冬訪い

 タン、タン

 控えめに叩かれた戸の音に気付き、私は書物から意識を引き剥がし、玄関に向かった。

 「ソウ、今良いか」

 開けた先には、冬が深まり今日などは雪が舞っているというのに、真夏の日に着るような薄手の着物姿の友人が佇んでいた。

 友人の名前を水城清みずしろきよしという。私には「きよし」という響きが、例えば、烏の翼のような艶やかな髪や、険すら感じる無表情だが冬の清澄さを思わせる瞳や、すっきりと竹のように真っ直ぐに立つ姿などといった彼のあり方に対して酷く野暮ったいものに思えて仕方がないので、「セイ」と呼んでいる。それを受けてか、彼も私、樋口聡一ひぐちそういちの事を「ソウ」と呼んでいる。「セイ」と「ソウ」は私たちの間だけで交わされる呼び名だ。

 「セイ、取り敢えず入れ」

 セイの非常識が過ぎる格好に驚き、思わず彼の手を掴んで家に引っ張り入れる。骨ばった細い手首が石のように感じられた。

 「冷えきってるじゃないか。すぐに火鉢に当たれ。ほら」

 されるがままのセイを火鉢の前に座らせて、後で食おうと作っていた汁粉を椀に注ぎ差し出す。セイは汁粉を一口啜り「ほう」と息をつくと、火鉢に手をかざした。

 「冬は空気が澄んでいる。あの斬るような冷たさなんて清浄そのものだとは思わないか」

 「それが今日の奇行の答えかい」

 セイは私に答えずに続ける。

 「雪山というのに俺は行ったことがある。静かで雪と僅かしかない植物だけの空間は素晴らしい。そこで一人佇み、静寂の中に身を置くと段々自分が溶けていくような心地がするんだ。そんな気が味わえないかと思ってみたが矢張り駄目だ。寒さに凍えてしまう。俺はどうしようもなく俗だ」

 「それは生き物として当然のことだと思うが」

 「お前の汁粉は変わらず美味いな」

 寒さで真っ白になっていた肌には赤みが差してきて、ようやくセイが温まってきたことが窺える。

 「俺は水が好きだ。特に透き通った湖など見るとどうにも堪らなくなる。湖を訪れるたびに俺はいつも想像する。あの透き通った水の中にそっと身を浸し、ゆっくりと息を吐いて肺を満たす空気を残らず水と交換するんだ。体の隅々に水を満たして限りなく湖と同化する」

 そこまで一息に話しきると不意に瞳を陰らせた。

 「ソウ、こんなことを言うと、お前は俺を軽蔑するだろう。俺自身もこんな自分が汚いものに思えて仕方がない。俺はそんなふうに湖との、水との同化について考えると昂ってしまって仕方がない」

 私は黙っていつの間にやら空になっていた椀へ汁粉を注ぐ。

 「清、君それは恋なのではないか」

 「ソウ、お前の口からは清と呼んで欲しくはない。お前の紡ぐセイという響きが俺は好きなのだ」

 「ではセイ、君それは恋ではないか」

 セイは力なく首を振った。

 「こんな汚らわしい思いが恋なものか」

 「セイ、君は美しいね。君の悩みはね、我々が動物としての人間に生まれてしまったからには必然的に付いて回るものだよ。そもそも、動物の発情を認めたくなくて人間用に置き換えたものが恋という言葉だ。けれども君はそんな言葉にあって当然の欲望を許せない。今に限った事ではなくて、君は清澄な感情以外を抱くことを自身に許していない。美しいあり方だよ」

 「ソウ、お前はそんな風に俺を慰めるが、俺の汚らわしさは俺自身がよく知っている。俺は雪の山や冷たい水に限りなく同化して溶けてしまいたいのに、たかだか今日のような日に薄着で歩いただけで冷え切り暖を求めずにはいられない。どこまでも俗な癖に一丁前に清廉であることを求める俺のあり方が美しいなどと、どうして言える」

 セイは人間としては生きられないだろう

すっかり冷めてしまった汁粉の鍋を眺めて私は思う。人間はセイの様に美しくはあれない。それだから彼はセイなのだ。きっとセイは生まれてくる場所を間違えた。

私はセイの隣に移り肩に触れた。弱弱しい印象とは真逆のしっかりとした肩だった。

「君が結果として命を絶つことになっても私は構わない。けれどもセイ、お願いだ。死を望んで命を絶つ事だけはしないでくれ」

 セイの身体はすっかり体温が戻って温かかった。

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弔問 爽月柳史 @ryu_shi_so

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