第8話-throb
「香歩さん。……香歩さん!」
花鈴が後ろから香歩のことを呼んでいた。逃げることに必死になって距離ができていたらしい。
もうあの男はからは逃げ切ったと考えていいだろう。
香歩は走るのを止め木にもたれかかり、荒い呼吸を整える。軽い麻痺が解け、身体は酸素を取り込もうと躍起となっていた。元来、彼女は強くない。弱い人間である。それは精神的にも、肉体的にも、だ。
生まれた時から不治の病と同居し、病院のベットが家、お友達は検査器具、虐めっ子はお医者さん。人格の形成をそんな所でしたものだから香歩は自分が相当歪んでいると思い込んでいた。
「あ、ありがとう」
花鈴は既に息を整えており、香歩に感謝の念を示した。言葉で、身体で伝えようとしている。誰がどう見ても感謝しているのはわかったし、そこに打算など感じさせない美しさがあった。
しかし、香歩はそれを素直に受け取れなかった。
彼女はまず、何事にもプラスとマイナスを定める。マイナスは大の嫌いで、近づきたくもない。臭いものには蓋をする的な。これは生存本能として、仕方のないことだ。まあ理解できるし、納得もしている。
だがしかし、人間という奴は弱点を武器にしてくるわけだ。効果的に、時には一撃必殺なんてものも飛び出す。それを知っているからこそ、自分がそうすることで人を不幸にさせたからこそ、感謝の言葉でさえ打算的に見えてしまう。
美しいと思うのだけれど、それが嘘ではないかと疑ってしまう卑しさがあった。
今、花鈴が流している涙は心から出ているのだろうか、などと考える自分が何よりも醜い。
とにかく、香歩は感謝の言葉を簡単に言う人は嫌いなのだ。まるで昔の自分を見ているようで。
思考が脱線し落ち込む前に頭の中でグルグル回っている自分理論を胸の中で述べ、クールダウンする。
難しく考える必要はない。花鈴は単純に助けられたから感謝した。そうだ、そうに決まってる。
「ど、どういたしまして。っと呂律が」
まだ急に身体を動かしたツケが残っているらしく、舌どころか体も上手いこと動かない。香歩はそのままへたり込んでしまう。そのままゴロンと寝ころび軽く一眠り、といきたいところだがまだ死にたくはないのでピシャリと顔を叩き、睡魔を払った。
いつも陽気にポジティブに。できる。先生との約束を胸の中で繰り返し刻み付け、立ち上がる。少しふらっとしたが、立ち上がることができた。
「合流しましょう。そうすれば数の差で」
「はい、もうひとふんばり」
花鈴は小さくガッツポーズを取った。
目標が明確でない行動はすぐに挫折してしまう。もういっか、これで充分、結構走ったな、という具合にツラツラと言い訳が出てくる。軽い自己暗示だ。今もそのような状況だった。
かれこれ十数分は少なく見積もっても走って、歩いているだろう。
何度も風が木々を揺らし、香歩たちを驚かせる。何度も木の影が人に見える。何度も、もうすぐだ、と声がする。それは甘美な誘惑だった。大丈夫だから、立ち止まれ、立ち止まれ、といってるようにも聞こえる。
要は気持ちの問題だった。上を向いて進むか、下を向いて進むか、その違いだった。
だが、人はいつまでも前を向いてはいられない。香歩はそう考えていた。
彼女の予想は的中したようで、花鈴が足を止める。
「がんばりましょうよ、あと、少しですから」
もはや歩いている状態なのに、ひどい息切れだった。細々と言葉を切ってしか話せない。香歩自身、体力の消耗が酷かった。
「いえ、もう行ってください。香歩さんだけ、行ってください!」
裏返った声で、悲痛な叫び。花鈴は精神的にもう限界のようだ。無理もない。緊張し、安堵し、絶望し、その繰り返しだ。擦れていく精神と共に肉体までやられていく。でも、先生は、それすらも癒せた。立たせた。走らせてくれた。なら、香歩は諦めるわけにはいかない。
「ほら、もう少しですって。あと少し、少し歩けば沙世ちゃんが待ってますよ」
沙世というワードにぴくりと香歩の言葉に反応を示したものの、花鈴を奮起させるには至らない。まだ、届いていない。諦めた人間を再起させるのは難しい。
先ほど六発ほど銃声が響いたせいもあるだろう。あの男かはわからないが、好戦的なプレイヤーが近くにいるかもしれない、というのが不安を倍加させていた。
「穂谷さん、がんばりましょう」
返事はない。
「せめてみんなと合流してから座りましょうよ」
まだ。
「穂谷さん」
まだだ。香歩は折れてしまいそうな自分をそうやって鼓舞する。
「穂谷さん!」
諦めちゃ、私が諦めちゃいけない、と香歩は根気よく呼び続ける。
「穂谷さん!!」
「もう、ほっといてください!! 無理なんです!!」
香歩の知っている先生は、それでも諦めない。放っておいてください、逃げてください、楽に殺してください、と言われても叫ばれても懇願されても受け入れるわけにはいかない。彼がそうだったように。
自分は真似るだけだ。走れないなら支え、歩けないなら抱え、生きる意思がなくなったら、先生はどうした?
「できます、できますよ。まだ、歩けます。だから――」
花鈴はまた、無理、と言おうとする。
だが、そうはさせない。
言葉が現実になってしまうその前に、香歩は言葉を挟みかき消す。
「まだ、走れます」
一歩。
「まだ、笑えます」
もう一歩。
「まだ、大丈夫です」
最後の一歩。本当に死にたいと思っていないのだったら。
「生きれば、何だって不可能じゃないんです。よっ」
花鈴の隣に立った香歩は、彼女を抱きかかえた。
花鈴の顔が驚きの表情に変わる。どこにそんな力が残っているのか、というような疑問に満ちた顔をしている。
恐らく、いや間違いなく、自分もあの時そんな顔をしていたのだろう、と香歩はほくそ笑んだ。
先生は行動で示した。生きているのは楽しいことだと、全身全霊で教えてくれた。本当にできなくなった時は、救ってくれた。
同じようなことはできない。多分、それは先生にしかできなかったのだろうけど、今みたいに挫折した人間を抱えてやることぐらいは気合でいける。
意識すると香歩の身体から悲鳴が聞こえる。だから、無視をする。全てを前に、ポジティブに一歩一歩確実に重く踏みしめる。スカート履いてるのに、大股だって構わない。彼女は弱音も吐かず、勇ましく進んでいく。
「もう、大丈夫です」
花鈴が降り、一気に香歩の身体が軽くなる。
香歩はそろそろ限界だった。彼女は花鈴の体力はまだあって、絶望から死を安易に見てしまっていると考えていた。だからこその行動だった。
人が本当に絶望した時という状態は隙間がない。
光が差し込む隙間も、人が隣に座る世界も、ない。受け容れることのできないものは、不浄な、汚らしい害虫にしか見えない。どんな声で鳴こうが、それがどんな風に聞こえようが所詮、虫でしかないのだ。
だから、隙間がない世界をどうするか。それは状況だったり、言葉だったり、人の好みの問題もあるが、壊すしかない、と香歩は経験から考えていた。
自分が見て、聞いて、勝手に解決できる人もいるが、それは強い人間だったか、まだ隙間があったかのどちらかだろう。
間違っていると、まだあきらめる必要がないのだと嘘でもいい、本当ならもっといいけどちょっとした穴を開けるだけでいい。その穴からは活力が湧き上がるように、漲ってくるはずだ。そうでなくても、閉じた場所から出ようと思える。そうすれば、きっとまだ歩けるはずだ。
香歩の自分がそうだったから、という実体験が主だった。無論、全員がそうだと己惚れるつもりはなかった。まだ大丈夫だという嘘を刷り込ませるのは最後の賭けであった。
「じゃあ、いきましょう」
香歩の言葉に花鈴は頷き、歩いて行った。
香歩も置いて行かれないよう、気合を入れ歩き出す。一歩が重たくなったが、気持ちは晴れやかだ。
彼女はもう少しだなんて無責任なことを強調したが、それは香歩自身の願望に近い。みんなが待っているなら、距離的にもう会えていてもおかしくないのだがまだだ。
もしかして、と雑念が沸く。それを振り払うようにして、他のことを考える。関心をそらすふりをする。みんなはいる。待っていてくれる。
そう考えているはずなのに、香歩の脳裏には雅の姿があった。
「樋口さん」
どれだけ歩いたかわからないが、いつの間にか目的地だったらしい。香歩たちの方に皐月が駆けてきた。もういっか、という安堵が追い打ちをかけ、香歩は意識を手放した。
懐かしい夢を見た、気がする。香歩は暑さによる不快で目を覚ました。何故か彼女は近藤の背中に背負われていた。
そこらじゅうが痛い。特に膝。救出の際、どじってぶつけたものだった。
香歩が逃げ切れたのは端末のアプリのおかげだ。端末をつけている相手に幻覚作用を見せることができる、らしい。
実は、香歩はアプリを二つ持っていた。
最初、起きた場所にインストールパッチが置いてあり、寝ぼけてインストールしていたのだ。
それがこの「illusion」と銘打ったアプリだった。詳しい効果は端末が体に触れている対象にのみ幻覚作用を発生させることが可能、と書いてあった。
雅に試しで使ってみたのだが効果が薄かったので、そこまで信用していなかったのだ。
彼には、沙世の存在を消す、という風に使ったのだが雅は沙世が見えていたし、声も聞こえていたようだが、気にしないようにはなったようだ。
幻覚の内容は文字で打ち込むことができ、その文字通りに再現してくれる。ただ幻影のようなもので、物質はない。
そして、今回は香歩の幻覚が、端末を落し、木々がない方へ走っていく、というように設定した。
物質ではないので、幻影を見せる対象を自分と相手に設定し、まず幻影と全く同じように動いて最初は木々の間を走り、茂みに端末ぐらいの大きさの金属片を投げ捨てた。そこからは幻影と反対方向に音を当てないよう抜け、相手が金属片を拾おうと茂みに近づいたところで花鈴と一緒に逃げたのだ。
便利な機能だが、使用制限がある。一度対象に選択した相手には使えず、使用回数は三回。雅、あの男と香歩自身に使ったのでもう使えない。
「あ、樋口さん大丈夫ですか?」
香歩が起きたことに気付いた皐月が声をかけた。
香歩は自分が背負われている状況を思い出し、小声で「ありがとうございます、降してください」と恥ずかしさから早口で言ったのだが、近藤は聞き取ってくれて、しゃがみこんで手を離した。
「はい、なんとか」
着地したあと香歩は返事をした。端末で時刻を確認すると二時四分となっていた。おそらく三十分ぐらい寝ていたのだろう。
「すいません。なんだか」
「いいえ、私が悪いんです」
花鈴が強い口調で断言した。その様子を沙世はどんよりとした顔で見つめている。疲れたという顔だった。
「現在、ショッピングセンターまであと百メートルというところです。初日ですし寝床の確保ということで戻ってるんです」
香歩の事を気遣ってか、皐月が状況を説明してくれた。
「にしても、びっくりしたぜ。そんなおっそろしい奴がいるだなんて、香歩ちゃん大丈夫?」
形式上ってものかもしれないが、一応福田が心配してくれたので香歩は微笑みを返す。
「もう大丈夫」
「そっかー、そうそうこれからは夜までにショッピングセンターで寝床を決めてー、そのあと少し探索、んで、えーっと」
「樋口を含めての話し合い。ルールを二つ手に入れたから、な」
近藤が、福田の説明に付け加えるようにして言った。
「そうだった。そうだった」
「道中僕が見つけたアプリなんですけど、付属していたセンサーが七つあって、それらに反応があったら端末に通知が来るというものでした。ショッピングセンターの二階なら階段を登らないといけないので、そこにセンサーを設置すれば、安全は一先ず確保されると思います。だから、進行が限られるショッピングセンターを目指しているんです」
皐月の言葉に納得した香歩は、元気ですよというアピールのため足を進めた。
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