第29話-兄弟

 朝、雅は物音がするので起床した。彼の他に起きていたのは志郎だけだった。


「おはよう」


 雅が挨拶すると、志郎が遠慮しがちに返した。

 香歩に対してもそうだが、志郎は常にどこか距離を置いた話し方をする。それを不満にも思わないし、何故か知ろうともしないのが雅だった。

 が、時には気まぐれというものがある。志郎が肉親を手にかけたばかりということもあっただろう。香歩を除いて、このゲームで雅が心配している相手であった。

 雅から志郎に質問した。


「その、どうだ。調子は?」


 クスクスと志郎は上品に笑った。粗暴な和人の息子とは思えぬ所作である。

 雅はそのことにも驚いたが、志郎が笑ったこと自体に驚いた。はにかむことはあっても、楽しそうに笑っている所を見たことがなかったからだ。


「何でもできると思ってたけど、案外口下手なんだね」

「まあな」


 雅も思わず笑う。自分が口下手だ、と思うことすらなかった。


「心配してくれてありがとう。やっぱり、埋めるまでは落ち着かなかったけど、埋めてからはそうでもないよ。もう、終わったことだから」


 志郎はまた笑った。その顔は今までも何度も見てきた。人を落ち着けさせるための笑みだ。 


「実はね。香歩ちゃんは母さんに似てたんだ」

「どんなところだ?」

「雰囲気。同じ学校だったのも関係あるのかな、柔らかくて、強い所。方向は違ったけどね、芯が似ているってやつかな」

「つまり、頑固なのか」


 志郎は楽しそうに笑い声を上げた。雅もそうだろ、と笑う。

 二人はしばらく、笑い転げた。


「今思えば、僕は父さんからもっと早く逃げるべきだった。母さんの価値があの男に尽くすだけだと肯定しちゃいけなかった。母さんの役割を引き継いだと自己満足に浸ってたんだ。死を悔やんだつもりで、引きこもっていた。痛みを受け容れる方が、抗うより楽だったから。母さんが守ってくれたものを浪費していただけだった。母さんは僕を守るために耐えていたんだ。僕より立派なんだ」


 そう前置きし、志郎は昔話を始めた。


「僕には兄弟もいなければ、友達もいなかった。でも、母さんがいたからどうでもよかった。長くは続かなかったんだけどね。母さんは僕を庇って父さんの暴力を受け続け、衰弱して死んじゃった。それからは僕がひたすら殴られる毎日だった。それが自分の義務だと思ってた。だって、それは仕方ない事だから耐えられた。僕のせいで母さんが死んだんだから」


 その声に感情はこもっていなかった。志郎にとって恨むべきは父でなく、自分であった。故に彼は罰せられる存在なのだと自分を決めつけ、心を押し殺し、希望もなく生きてきた。自分は穢れていると、不相応なものを持たないことが贖罪なのだと考えていた。

 どうしてその思考に至ったかなど推測するまでもない。日常的な暴虐に意思をも歪められたのだ。

 雅はそのことを指摘できなかった。田原志郎の人生をかけて悩んだ命題を得意げに間違っているなど言えなかった。


「だけど、本当は死にたくなかった。自由になりたかった。お腹が膨れるくらいご飯を食べて、遊んで、くだらないことで喧嘩したかった。その夢を兄さんと姉さんが思いださせてくれた。ようやく父さんの元から逃げることが出来たんだ。だから、閉じこもらず自分のこと以外も、見れるようになりたいんだ。今度は僕が恩を返すよ。兄さんは僕より強いだろうけど」

「当たり前だ。けど、勘違いするな。お前は自分で立ちあがったんだ。最初に父親の元から逃げ出したからこの結果を掴んだんだ」


 志郎は目を丸くして、雅をじっと見つめた。自分が何かした、と微塵も考えていないらしい。

 雅が指摘できるのはそれだけだ。志郎の出した答えを否定できずとも、彼の力を認めることだけはできる。


「何を驚いてる。それにご飯を食って、遊んで、くだらないことで喧嘩するなんて簡単だ。ここを出たら兄弟喧嘩しようぜ、弟」


 雅は志郎の額を小突いた。記憶が欠損した彼の兄弟像というのはそういうものだった。

 しかし、それは偶然にも小さく閉じた部屋の扉をノックした。


「そうだね。香歩ちゃんを賭けて」


 今度は志郎の言葉に雅が目を丸くする番だった。


「負けないからね」


 またもや志郎の笑みを雅は目撃した。


 その後、寝ていた三人を起こし、今後の方針について話した。といっても、最終エリアをこのメンバーで進むという部分の確認だけだ。

 コンクリート壁のフィールドの名前がバラバラだったので、雅たちは最終エリアと名付けた。

 最終エリアは各階、迷路のように細い通路が入り組んでいて、様々な部屋がある。

 どこから襲われるかわからないし、殺人も多発しているので、緊張の度合いはゲームが始まって一番高い。

 しかし、それは冷静でいられればの話だ。

 雅たちがセーフティーゾーンを出ると近藤の後ろ姿を発見した。

 梨子が飛び出すと思っていた雅は彼女の肩を抑えていたが、その予想は間違っていた。真っ先に飛び出したのは春人だった。彼を止めようとすると梨子も走る。

 二人を止めようと、雅が走りだそうとしたその瞬間銃声が響く。

 突如、後ろから雅の太ももを誰かが発砲したのだった。

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