第20話 リトープス
一睡もできないまま、時刻は午前六時を回ろうとしていた。
仕事を終えて家に帰った私は、震える手でメッセージアプリを立ち上げた。
悪い夢のようなものだと思いたかった。
あけび様の勘違いだと思いたかった。
なのに、現実はあまりにも残酷だった。
私のアカウントは姫野さんにブロックされており、会話すら叶わなかったのだ。
いつでも連絡してね! なんて言っていたくせに、電話も着信拒否。
メールも宛先不明で戻ってきた。
案の定膨れ上がったもやもやが苦しくて、眠れず今に至る。
眠気すら一切訪れなかった。
全部全部、姫野さんの方が秀でていたはずなのに。
私の理想像だったのに。
一晩中自らに問いかけ続け、どうして呪われたのか悩み抜いた。
そうして午前六時。
ある答えを強引に導き出す。
失声症を患う半年前。
私はある大規模なプロジェクトに下っ端として名を連ねていた。
気の遠くなるような予算の動くプロジェクトに。
選ばれたのは同期の中では私だけ。
姫野さんはいなかった。
笹森さんだけズルいー! とおどけて小突かれたのを覚えている。
もしかしたら姫野さんは、選ばれなかったことを妬んでいたのではないだろうか。
なんでもそつなくこなす自分が、こんな地味な女に劣るなどあり得ない。
あり得てはいけない、と。
尋ねたくても話し合う機会すら絶たれてしまった。
だから正解は永遠に闇の中。
意を決して会社やアパートに乗り込んで問いただせば、とも考えた。
だが、お互いの望まない修羅場になるのが目に見えている。
ありとあらゆる連絡手段をあちら側から断ち切ってきたのだ。
文字での会話も声での通話もしたくない。
そんな明確な意思表示をされて、食い下がるほど私は馬鹿じゃない。
思い返してみれば、退社してすぐ別の同期から、姫野さんが後任に決まったと聞かされていた。
もうこの時にピースは揃っていたのかもしれない。
「ああぁぁああぁああぁぁ! あけび様も来ないし! 来なくてもいいけど!」
期待はしていなかったが、本当に姿を現さないとなると寂しいものがある。
ほらもう朝だ。忘れろすみれ!
私は勢いよく起き上がって、頭をぐしゃぐしゃと掻きまわす。
「やっぱり寒いし! あぁー!」
怒りつつ淡々と袢纏を着込んで、部屋を出た。
抜き足差し足で階段を降り、軋む廊下に立つ。
すると――
「ですがぁ。福さんはいっつも笑ってごしなるけんねぇ」
また、おばあちゃんの話し声が耳に届いた。
いないはずの福じいの名前を呼んで、とても楽しそうに。
「明日は腕によりを振るいますけん、お腹を空かしておかんといけませんよ」
福じいは、私が小学五年生の初冬に倒れ、帰らぬ人となった。
農作業中に、胸の太い血管が破れたのだそうだ。
破れた場所が悪く、医師は手の施しようが無いとおばあちゃんに説明した。
福じいは病院に運ばれた日の夜、おばあちゃんに見守られて息を引き取った。
「今年もブリ大根は忘れませんけん」
不安と一抹の好奇心が芽生える。
おばあちゃんは、誰と、何と、話をしているのだろうか。
「ふふふ。あけびちゃんとケンカせんように。あんまり追い回すと――」
「ふにゃああああ」
おばあちゃんの笑い声の合間に、実に猫らしい猫の鳴き声が紛れ込む。
どうやらあけび様が寝室にいるらしい。
「あけび様め、今日は羽毛布団をとったな……」
「うにゃああ。にゃあん」
訴えかけるような大きな鳴き声が、また。
よぉし、これ以上もやもやが増えたら私は朝ごはんも出勤も拒んでしまいそうだ。
行くしかない。
行って、現実を受け止めなければ。
「むにゃん。にゃおああぁ」
「はいはい。あけびちゃんは甘えん坊さんで――」
独り頷いて廊下を進む。
そして、ほんの少しだけ開いている襖を軽くノックし、開いた。
「……おばあちゃん。おはようございます」
「あらぁ、すみれちゃん。おはよう。どげしたの?」
豆電球の灯りの中、寝間着姿のおばあちゃんと目が合う。
実は、おばあちゃんの寝室にはあまり入ったことがない。
うっすらと見えるのは、昭和のまま時が止まったような和の香り漂う八畳間。
奥の窓際には桐箪笥や鏡台。
手前左手側には文机など、時代を感じる家具が品よく並んでいる。
おばあちゃんは文机と向かい合うように布団の上に正座していた。
にこにこ笑顔が私を見上げている。
その中で、薄桃の寝間着だけが私が着ても若すぎるくらい、ガーリーだった。
「入っていい?」
「どうぞ」
片手で膝のあけび様を撫でながら、手招きする。
私はぎこちなくはにかんで、部屋へと入った。
「お水飲もうと思ったら、声が聞こえて」
「うるさくてごめんなぁ」
あけび様を抱いたまま、おばあちゃんは豆電球めがけて伸びるひもを引っ張る。
すると、ぱっと室内が明るく照らされた。
よくよく見れば、ひもには猫用のおもちゃが括り付けてある。
あけび様用だろう。
「おばあちゃんなぁ、毎朝福さんとお話ししとるだよ」
「福さん、って福じいだよね」
「そげ。すみれちゃんにも自慢せんといけんね」
まるで少女のごとく愛おしそうに細められた目が、文机の上に注がれる。
机上にあったのは、陶器製の四号鉢だった。
中には背の低い多肉植物らしきものが、もこもことたくさん植わっている。
「立派だがぁ? 福さんが大昔に旅行先で買ってくれた
「めせん?」
「千秋ちゃんのお店でも時々売っとるが? 外国の言葉ではリトープス、だったかいねぇ」
リトープス。
そちらの名称には心当たりがある。
秋からずっと品切れしていて、この前発注したあれだ。
ちょっと、いや、物凄く変わった石ころみたいな多肉植物だ。
「え? あのリトープスってこんなになるの?」
近づいて鉢を見下ろす。
まるで石ころか、お尻みたいな奇怪な植物がこんもりと山ように群生していた。
土から一、二センチほど伸びた楕円形で、色は錆色のものと苔色のものが半々。
楕円の中央にすっぱりと切り込みが入っているが、分離しているわけではない。
この割れ目を含めて一つの植物なのである。
しかも、割れた頭の部分は不可思議な模様が描かれているのだ。
明るいところで目を瞑った時に見える、もやもやふにゃふにゃしたあの、模様が。
「よっこら――」
「にゃああぁ!」
鉢を手に取るため、立ち上がろうとするおばあちゃん。
しかし、膝を崩したところであけび様の抗議に阻まれた。
おばあちゃんは座り直し、「はいはい。なでなで、なでなで」と大らかに不機嫌な三毛猫の額を撫でる。
「育てとる間にじゃんこと増えてねぇ。最初は一個だったに、
「へぇ、双子になる場合もあるんだ」
世にも珍しい、脱皮する植物。
リトープスについて調べると、大半がそう書かれている。
彼らは一年に一度、初春あたりに、ぱっくりと中央が裂け、生まれ変わるのだ。
亀裂を割き広げるように中から同じリトープスが誕生し、外側の古い皮は干乾びる。
この時双子が生まれるのを分頭と呼ぶのだろう。
初心者の私は、まだネットや書籍でしか見たことがないこの脱皮現象。
どうやらおばあちゃんは毎年見守っていたらしい。
ちょっと羨ましかった。
加えて、こんなに大所帯になるまで徒長させずに育て上げる園芸スキルの高さ。
緑の手とはすばらしい能力だと思う。
積み重ねてきた年月がそうさせるのだろうけれど。
「知らなかったなぁ」
恥ずべきなのかもしれない。
でも、勉強になった。
「隙間から四つに割れたお尻が見えるだで。面白いでぇ」
「なにそれ、見てみたい」
「うにゃ! にゃおあん!」
再び、あけび様が訴えるように鳴く。
どうやら、私とおばあちゃんがお喋りしているのが癪に障るらしい。
怒気の満ち溢れた「にゃおあん!」だった。
「無視しとらんよー。あけびちゃんが一等だけんね」
また、なでなで。
するとすかさず甘え声で鳴くくせに、凍てつく瞳だけが私をずっと睨んでいる。
取られるとでも思っているのだろうか。そんなこと絶対ないのに。
あけび様ったら、おばあちゃんが好きすぎて怖い。
「福さんの形見、みたいなもんだけん、ちゃんとお世話せんと怒られるがぁ」
「こんなに立派にしてもらったんだもん、絶対福じいも喜んでるよ」
「だとええけどなぁ」
おばあちゃんはあけび様を撫でながら虚空を仰ぐ。
思い出に浸るように微笑んで数秒後、「あいきょ」と、感嘆詞を呟いた。
びっくりしたときなどに決まって飛び出す単語だ。
久しぶりに聞いた。
「まだすみれちゃんに言っとらんかったわ」
「なにを?」
「あのなぁ、明日は福さんの命日なんだけん」
そうなんだ。
私は頷いて続きを待つ。
「毎年福さんの好きなものを
「私あんまり料理得意じゃないけど……いいの?」
「可愛い孫が作った料理が不味いわけないけん。なぁ?」
「にゃん」
どうやらあけび様は気に喰わなさそうである。が、ここは無視しよう。
「うん。お手伝いくらいなら役に立てるし、参加させて」
明日はお店も店休日。
お掃除くらいしかすることもない。
だったら参加せねば。
「ふにゃ!」
「あらぁ。嬉しいわぁ」
相変わらずあけび様は怒り気味だが、おばあちゃんは大喜び。
休日だって、予定が入っていれば変な考えも吹き飛んでくれるはずだ。
何たって幼い頃に可愛がってくれた福じいの命日パーティーである。
ちょっとへんてこだけど、心の雨雲を晴らすにはぴったりだろう。
ああそうだ。
最愛の孫が、大好きな福じいの命日を、必ず良い日にしてみせる。
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