第8話 大切
「おはなし、終わった?」
獅凰が開け放った扉の向こうから、ひょっこりと顔だけを覗かせて飛鳥は言った。『彼と大事な話をするから』と少しだけ席を外してもらって、随分と時間が経っていたようだ。
「うん、終わったよ。待たせてごめんね」
「ううん。…あの人、おこってた」
「…そう、だね」
飛鳥には秘密の、“大事な話”。その内容は彼の癇に触れるには十分だったらしい。
声を荒げる事はしなかったものの、不機嫌さがありありと表情に出ていた。
だがそれは想定内のこと。さして問題はない。
気になるのは、そわそわと此方を伺う飛鳥の様子。
悠吏は飛鳥に“怒り”と言った感情を表したことはない…だからなのだろう、他人の怒る様を見て、戸惑っているようだった。
「おいで、飛鳥」
未だに扉の近くから動かない飛鳥に苦笑しつつ呼べば、一瞬動きを止め、すぐさま駆け寄ってきた。
ぽすん、と柔らかい衝撃。
「大丈夫?」
「…うん。ぎゅってしてくれたら、平気」
「…ふふ、仰せのままに」
腕の中にすっぽりと収まるその小さな身体。甘えるように顔を寄せる、可愛い妹。頭をゆっくり撫でると気持ちよさそうに目を細める姿はまるで子猫のようでもあった。
——嗚呼、愛しい。
「僕の大切な飛鳥を怖がらせるなんて、…今度会ったら怒らないとね」
「…?悠吏もおこるの?」
「もちろん。君の為なら」
「それじゃあ、誰かが悠吏をこわがらせたら、わたしもおこる、ね?」
「え…?」
「悠吏も、わたしの『大切』だから、わたしもおこるの」
まるで当然の事のように言い切った飛鳥に、胸の奥がじん、とするのが分かった。真っ直ぐと、こちらを見つめる無垢な瞳。
大切な大切な片割れで、愛しい妹——…彼女にとっての自分は、同じように、『大切』であってくれるというのか。
「—…ありがとう」
僅かに震えた声は、彼女に聴こえただろうか。
***
数刻前の悠吏の呼び出しに応じ、出掛けた主の普段稀にない早さの帰還に、黝薙は僅かに瞠目した。いつものごとく、そのまま雲隠れでもするだろうと踏んでいたのだが。それはもう、珍しく、不機嫌さを醸し出しながらの帰還だ。
普段彼は怒ることが少ない。文句を言いつつも大抵は笑って流すことの方が多いだろう。側近の自分ですら、本気の怒りを数える程度しか見たことがないくらいだ。
そんな彼の様子に、小言ばかり言う上の連中ですら萎縮していたのには、思わず笑いが漏れそうになってしまった。
「お帰りなさいませ、主。お早いご帰還で」
「…ああ」
「何かあったようですが…、お静まり下さい。女中が震えていましたよ」
「……、…はぁあ……悪い」
「いえ」
罰が悪そうに頭をかいた獅凰は懐から煙草を取り出した。咥えた煙草に黝薙が火をつけ、辺りに紫煙が舞う。
幾分か気の治まったらしい獅凰は、それでもなお、不機嫌さを拭いきれないまま。少しだけ、視線を遠くへとやった。
「ちょっとしためんどくせー『約束』引き受けちまっただけだよ」
「そうですか」
「どんな内容かは、聞かねぇのな」
「無駄な事はしない主義ですので」
「…そうだったな…」
聞かずとも、察しがついている。
そして、自分は主が望むなら、ただ従うのみ。
言外にそう含め満面の笑みで答えれば、彼はまた深いため息を吐いて、苦笑した。
「あー!めんどくせぇ!黝薙、酒持って来い酒!酒盛りすんぞ!」
「はいはい、了解です」
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