二 時計都市の襲撃

 ランゼルは咄嗟にウィゼアを抱えて車外へと転がり出た。意図してそうしたわけではない。車体が横転する時、ランゼルのほうへウィゼアが倒れてきたからである。

「追手か!」

 ランゼルにかばわれる格好になったウィゼアが叫ぶ。

「荒っぽいことしやがって。おい、もう大丈夫だから離せ」

「あわ、わ、ごめん」

 謝るも、突然のことに身体が委縮し、腕は震えたまま少女から離れてくれなかった。

「しょうがないやつだな」

 ウィゼアはランゼルごと立ち上がろうとした。が、その足元へ何かが飛来し、石畳を穿った。まるで警告のように。

「動くと当たるわよ」

 闇夜の中から、冷たい声が飛んでくる。

 あたりは中央街とマニスリング街の間にある、ちょうど街灯が少なくなる場所。路地の影はいたるところにあり、声の主がどこにいるか、それまで明るい車内にいたランゼルにはわからなかった。

「シャペオン様、ご無事でありますか!」

「平気よ、あなたのおかげね」

 ランゼルたちから少し離れたところに、デッケンベルターと、彼が身を挺して守ったシャペオン夫人が、同じく路上に投げ出されていた。御者は、暴れる馬をおさえようとして、逆にふりまわされている。

 後ろにはシャペオン夫人の伴らが乗った馬車がいるはずだが、検問に引っかかった際に、離れてしまったらしい。暗い夜道の中から彼らが出てくる気配は当分なさそうだった。

「お友達を巻き込みたくなければ、大人しくしなさい」

 姿の見えない声が告げる。

 ウィゼアは立ち上がろうとするのを止め、しゃがむように膝を折った。

「ランゼル、そのまま掴まってろ」

 小声でそう囁くと、彼女はひそかに手を自分の靴に伸ばす。

 ウィゼアが履いているのは、令嬢が着るような青い服とは釣り合わない、古びた丈長の靴である。そのくるぶしのあたりを、左右とも触る。

「ちゃんと動けよポンコツ!」

 そう叫ぶと、ウィゼアは地面を蹴った。

 彼女の身体はランゼルをかかえたまま、後ろへと飛び退る。およそ十歩の距離を一息に飛び、軽々と宙を舞う。

 着地と共にウィゼアは体をひねり、向きをかえ、そのまま夜の街を駆け抜けていった。


 ランゼルは身体中の血がどこかへ置いていかれるように感じた。

 ウィゼアが地を蹴り、鳥が水面すれすれを滑空するように、わずかな時間を飛ぶ。

「すごい!」ランゼルは思わず叫んだ。「『ヒヨドリの靴』だ! まともに動いているの、はじめて見た!」

「耳元でわめくな! それより後ろ、まだ追ってきているか?」

 長い浮遊の間に、ランゼルはウィゼアの背後をうかがうが、街並みに夜は濃くたちこめて、そこに何がいるか、いないか、判断できない。

「何も見えない。もっと街灯の多い場所へ!」

「よし、落ちるなよ」

 ウィゼアは身体をより低く、前に倒し、夜風と一緒になって地を駆ける。

 いくつもの路地を抜け、やがて二人は大きな道に出た。パスリム市街をつらぬく運河に面した通りだ。河に沿って街路灯が立ち並び、夜を明るく照らしている。

 二歩、三歩とスキップをするように速度を落とし、ウィゼアは地面に降り立った。

「ベルランフィエはどっちだ」

「だいぶ離れたね。ここからだと工房のほうが近い」

「工房か、店よりそっちへ逃げたほうが良いかもな」

「今夜はまだ人がいるはずだ。匿ってくれると良いけど」

「このあたりで工房なら、ジーマイアー街だな」

「そうだよ、運河を下った先にある。あの橋を渡ろう」

 ランゼルは運河に架かる橋を差した。渡るのに一分もかからない小さなアーチ橋だ。

 二人は駆け足で橋のたもとまで向かう。

「シャペオン様たち、大丈夫かな」

「馬鹿、狙われてるのは私なんだ。こうやって逃げていれば向こうは大丈夫に決まってる」

「じゃあ君と一緒にいる僕は危険ってことに」

「お前に案内してもらわないと、場所がわからないんだよ」

 それもそうか、と言おうとしたランゼルの足が止まった。

 目の前には橋があり、向こう側が見えている。しかし見えているのは橋だけではなかった。

 アーチの頂上、橋の中央に、黒いタールのようなものが溜まっている。それは周囲から夜の闇を集め、徐々に大きく、広がっていく。

 その中央に、白いものが生えた。白い、人の腕。それは手首をひるがえし、何かを放った。

 すると橋の両脇に建てられた時計式の街灯が、ガラスの砕ける音を響かせ、明かりを失った。瞬く間に全ての街灯が破壊され、橋の上に本来の夜が戻る。

 闇の中、黒い水たまりは盛り上がり、芽吹くように上へと伸び、人の形をとる。

「こんばんは」

 黒い影から現れたのは、女の白い顔だった。赤い眼がランゼルたちを見る。

 いつのまにか影は黒い髪、黒い服に変わっていた。月の光がなければ、夜の闇に混ざり合って輪郭がわからなくなっていただろう。

 再び、女の白い手から何かが放たれ、今度はランゼルたちの足元で弾けた。

「動くと当たるわよ」

「吸血鬼、か?」ウィゼアは問う。「その声、馬車を襲ったやつで間違いないな。だが何故だ。なんで吸血鬼が私を狙う」

 女は妖艶に笑う。赤い唇から赤い舌がのぞく。

「あなたが、私たちの宝を持ち逃げしようとするからよ」

「やっぱりあの馬鹿どもの差し金か! 吸血鬼を仲間にするなんて血迷いやがって!」

 ウィゼアは忌々しげに吐き捨てる。

「返すつもりは、あるかしら」

「ねぇよ。元から私のものだ」

「そう、だったら」女は腕を伸ばす。「バラバラにしてから、ゆっくり頂くわ」

 ウィゼアはランゼルの背に腕をまわし、抱きかかえた。

「掴まれ!」

 ランゼルはその言葉に従った。

 ウィゼアは女に背を向け、膝を曲げる。

 そこを目がけて、女が腕を翻し、凶弾を放つ。

 しかしウィゼアには当たらなかった。彼女は逃げるように見せかけて、逆に橋と吸血鬼のほうへ飛んだのである。

 トンボ返りをするように、ウィゼアとランゼルは女吸血鬼のはるか頭上を飛び越える。

 だがランゼルは見た。眼下の橋の上に佇む女が、もう一方の腕を翻すのを。

 金属が砕ける音が鳴り響いた。ウィゼアの履く靴の片方が、靴底を撃ち抜かれたのである。

 撃たれた衝撃で身体の体勢が崩れ、ランゼルたちは着地に失敗し、路上へ投げ出された。


 したたかに身体を打ち付け、地面を転がる。

 痛みに耐えてランゼルが身を起こすと、吸血鬼が一歩、一歩、橋の上を歩いてきていた。

「それでもう逃げられないでしょう」

 ランゼルの傍らに倒れ伏すウィゼアは、起き上がろうとして、ひしゃげた靴底のせいで足を滑らせ失敗した。もはや魔法で跳ぶことはできそうにない。

 女は、橋のたもとに建っていた時計式街灯を、またしても手から放つ何かで撃ち砕く。

「忌々しい街ね。どこもかしこも時計だらけ。私、時計は嫌いなの」

「へぇ、奇遇だな。私もあんまり好きじゃねえよ」

 倒れながらも毒づくウィゼアに、女は笑う。

「おかしな話。バーネンマイゼンのお嬢さんが、時計を好きじゃないなんて」

「バーネンマイゼン……?」

 ランゼルは茫然と呟いた。その名前はパスリムの住人であれば知らぬ者などいない。時計王ヴェンツェス・バーネンマイゼン。稀代の天才。時計都市の生みの親。

 だとしたらウィゼアの正体は。

 しかしランゼルは、それより大事なことのために立ち上がった。

「あら。あなたはお友達かしら?」

 女は歩みを止めた。眼中になかった少年が、少女の前に立って、両腕を広げたからである。

「そこをどいてちょうだい。当たると痛いわよ」

 蛇のような赤い眼がランゼルを見る。ランゼルの歯は恐怖でカチカチと震えたが、彼は勇気ではなく怒気でもってそれを抑えつけた。

「盗んだとか、盗んでないとか、どっちが正しいのなんて、僕は知らないよ。たださ」

 ランゼルは叫んだ。

「時計を、壊すな!」

 唐突な大声に、女は呆気にとられたように言葉をなくした。

「一つの時計を作るのに、どれだけの労力が注ぎ込まれていると思っているんだ。細かい部品を作って、部屋の温度や湿度も気にかけて、背骨が悲鳴を上げるまで机にむかって作業してるのが誰だと思ってるの。僕らだよ!」

 ランゼルは両手をわなわなと震わせる。

「壊れた時計を修理するのだってそう! しかもなんだよバッラバラに砕くような壊し方しやがって! 治すのにどんだけ苦労することになるかわかってんの!? これから直すの誰だよ、僕らだよ!!」

 彼は地面を指差す。

「さらに、さ、ら、に! 六個だ。六個もだ! 街灯五つに靴を片っぽ! この子が履いてた靴にだって、時計魔法陣が内蔵されているんだ。人の体に働きかける魔法でこれほど見事なのはそうそうないよ。凄い職人技だ。それをよりにもよって僕の目の前で壊しやがって! 壊しやがってー!!」

 地団駄を踏まんばかりに、ランゼルは咆えた。

「どっちが悪いかなんて知るか! 僕は時計の味方だ。そしておまえは時計を壊した。つまり僕の敵だ。絶対に許さない!!」

「それで、どうするの?」

 女は妖艶に笑い、首をかしげる。

「あなたに、なにができて?」

「時間稼ぎには、なったさ」

 いつの間にか立ち上がったウィゼアが、負いかぶさるようにランゼルの背中へ身を預けた。

「もう片方はまだいける」吸血鬼に聞こえぬよう、ウィゼアはささやく。「後ろの路地へ逃げ込む。そこから先は最悪おまえだけで逃げろ」

「あきらめるの?」

「捕まってたまるか。おまえを抱えていたら逃げきれないって話だよ」

 ウィゼアは羽交い絞めするように後ろからランゼルを抱く。

 それを見ながら、女は獲物を前にした蛇のごとく音を立てず、手に白い凶器を生やす。

 ウィゼアが跳躍の、女が投擲の構えを見せた。


 その時、夜空の上から黒い大きな影が、橋上の吸血鬼めがけて落ちてきた。

「な、に」

 初めて女の顔から笑みが消え、驚愕が浮かんだが、それは顔の右半分だけだった。残る左半分と胴体は、背後から激突した巨躯に蹴散らされ、黒い影となって四散した。

 ランゼルたちの頭上を、小舟ほどもある影が飛び過ぎ、夜空へと戻っていく。月の光に照らされて、翼が見えた。竜だ。小型の飛竜だ。

「どこの、誰、かしら。邪魔、を、する、のは」

 残った右半分の顔で、女が呻く。飛び散った影が、再び集まろうとしていた。

 そこへ飛竜がまたしても舞い降りてきたが、今度は吸血鬼を襲わず、ただ真上を過ぎ去る。だが去り行く前に、その背中から飛び降りる者がいた。

 彼は吸血鬼と、ランゼルたちとの間に降り、すっくと立ち上がると、手にした槍を地面に打ち立てた。耳あてのついた煙突のような軍帽と厚手の軍服は、高い空の寒さに耐えるためのものであり、竜を駆る騎士の証に他ならない。

 突如として現れた男は、夜を震わす大音声で朗々と口上をのべた。

「やあやあ、我こそは北のかたターラントはバンデンタール領主シャペオン様にお仕えする騎士、ハザル・マルクト・デッケンベルターである。そこな女怪よ、いたいけな子どもを狙うとは不届き千万。これより自分がお相手つかまつる!」

「デッケンベルターさん!」

「おお、無事であるか二人とも」デッケンベルターは後ろを振り返らずに破願した。「我が主の命により、急ぎ助けにまいった。間に合ったようでなにより」

「あなた、は、お呼び、じゃ、ないの、よ」

 女は、かろうじて残った手から凶弾を放つ。

 しかしそれをデッケンベルターは槍の一閃で撃ち落とした。

「すげぇ」

 ウィゼアが感嘆の声を挙げる。

「ここは任せて、先に行かれよ!」

 言う間に再び飛来した追撃が、またしても槍に弾かれた。

「よし」ウィゼアは跳躍の体勢に入る。「今のうちに逃げるぞ」

 二人はデッケンベルターに背を向け、路地の先に向かって飛んだ。

「逃がさない」

 怒りの色をにじませ、女の執念が襲いかかる。人間の姿に戻りきれていないのを逆手にとり、吸血鬼は影を伸ばして両腕を左右に広げた。およそ身長の三倍はあろうかという、長大な蜘蛛じみた手。いかに騎士が立派な体格をしていようと、その角度から放たれては逃げる二人の盾にはなれない。

 一投目が飛来。

 それをウィゼアは、片足だけでなんとか地面を蹴り、上に飛ぶことで回避。

 だが吸血鬼はその動きを読んでいた。

 二投目が空中で身動きの取れない二人に迫る。

「リーズ!」デッケンベルターが高らかに叫んだ。「行け!」

 上から飛竜が飛び込み、すくいあげるように二人をさらった。

 そのまま一直線に夜空へと向かう。

 眼下の景色はぐんぐんと遠ざかり、橋も、運河も、街も、なにもかもが小さくなっていく。

 やがて雲に届きそうな高みに至った時、青白い月の光に照らされて眠る時計都市パスリムの、緻密な装飾が施された時計がごとき全景を、ランゼルは生まれてはじめて目にしていた。

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