第16話 抱き枕は動かない

 太一は布団にうつ伏せ姿で携帯端末に映る文字列に渋面を作る。

 文字列の正体は読めない、書けない、発音できない三拍子揃ったドイツ語だ。

「なに見てんのよ?」

 未那が隣のベッドから顔を、ひょこっと出している。

 どこか可愛らしく、長い髪がさらりと流れ落ちた。

「もう海外のエロサイトを私の部屋で見ないでよ。部屋が太一臭くなる」

「はい、お休み」

 目尻を強張らせた太一は携帯端末の電源を落として枕元に置く。

 閲覧していたのはバイト先の店主、夏杏の大学生時代の論文である。

 物は試しに検索した結果、見つけ出した。

「もうただの冗談なのに、真に受けないでよ」

「その太一臭さの原因を部屋に招き入れたご当人のセリフじゃないね」

 やや声を膨らせる太一であるが未那の口元はどこか上機嫌である。

「発散するならどうぞ」

 ベッドの上をぱしぱし叩いて未那が誘ってきた。

 部屋に招かれ、中にいる時点で男女が次にどう進むべきか、条件は揃っている。

 懸念すべき千草は朝から所用で出かけるとかで既に就寝済みだ。

 男の欲情に追い打ちをかけるように未那はパジャマのボタンを四つほど外してはブラジャーを曝け出している。

 ボタンを外すだけでは終わらない。

 いつの間にかベッドの下――正確には太一が寝る布団の上にパジャマのズボンが落ちている。

 当然のこと元の着用主は瑞々しい生足を見せつけていた。

「独りで発散できるからいいよ」

 理性がまだ乗るべきではないと囁く。

 同時に性が、乗り、犯し、出せとやかましく叫びまくる。

「未那は僕を挑発して楽しいの?」

「挑発だなんて失礼ね、私がしているのは誘惑よ、ゆ・う・わ・く~」

 相手を誘う意味では同じであろう。

 母性を揉みたいと本能で動く五指を理性で抑えながら太一は今一度問う。

「きみは僕をどうしたいんだい?」

 顎に手を当てながら未那は天井を見上げては考え込む。

 唇がいたずら悪魔を宿して歪むのを太一は見逃さなかった。

「私好みの男にする!」

「例えば?」

 女の好みは何かと細かくうるさい。

 好みの髪型、好みの服装、好みの体格、星の数を越えるほど女の願望は多い。

 女の願望を叶えるのが男の願望だとしても男の器は大きいだけで無限ではない。

 応え続ければ男か、女か、どちらが先かはさておき、関係が崩壊するのが目に見えていた。

「とりあえず、据え膳を即座に食う男にするかな」

 つまりは今すぐ未那の誘惑に乗れということだ。

「人並みの性欲があるのは否定しないけど時と場所は弁えているつもりだよ」

「なら、今がその時でしょう」

 論破された太一は苦々しく奥歯を噛みしめる。

 どう転がろうと既に未那の手の平の上。

 部屋に招かれ、寝具を並べて寝ることに慣れ親しんでいる太一に対して、ただ寝て朝を迎える現状を未那は変化させようとしている。

「なら食べようか」

 未那の期待に応えるため太一は行動を起こす。

 最初に右手で未那の両手首を掴んで力を持ってベッドへと押さえ込み、声だそうとする口を開いている左手で封印する。

 思考に生じた空白から回復する時間を与えることなく太一は未那に覆い被さっていた。

「ん~! ううん~っ!」

「ちょっとなにいっているかわからないな」

 両目をやや釣り目がちに怒らせた未那から抗議の目線が飛ぼうと照れ隠しと片づける。

「誘ったのはきみだよ? それともきみは食べられるのが嫌なのかい?」

 耐えに耐え続けてきたわけだが、何事にも限度がある。

 ここら辺で一発爆発してもなんら問題ではない。

 なにしろ同意である。誘ってきたのは女だからだ。

「最初は、どこからがいい?」

 未那の動きを封じるために両手は塞がっている。

 自由に動かせるのは目や口の二つのみ。

 手始めにキスで攻めるのが順当だろうと、ここにきて太一は己の失態に気づく。

 キスの一番槍を入れようともキスとは唇と唇同士を接触させること。

 太一の口は開いていようと未那の口は塞がれている。

 あろうことか太一自身の手で、だ。

 これではキスができない。

 かといって迂闊に手を離せば文字通り手痛い反撃を受けるだろう。

 一番槍の位置を変更、未那の首筋に軽く口づけをする。

「くん!」

 柔らかく吸いつくような触感が太一の唇に微弱な電流を走らせる。

 未那も電流が走ったかのように身体を震えさせた。

 口元を抑える手の平には未那の吐息がかかり、ほんのりと湿り気を与えてくる。

 この湿り気が太一の心拍数をあげ、頬に熱が帯びていくのを感じ取る。

「次は……」

 未経験が故に次が浮かべず、ここに来て未那を無理矢理抑え込んでいる現実が良心に突き刺さってきた。

 未那が涙目で手を離すよう懇願している。

 若気の至りで抑え込んだとはいえこの状況は少年が望むシチュエーションではない。

「ん~! んん!」

 すると未那が口の拘束から逃れんと顔を乱暴に動かしてきた。

 咄嗟に太一は口元を抑える力を込めてしまう。

 鼻息が手の平ではなく手の甲に当たっていることで呼吸が確保されているのを確認する。

「もう静かにしてよ。あんまり騒がしいとおばさんが起きるよ?」

 優しく目を見ながら太一は諭すも未那は静かになるどころか、動く左足でバシバシと少年の身体を叩いては部屋の外――それもドアの方を左足指で指さしてきた。

 一瞬、気を逸らさせる作戦なのかと警戒を張りながら抑え込む力をそのままにドアの方に視線を傾けた。

「あ、気にしなくていいわよ」

 母親は見ていた――まさにこの一言ですべてに説明が付く。

 いつからか不明だがドアの隙間から千草が男女の進展具合を粒さに眺めている。

 訂正する。千草だけではない。千草の胸には夫である学人の遺影が抱き抱えられていた。

「太一くん、てっきり草食系と思ったけどしっかり肉食だったのね。あなた、見ているかしら? あの太一くんが未那を押し倒すまで成長しているわ」

 太一は涙ぐむ千草から視線をゆっくりと未那に戻した。


『とっとと離せっ!』


 目は口ほどに物を言う。

 殺意を込めた視線が太一の本能を殺し、良心だけを生かしてきた。

 だからこそ太一は未那の自由を奪っている手を離してしまう。

「このバカ太一!」

 良心により力を緩めた太一は未那にベッドから突き落とされる。

 床へと尻餅をつくだけでなく壁に背を打ちつけ、背から胸を貫く衝撃に軽くせき込んだ。

「もう未那!」

「デバガメお母さんは黙ってて! これは私と太一の問題なの!」

 片足を引きずる形で未那は尻餅つく太一に近づけば肩を震えさせて言った。

「なんでいきなり首筋にキスなんてするのよ!」

「キスマーク、見事についてるわね」

「ああ、もう恥ずかしくて外歩けないじゃないの!」

 怒る箇所が違うと指摘したい太一であるが沈黙は銀を選ぶ。

「自分の唇で塞ごうとか考えないわけ? そうしたらディープなキスができたのに、これだから童貞は女の扱いが下手なのよ!」

 ひどい言われようである。

 童貞であることは否定しないが、処女に言われるのはどこか腹に来るため太一は鋭い口調で反論した。

「ならもう一度押し倒されたい?」

「ちょ、ちょっと待った! お母さんがいるでしょう! 時と場所を弁えるんじゃないの!」

 未那はベッドに腰を下ろしては困惑した顔で両手を壁のように構えてきた。

 その姿は毛を逆立て警戒する猫のようだ。

 押し倒すのは本気にさえなれば太一には容易い。

 膂力、体力、体重は上だが横槍は御免こうむりたい。

「あとは若い二人に任せましょうか、ねえあなた」

 遺影に愛しく話しかけた千草は幸せそうな顔で寝室へと戻っていった。

 この場はお見合い会場ではなく、娘の部屋なのだが関係ないようだ。

 今頃ベッドの上で初孫の名前を考えていると想像する少年は軽く自己嫌悪に陥った。

「……き、今日は下で、ね、寝るよ」

 降臨した沈黙が太一に良心の呵責と気まずさを与え、即座に寝具をまとめて一階の和室に向かおうとする。

 若気の至りで未那と諸々の事象に至ろうとしたのは隠しようがない事実。

 未那の不機嫌度はマックスを超えているため、謝り倒しても許すことはないだろう。

「逃がすか、こら!」

 中腰で寝具を畳もうとした太一は背後から未那にのしかかりの報復を受ける。

 肩胛骨当たりに女の柔らかさが直撃するも少年は顔面を寝具に埋もれさせていた。

「あんな恥ずかしいことしておいて、逃げるとかこの私が許すわけないでしょうが! 振る腰はあっても腰抜けヤローめ! 今回は許さないんだから!」

 未那の両腕はがっしりと太一の首をロックして逃さない。

 最低限、呼吸が確保できるスペースは少女の慈悲にあるとしてもその気になれば、いつでも絞め殺せる意味を持っていた。

「く、苦しい!」

「私はあんたの二倍どころか二乗は苦しかったのよ!」

 二の二乗は四であることから実測値、二倍ではなく四倍である。

「おりゃ!」

 未那は全体重をベッドへと傾けては太一と揃って飛び込むように倒れ込んでいた。

「生殺しの刑にしてあげる」

 先ほどまで未那に覆い被さっていた太一は覆い被さられ立場が逆転していた。

「あんたの性格はこの私が誰よりも知っているんだから!」

 太一は首のロックから解放されたかと思えば、顔面を未那の胸元に押しつけられた。

 そして今度は頭部が未那の腕によりロックされる。

「み、未那!」

 きめ細かな肌が太一の瞳に大写しとなる。

 鼻先に柔らかな乳房の感触がダイレクトに伝わり太一の理性と意識を混濁させる。

 鼻腔を甘い匂いが理性回復の呼び水となり、それが女の汗だと知る。

「一度失敗すれば次は二の足を踏む。あんたの悪い癖よ!」

 ぎゅっと胸部へと押しつけると同時に締め付ける。

 振り払おうとする役目を持つ太一の手は混乱にて宙を無惨に踊る。

「罰としてあんたを一晩私の抱き枕にしてあげる! 抱き枕は喋らない、触らない、動かない! まあガン見する程度なら許してあげる! 勇気があるなら舐めてみなさいよ!」

 生殺しもさることながら本質は夜中のトイレすら認めぬ恐ろしい刑であった。

「触るな!」

 未那の左肩にうっかり触れた手が怒声にて引っ込められる。

 力を持って振り払えば容易くともその次の行動が浮かばぬ為、未那の指摘通り太一は二の足を踏んでいた。

(……ん?)

 大接触する乙女の柔肌を網膜に焼き続ける中、太一はその素肌に違和感を抱いた。

 ブラジャーで覆われた乳房の片方――左下、それも心臓がある位置からほんのり柔らかな光が放たれている。

 蛍、と一瞬錯覚する太一であるが蛍はこの時期に現れるはずがない。

 なにより蛍の光は淡い蛍光色だ。今放たれているのは赤である。

「ちょっと、ああっ――んっ、太一、動くなっていったでしょう!」

 その光の正体を確かめようと顔を動かした際、太一の髪が未那の肌にこすれ、どこか色っぽい声を出すも怒りが上書きする。

(円……? いや、これは)

 顔を未那の左乳房近くまで動かした太一は眼前に大きく映る光に瞠目する。

 なにかしらの円であるが線が走り、文字のようなものも見受けられる。

 ただし、Bなのか、8なのか、近すぎるため正解を確認しようがなかった。

「ふん!」

 動くのを許さぬ未那は強制的に太一の鼻先を乳の谷間に埋める。

 首がゴキっと不吉な音を鳴らそうとお構いなしときた。

「抱き枕が動かない! 動くなら、さらに生殺しにしてあげる!」

 太一は頭部を拘束する腕から解放される。

 続けざま未那の背面から拘束具が外れる音がすれば眼前からブラジャーが消え去った。

「ちょ、ちょっと未那!」

 未那は乳房をブラジャーから解放していた。

 戸惑う太一を余所に手に持つブラジャーを布団の上に放り投げた少女は再度、男の頭を両腕で拘束して乳の谷間に埋めさせる。

 布越しではない乙女の乳房がダイレクトに男の肌と鼻先に触れ、性を頂へとこみ上げさせていく。

「ふふ~ん、やっぱ太一も男の子よね~」

 未那は勝ち誇った笑みで太一の足に己の左足を絡めてくる。

 膝が下腹部に当たっているため、太一の男がどうなっているか感触で分かっているのだ。

「でも、なにもさせないもんね~」

 嬉しそうに抱きしめる力をこめてくる。

 乳房に顔を埋めている太一は完全に二の足を踏み、本当に抵抗らしい抵抗ができない。

 状況を打破するには拘束を力の限り振り払い、女体に本性を曝け出すだけでいい。

 そうすればこの状況は逆転され、太一は一皮むけるはずだ。

「あ、パンツ脱ぎ損ねたわ」

「脱がなくていい」

 裸ワイシャツならぬ裸パジャマを通り越して全裸で抱きつかれるなど地獄だ。


 太一は叫んだ瞬間に未那の左乳房下にある光を光の速さで忘れていた。

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