何度でも、地獄

文字ツヅル

第1話

「もう、これ以上私を生かさないで。」

女はそう叫んで、首をナイフで引き裂いた。びゅっと血が吹いたと思うと、あっという間に血だまりを作っていった。

女は気が付くとベッドの上に寝ていた。天井は真っ白だが、顔をのぞきこむ男の顔が見えた。

「ああ、菊花。気が付いたか。大事ないか。」

その男は五十代ほどだろうか、目元のしわが苦労をのぞかせていた。ほっとしたように、こちらを見ている。

「菊花さん、気が付かれましたか。よかったですね、父さん。」

もう一人、若い男がこちらに顔を向けた。

「菊花さん、わかりますか。ここは東都大学病院ですよ。」

「東都大学病院・・・。あの、分かりません。分からないんです。私は誰ですか。」

二人の男は一瞬固まったような気がした。


 私の名は竹本菊花というのだと、若い男から聞かされた。若い男は、龍禅寺幸見といって私には父親との関係でここにいると簡単に説明した。幸見の父、先ほどひどく私を心配してくれたこの初老の男性が、龍禅寺幸蔵。私に大事な用があるのだという。


 「菊花さん。私の愛人になりなさい。」

記憶もなく、行く当てのない私に手を差し伸べたのはこの幸蔵さんだった。


 龍禅寺邸に私を迎えた幸蔵さんは、私に着物を着て生活するように求めた。幸蔵さんが私に求めたことはただ、それだけであった。

 私は家政婦の森山さんに毎朝手伝ってもらいながら、着物を着た。森山さんは三十代前半で、五年前からこの龍禅寺家で家政婦をしている。

彼女は家政婦としてとても優秀らしく、着物の着方も教えてくれた。教え方がうまいので、回数を重ねるうちに自然と一人で着られるようになっていった。

 着物は、私がこの屋敷に来てから一度も同じものを着たことがない。それほど、大量に着物がこの屋敷にはあった。幸蔵さんの亡くなったという奥様のものだろうか。幸蔵さんの奥さんは幸見さんを産んですぐに亡くなった。産後の肥立ちが良くなかったという。元々、身体の弱い人で手を尽くす間もなくあっという間に亡くなってしまった。

そうであるならば、幸蔵さんは私に奥様の遺品を着せて喜んでいるのか。おそらく、私に妻の面影を重ねているのだろう。不思議には思ったが、特段嫌にも思わなかった。そんなに幸蔵さんに感情を持つほど、私は彼のことを知らない。

 さすがに気を使うのか、奥様の写真はこの屋敷に一枚もなかった。探したわけではないからどこかにあるかもしれないが、目につくところにはなかった。私が奥様に似ているからと言って私を引き取ったわけだからやはり、かなり愛していたはずだ。しかし、写真が一枚もないのは不自然だ。

 ただ、着物に関しては面倒だと思うようなこともなく、どちらかというとしっくりとくるような気がして気に入っていた。それに、幸蔵さんも幸見さんも森山さんも皆、着物姿をほめてくれるのだ。最初は気恥ずかしさが先だったが、今ではとてもうれしく思う。

 龍禅寺家では外出したいときは森山さんか龍禅寺家の人間が共に行くなら、許してもらえた。買い物についても同様。だから、不自由さは感じなかった。

 そんな生活に慣れ始めて、一か月がたった。定期健診として、森山さんに付き添われて東都大学病院へと向かった。主治医の白木先生に簡単に体調などの問診を受け、帰宅の許可が出た。白木先生には焦らず思い出していけばいいと、励まされた。

 その帰り、大学病院内のイチョウ並木を歩いていると、こちらに向かって一人、学生だろうか、若い男が歩いてくる。真新しい白衣を着ていた。すれ違う時、妙な違和感にとらわれた。

 似ている。あの目、鼻、口、すべて。菊花はすれ違った瞬間、心に何か温かい感情が湧き上がってくるのを感じた。

 誰に―――?いったい誰に似ているのだというのか。

 私は焦っていた。その出来事が、私が目覚めてから初めて感情を揺らしたからだ。なぜだか、涙があふれそうになる。しかし、悲しみや恐怖などの負の感情からではないらしい。

 森山さんに心配されながらも、ふつうに龍禅寺邸に戻った。


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