第7話 太極のお値段


<レンカ>の扉を抜けた時、太一はほくほくとした笑顔でアンティークを磨く夏杏を目撃した。

「なんです、それ?」

 古めかしい金属板の中央に円が彫り込まれていた。

 その円を囲む別なる円があり、外へと広がるように線が引かれ、区切られた部屋の中には漢字が彫り込まれている。

 ユーラシア大陸方面のアンティークだと直感で気づいた。

「ああ、これかい? 知り合いからいい品があるって聞いてね、即金で買ったのよ。うふふ、いい買い物したわ~♪」

 買い物云々はいいので、アンティーク名と使用用途を教えて欲しかった。

「これはね、羅盤と呼ぶ、昔~一四〇〇年以上に製造された一品さ~」

「羅盤? 羅針盤の親戚ですか?」

「あれはコンパスだ。まあ方向を導く点では同じだろうけど羅盤は今で言う占いの道。ほれ、聞いたことないか? 星の流れや方角で物事の善し悪しや未来を占う陰陽道っての」

「あ~風水とかのあれですか?」

 方角には良い方角と悪い方角がある。

 良い方角に相性の良い物をおいて運気を高め、災いから身を守る。

 それが風水のはずだ。

「その通り。昔の人間はこれを使って吉兆を占っていたんだよ。そしてその思想の根幹としているのが太極だ」

「タイキョク? 公園とかでやってる? 呼吸とかに合わせて動く拳法のことですか?」

「まあ普通は誰であろうと太極拳を浮かべるだろうね。よし、アルバイトであろうとこの店員である少年には太極について学んでもらおうか」

 やぶ蛇だと気づこうと、意気揚々な店主を止める手など太一にはない。

 もし断ればストレスがたまり、問答無用で竹刀を握らされるはずだ。

「この宇宙は混沌より二つに別れた陰と陽、二つの属性によって成り立っているとされている。これが陰陽思想であり、陰陽が結合した宇宙の根元を太極と呼ぶ」

 羅盤の中央を見れば円紋に似た図が彫り込まれている。

 円紋とは円形の中に波のような線を引いて半分に分けた図のことだと店主は補足した。

「白と黒。半々でありながらその白の中に魚の目のような黒が、黒の中に同じような目が白であるのがわかるね? あと互いに噛み合うように描かれているのも。これは相克の意味を持つんだ。陰が高まれば陽となり陽が高まれば陰となるという具合にね。ぐるぐる螺旋みたいに永遠に繰り返しているのさ」

 陰と陽。

 太一が真っ先に抱いたイメージは、暗い、明るいであった。

 連想されるのは一つ。

 日の出と日の入りである。

 明るくなれば暗くなり、暗くなれば明るくなる。

 なるほど、確かにぐるぐると日は繰り返している。

「勘違いされやすいが陰が悪で陽が正義じゃない。ましてや上下関係すらもない。陰は陽がなければ陽とならず、陽は陰がなければ陽とならない。善悪に区切る解釈は人間が生んだもので陰陽は自然を二分したことで生まれた思想だ。ここ、間違えないように」

 ここ、テストに出ます、と教壇に立つ教師のように店主は太一に注意を促した。

「つまりは、受動と能動ですか?」

「そう、責めと受けみたいに隣り合う関係だ」

 あまりにもわかりやすい例えに太一は渋面を作る。

「あ、SとMのほうが良かった?」

太陽SunMoonですね。分かりましたから続けてください」

「少しは顔を赤らめて困惑してくれ。年並の羞恥心がないのはウルトラ悲しいぞ、少年~」

 演技ぶった顔で肩をすくめられたのも束の間、店主は話を戻す。

「昔の人は天災が発生するのは自然界の陰陽のバランスが崩れているからと考えていた。だからこそ偏った属性を整えることで鎮めようとしていたんだ。その代表格が自然に対する供物――つまりは生け贄だな」

 店主はいくつかの例えを出した。

 その地に流行病が起こり、男性ばかり倒れれば女性を捧げ、女性ならば男性を捧げる。

 水源が日照りにより枯渇したならば呼び水となるもの、例えば水に住まう生物を捧げる。

 寒波にて雪に閉ざされたのならば火を焚くことでその地に熱を与える。

 歴史を調べればわかることだと補足する。

「魔女じゃなくて?」

 意外な事実に太一は自分の顔を呆けさせた。

 その表情が商品である鏡に映ったことですぐさま表情を引き締める。

「そう、驚くことに魔女じゃない。少し脱線するが魔女が災害起こすと認識され出したのはおおよそ三〇〇年ぐらい前からだぞ。興味があるならその時代とそれより前の時代の歴史を調べて見ろ。そうだな……主にヨーロッパがいい。面白いぐらいに違いがわかるから」

「……同級生が魔女についての本を持っているので今度聞いてみます」

「是非そうしろ。なんであろうと知識の吸収に善悪はない。興味があるうちに学べば吸収率は高いぞ。よし、話を戻すが根幹は一つの混沌、その二つに別れたのが陰と陽の太極なのは説明したな少年? この羅盤を見てくれ、中央は二つに別れているのに、外へと広がるにつれて種類が四つ、そして八つと二進法で増えているのがわかるだろう。これはその陰陽をさらに四つに分けた四象、その四つが八つに分かたれた八卦となる。これらは細分化された事物事象を現している。当時の人々はこの羅盤を元に荒ぶる自然を鎮め、逆に穏やか過ぎる自然を活性化させたとされている。今と違って電気もなければインターネットもなく、医療技術ですら未発達だった。自然と隣り合う生活が必然であった以上、この羅盤は自然に敬意と畏怖を抱いていた証明なのさ」

 店主は話終えたことの証明として再び羅盤を嬉しそうに磨きだした。

「随分と詳しかったですけど、それもアンティークで学んだことですか?」

 普通に暮らしていれば決して知るはずのない知識である。

 アンティークは歴史を積み重ねた品々であるため、取り扱うならばその歴史を知ることが価値を知る早道となる。

 仮にも店主はアンティークを扱う者だからこそ、当然の知識なのだろう。

「いんや大学で学んだことだよ。あそこは資料も研究施設も揃うところは揃っているからね。まじめに勉強すればそれ相応の知識も得られるし論文のできがよければ博士号だってとれる。少年、将来何になりたいか、悩んでいるのが顔に出ているようだから言っておく」

 社会人としてのアドバイスに太一は顔を引き締める。

「人生は流れて通過するもんだからなるようにしかならんよ~」

 期待するだけ無駄だった。

 いや、この店主だからこそ、まともなことを期待するだけ無駄なのを失念していた。

「ぜんぜん、アドバイスにすらならない……」

 脱力で腰砕けになりかける太一だがどうにか踏みとどまる。

「当たり前だろう。他人にあれこれ求めてばかりだと将来は他人の言葉に振り回されるぞ。自分を信じな。あとは万事どうにかなる」

 ただし、と店主は付け加えた。

「自分を信じろというが、この世に自分ほど信じられないものはないんだよな~」

 台無しである。

 蛇足である。

 大人なのに大人ではない。

 太一は言葉に振り回されるの意味、今味わった実体験により理解した。

「……それで夏杏さんは大学で何を専攻していたのですか?」

「ん~主に魔女史学だが、それがどうした? ついでに博士号もしっかりとっているぞ~」

 以外だった。

 歴史ならば文学部系列かと思えば、女には異端とされている魔女史学に驚きを隠せない。

 加えて博士号持ちときた。

「その話をすると誰だって少年みたいな困惑と驚きが混じった顔をされるんだよ。どいつもこいつもアホなジンクスに振り回されすぎだぞ」

 過去に似たような事例があるのか、店主は呆れ顔だ。

「そもそも魔女史学は魔女の歴史ついて調べる学問だ。簡潔にいうが、その背景には当時、どのような災害、疫病があり、どのような思想、宗教、学問があったか、学術的見地で紐解くものだ。別段、他の歴史と大差はない。あるのは魔女が災いをもたらす点ということだが、それなら火山や地震の研究とこれまた大差がない。学ぶ行為に善悪はないと言っただろう」

 この質問を太一の口から出すのは必然の流れであった。

「なら、女が魔女の研究をすれば魔女になるってのは?」

「ろくでもない噂に決まっているだろう。第一調べればわかるだろうが、女だけが魔女扱いされたわけではないぞ。年端もいかぬ子供や男さえ時には魔女扱いされた歴史もある」

 興味という熱があるうちに調べろと店主の目が強く語る。

「少年、魔女のせいにした死刑逃れの殺人犯は覚えているな? それと同じだよ。職場だろうと研究室だろうとそこに人が集まれば好き嫌いの差が必ず生まれる。その差のせいで人は集う一方で離れてもいく。代表的なのが性別による差別。もうこれだけいえばわかるな?」

「ええ、つまりパワハラセクハラを魔女のせいにしてきた結果、女が魔女の研究をすれば魔女となるジンクスの誕生ですね」

「その通り。魔女とは忌むべき存在でもあるが同時に便利な逃げ道でもある。誰でも彼でも魔女のせいにすれば、あっさり許されるからね」

 罪の意識すら持とうとしない自堕落さの現れだと、店主はゴミ箱に吐き捨てる。

 実際、吐き捨てたのはいつの間にか噛んでいたガムであるが太一は見なかったことにした。

「もし同級生の女の子に会う機会があれば伝えておきな、その進路に進むなら鋼鉄のような意志がないとやっていけないってね」

 太一は思わず目を見開く。

 店主とはかれこれ一年のつきあいであるが、隣に住まう同級生が女であるのを一言も伝えたことがなければ、顔もあわせたことすらないはずだ。

「なに鳩がマグナム弾を白刃取りしたみたいな顔してんだい? その同級生ってのは松葉杖ついてるかわいい子だろう? 黒縁眼鏡の三つ編みの子か、クール面した子かの三択だったけど、松葉杖の子と仲良く並んで歩いているのを何度か目撃したからね。カマかけてみたが当たりだったか」

「人が悪い」

「そういうな、女の子と並んで歩くのなんて青春だろうよ。かっかっか」

 声は笑っていようと乾き、目は笑っておらず色がない。

 これ以上踏み込むのは危険だと太一の本能が告げる。

 よって話題を変えることにした。

「そ、それで夏杏さん、ちなみにその羅盤、いくらしたんですか?」

 最初に目撃した時に聞いておくのを失念していた。

 資金の残高を早急に確認せねば最悪の場合、資金繰りの悪化を招く。

 悪化一歩手前に陥ったのはこの一年、一度や二度ではないからだ。

 一方でその翌日、回復するだけの利益を店主自ら得ているのだから心臓に悪い。

「ん? 何ってお値段たったの五〇〇〇万~」

 刹那、太一の思考は空白に蝕まれるも気合で回復させては問いつめた。

「ちょ、ちょっと待ってください。確か、この前の売り上げが四〇〇〇万ジャストだったはずですよ。それで税金とか店の維持費に回すとか言ってませんでした?」

「ああ、言ってたぞ。だがどうしても羅盤だけは手に入れたかったんだよ。まあ結果として赤字だが、バイトのきみが気にすることじゃない」

 店主は如何なる経営状態であろうと苦悩する顔を一切見せることはない。

 訪れる客に辛気臭い顔を見せない――は建前で、むしろ不可逆な状態を楽しむギャンブラーの一面があった。

「しっか~しの、かかし! 今、私はど~しても避けられない問題を抱えてもいる!」

「まさか、バイト料未払い!」

「安心しろ。少年のバイト代ぐらい月末になればちゃんと出せる」

 太一は即金ではないことに先の不安を感じ取る。

「今日の夕方から近所の店の奴らと会合なんだよ」

 淡々と語る店主に太一は平常心を保とうと試みる。

 会合というのは名目であり実質、近隣の店同士が集まって酒を飲むただの飲み会なのは承知の上だ。

「明日の取引で支出分の金は入るが今日の金がない。というわけで少年、五〇〇〇でいいから貸してくんない? それさえあればビールが時間無制限の飲み放題なんだよ」

 飲み会に使用するお金がないと、この店主はアルバイトに金銭を要求してきた。

「困ったことにあの店の親父は頑固一徹でツケは通用しないんだ。ほら五〇〇〇でいいから店主のビールのために出せ。ちょっとジャンプするだけでいいからさ~」

「今日は店の外の掃除をしてきます!」

 太一は断るなり掃除道具を手に外へと飛び出していた。


「やれやれ、ちぃといじりすぎたかね~?」

 羅盤を箱に戻しながら夏杏は苦笑する。

 次からはほんの少し手心を加えようと決めるのであった。

「はてさて、これからどうするかな~」

 客足は鈍くとも売り上げはやや上向き。

 経営は問題ない。

 問題を強いてあげるなら雇ったアルバイトに融通が利かない点だ。

「……其れは深き天の底、其れは高き地の頂点、万物の元始にて相克する螺旋――すなわち其れ太極と呼ぶ」

 今はこれが限界である。

 いや、別の意味でも限界であった。

「しゃ~ない。ビール資金を使うか」

 マホガニーの机の引き出しを丸ごと引き抜けば裏にテープで貼り付けた封筒を剥がしとる。

 封を切れば中より五〇〇〇札が一枚入っていた。

 これぞビール資金。

 ビールが呑めぬ状況に陥らぬよう確保しておいた保険である。

「よっしゃラッキー~これなら行ける~♪」

 ビールは夏杏にとってガソリンであり生命を繋ぐ原動力だ。

 ビールのない世界など想像できはしない。

 もし禁酒法がこの国で制定されるならばイの一番にクーデターを起こすつもりだ。

「これなら……――あっ!」

 お札に目元をにやつかせる店主は窓拭きをする少年と目があった。

「あ、あはははっ、お昼、奮発して特上天丼でいいか?」

 当然のこと、恨み節のこもった目を向けられる。

 天丼、七八〇円(税込み)。特上天丼、二五〇〇円(税込み)。

 共に味噌汁とおしんこ付き。ご飯大盛無料。

 ビールがなお飲めると期待した希望はアルバイトの目撃にて飲めぬ絶望へと滑落した。

「あ~あ~絶望と歓喜は陰陽の紙一重だと言うが本当だね~」

 逃した魚はでかかったと人は言う。

 だから店主にとって逃したビールは樽であった。

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