを任せていいだろうか。奴らにここで見つかってしまったら、皆にも迷惑がかかってしまう。私はここに残れない」

「心配するでない。元より中央とやりあうのは大人の仕事じゃ。何を言われようが聞かれようが、シラを通してやるわい。じゃが、お嬢さんのほうこそ気をつけるのじゃぞ」

「わかっている。捕まるような下手は打たないさ」

「それと、ランゼル坊もつれていくといい」

「え、僕?」

 顔を洗って戻ってきたばかりのランゼルが素っ頓狂な声を挙げた。

「吸血鬼に顔を見られたのじゃろう。お嬢さんがおらずとも、おぬしがおったら間違いなく面倒じゃ。一緒についていって、ほとぼりが冷めるまで隠れておれ」

「い、嫌だ! こんな時計の天敵みたいな子と一緒なんて!」

「私だって好きで呪われてるわけじゃねぇ!」

 昨夜の続きといわんばかりに、取っ組み合いの喧嘩をはじめた二人を、技師たちは呆れながら見ていた。そこで工房長は「あれを持ってこい」と指示を出した。

「喧嘩しとる場合ではないぞ。お嬢さん、例の時計じゃがな、軽く中を見ておいた」

「ああ」ウィゼアはランゼルの顔を掴んだまま答えた。「それでどうだった?」

「ふうむ。それがのう、何の変哲もない時計じゃった」

「そんな馬鹿な」

 信じられないという顔をしつつ、ウィゼアはランゼルを振り払った。

「間違いないのか?」

「ベルランフィエの名にかけて。これを見るのじゃ」

 工房長は、時計王のものとされる懐中時計と、その中身をスケッチした紙を出した。

「中にあった時計魔法陣は一枚。他におかしなカラクリはなかった。魔法陣にしても、ごく初期の単純でありふれたものしか彫られておらん。こいつにできるのは、ただ周りから魔法の力を集めるだけじゃ」

「そんな……」

「そもそも、どういう謂われの品なのじゃ?」

「時計王の真なる遺産に、たどり着くための、鍵、だと聞いている……」

「ふうむ」工房長は、あごひげをなでた。「真なる遺産、とな?」

「例の遺産、つまり、兵器のことだと思うが」

「なるほどの。もしかすると、どこかにこの時計を使うべき部分があって、これが集めた力で、遺産の時計魔法陣を動かす仕組みになっとるのやもしれぬな」

「そうか……調べてみる価値は、あるか」

「ともあれ、これも持っていきなされ。ここに置いていても、見つかれば取り上げられてしまうからの」

 ウィゼアは懐中時計を受け取り、しばらく見つめた後、それをランゼルに向かって突き出した。

「お前が持ってろ」

「はぁ? 何言ってるの? いいの?」

「どうせ私が持ってたら狂っちまうからな」

 そういうことなら、とランゼルは懐中時計を受け取り、大事に布にくるんでしまいこんだ。


 ウィゼアとランゼルは工房を出る用意を急いで済ませた。

 当面の食糧としてパンや乾燥させた果物、技師たちが持ち寄った小銭、それからウィゼアは壊された靴のかわりに、工房にあった革靴を譲り受けた。

「色々とすまないな」

「タダじゃねぇさ。事が終わったら中央の後継者はお嬢ちゃんだろ。色々と便宜をはかってもらうぜ」

「ああ、いい仕事紹介してやるよ」

 そうしてウィゼアとランゼルが皆に見送られて玄関から外へ出ようとした時、逆に外から見張りの者が戻って来るのと鉢合わせした。

「やつらが来る! もうジーマイアーの鼻先まで来た、時間がない」

「思ったより早かったのう……」

 工房長がぼやくと、それに泰然とした声をかけた者がいた。

「私が時間を稼ぎましょう」

「シャペオン様」

「ターラントの領主が、魔法の時計を作るところを見学に来ている。終わるまで邪魔をしないように。これでどうかしら?」

「かようにしていただけますなら、これ以上の助力はございませぬ」

「ふふ、私、一度でいいから、こういう権力をかさにきた貴族をやってみたかったのよね」

 子どもっぽく笑う夫人。

 そこへ、デッケンベルターが膝をつき、頭をたれた。

「シャペオン様。自分も二人に同行したく存じまする。かように面妖な事態に、子どもだけを逃すはあまりにも危険。ここはどうか、護衛の任を解き、自分を行かせてくださいますよう」

「あら。主を守るのが騎士の役目ではなくて?」

「護衛の者は他にもおりますれば、自分一人が欠けても大事ないかと。しかれども、無力な子を守る者がおらず、それを看過することのほうこそ、騎士の道ではありませぬ」

「よく言いました。それくらい聞き分けが悪いほうが、あなたには良いわ」

「まあ、騎士様も顔を覚えられているだろうしな。ここにいたらまずいだろ」

 ウィゼアが茶々を入れたが、デッケンベルターには聞こえなかった。

「さあ立ちなさい。ほら、ボタンが曲がっていますよ」シャペオン夫人はデッケンベルターの胸元についているボタンを正した。「これで良し。それじゃ、二人をお願いね」

「は、必ずやお守りするであります」


 かくしてランゼル、ウィゼア、デッケンベルターの三人は、工房の裏口から外に出て、逃避行を開始した。

「それでどうする。またリーズで一っ飛びか?」

「いや、こう晴れていては一目で気づかれてしまうのである。街の外へ逃げるとしても、なるべく人目のつかぬ頃合いが良かろう」

「つまり日が暮れるまで、どこかに隠れていたほうがいい、ってことか」

 ランゼルは周りを見渡した。どうするべきか。運河を行き交う舟に乗るか。どこかの建物に潜むか。相手は地元の官憲、生半可な逃亡先の選び方ではすぐに見つかるはず。

 ごく一部の人間しか知らない場所はないか。そう考えるランゼルの目に、一本の塔がうつりこんだ。

「あそこ」ランゼルは塔を指さした。「あの三時塔へ行こう」

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