第2話

 今日は幸見さんが早く帰っていた。幸見さんは仕事で8時くらいに帰ってくるのが常時だが、今日はまだ6時だった。森山さんに言わせると、私が来る前にはもっと遅かったらしい。そんなことをなんだかおかしそうに森山さんは話していた。わかりやすい、とも。

 「菊花さん、今日の献立は何ですか?」

笑われているとはつゆ知らず、その人懐っこい笑みを浮かべながら、幸見さんは話しかけてきた。

「今日はポトフにでもしようかな、と。今日は一段と寒くなりましたから。」

私はこの家に来てからじっとしているのも、申し訳なく、森山さんに教えてもらいながら料理をしている。最初、申し出をしたときは森山さんに「私の仕事を取らないでください。」と半泣きで言われたのだが、今では料理の師匠である。

 私の腕前はというと、普通。家庭料理くらいなら一人でもレシピを見ずに作れる程度だ。

「いいですね。私は好きです。」

「それは良かったです。申し訳ないのですが、今から準備するのでもう少し待っていてください。」

「はい。」

幸見さんは素直にうなずいて、自室へと戻っていった。その様子に、森山さんは微笑んでみていた。私はなんだか極まりが悪くなって、今日あった若い男の話をした。

「今日、病院の外で若い男の人とすれ違ったのだけれど、不思議な気持ちになったんです。なんだか、ひどく懐かしいというか、誰かに似ているというか。あったかい気持ちに。」

「まあ・・・恋?ですか。」

なぜか、森山さんは不安げになる。

「…たぶん違うというか、好きとはちがっていて、もっと根本的な気持ちというか。」

「それは、愛しい?とかでしょうか。」

「そうなんです。愛おしい。何か大切な感じがしたんです。でも、その人自体には見覚えが無くて。」

「まるで、親のようですね。」

そうだ、愛しいわが子を思うような気持ち。私に子どもなんていないのに。子どもがいない?ひどく違和感が起こる。

 森山さんは少し考えたのち、にこりと微笑み、

「旦那様や幸見様にもお伝えしてみましょう。記憶が戻りつつあるのかもしれません。それはいいことですから。」


 ポトフができるころ、幸蔵さんは帰宅した。食事として、幸見さんもそろった食卓で私は二人にもその話をした。二人は何か考えている様子だったけれど、幸蔵さんは一言、

「その男を調べさせよう。」

といった。幸見さんも

「白衣姿なら、多分病院関係者か、学生だね。僕も調べてみる。」

といった。二人の反応に戸惑った私は、

「その人には迷惑をかけないで。」

といった。二人は不思議そうな顔をしていたけれど、うなずいた。なんで、そのようなことを言ったのか私にもわからなかった。


 食後、部屋に戻る際に幸見さんに会った。私の自室は幸蔵さんとは別で、もっと言うと幸蔵さんと幸見さんの部屋のある母屋ではなく、別棟の二階にあった。台所から戻るには二人の自室につながる階段の前を通らなくてはいけない。

 幸見さんに、一言、おやすみと挨拶して帰ろうとした時、幸見さんは私の手首をつかんだ。

「・・・僕も父も、その男に嫉妬している。」

「・・・。」

どういうことか測りかねていると、幸見さんは続けた。

「一緒に住み始めてから、何度も貴女と話しているのに、貴女の心を響かせたのがすれ違っただけの男だったことだから。」

「そんなこと・・・。」

 私が記憶をなくす前、もうすでに幸蔵さんとは暮らす話が付いていたというこら、ひょっとして幸見さんとも何か関係があったのだろうか。人には言えないような・・・関係が。

「さっき、話をしていた貴女はどこか嬉しそうだった。」

「嬉しそう・・・?」

 心を覗かれたのかと思って、ひやりとした。確かにその男には愛おしさを感じたから。

「ごめん、困らせたよね。ただ、父は貴女のことをすごく大切に思っているんだ。もちろん、僕も。・・・それじゃあ、おやすみなさい。」

 私はそれがどういうことか分からないほど、子どもじゃなかった。けれど、簡単に受け流せるほど、大人でもなかった。


幸蔵さんが言うには、竹本菊花という人間は、依然付き合っていた男の借金を背負い、昼間は派遣事務員の仕事、夜はキャバクラで働いており、そこで幸蔵と出会った。最初は、後妻として龍禅寺と結婚することに躊躇はなかったが、龍禅寺に息子がいることが分かると激怒。自殺未遂をしたらしい。

 つまりは、よく言うと色恋に関しては情熱的で、悪く言えば猟奇的だ。なるほど、そんな女性なら幸見さんと何か関係があってもおかしくはない。おかしくはないが、今の私にはその事実?は嫌な感じしかない。記憶を失って、良識が付いたのか竹本菊花。

 もし、幸見さんが以前の竹本菊花を想っていたとしても、私はその気持ちには応えないと強く、なぜか心に刻まれた。



 その日から、二人と話す際にはすこし緊張するようになった。その分、気を紛らわすために、あの男のことも考えた。けれど、自分だけでは何も思い出せなかった。



 「やめて。」その声は獣のような叫び声にかき消され、届かない。縁側から外を眺めていたら、恐ろしい表情をした女がこちらへと近づいてきた。しかし、彼女はどこか誰かに似ている。でも、それは誰だかわからない。なんだか、愛しい誰かだ。

彼女はいつも持っている小ぶりなブランドバックから刃物を取り出した。

「何度も、何度も言っているのに。私の方が愛してる。だから、あなたは邪魔なの。」

私は恐怖で身がすくみ、その場から一歩も動けない。しかし、意外と頭はさえわたっている。まるで分っていたかのように。そして勝手に口が動く。

「あなたはかわいそうな人。身近な宝物を大切にできないのだから。」

女はこちらへ突っ込んでくる。その瞬間はわずかな時なのに、永遠のようにゆっくりに感じる。ズブッという音で私の視界は暗転した。



 菊花ははっと目を覚ました。そこはもう見慣れた、竜禅寺家の自室である。今の夢は生々しかった。まだ、あの刺された時の感覚が残っているような気がする。

 体は冷えているのに、さらさらとした冷汗が止まらない。

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