第19話 嫉妬の塊
「いただきます……」
鼻息で笑う虎徹を撫でて、イスに座る。
千秋さんもそれに倣って隣に腰かけた。
「ええと、純さんもよくやってたよ、虎徹嗅ぎ」
半笑いのフォローが余計に刺さる。
「だって芳しかったんですもん……仕方ないじゃないですか……。千秋さんはしないんですか? 普通しますよね?」
「うーん。あそこまで激しくは、ないかな」
「は、激しく……」
私の行為は、はた目から見たら激しかったらしい。
墓穴を掘った自分を慰めるために一口、コーヒーを口に含んだ。
今日のは苦みが強め。
だけどミルクがうまく中和してくれていてとても飲みやすい。
香りもしっかりたっていて、花丸をあげたくなる味わいだった。
「美味しい?」
「虎徹アロマと肩を並べる香ばしさです。口当たりも爽やかですし、苦みもしつこくないし」
「でしょ?」
千秋さんは満面の笑みで、マグカップに口をつけた。
やっぱりふにゃっとした笑い方がやっぱりゴールデンレトリバーにしか見えない。
虎徹の笑顔も癒されるけど、こっちもなかなかの破壊力がある。
「僕の周り、犬派が多いなぁ」
「猫も充分魅力的ですけど、やっぱりわんこの従順さって最高だと思うんですよ」
あけび様にはにゃんこドリームを粉砕されたが、虎徹は私を裏切らなかった。
だから今はわんこの中でも虎徹が一等賞だ。
「あはは。もしかしてすみれちゃん犬飼ってた?」
「いえ。うち、ペット禁止のマンションだったのでどんなにねだっても無理でした」
「うーん、絶対飼ってたと思ったんだけどなぁ」
おしい、といった顔で千秋さんは虚空を見つめる。
「すみれちゃんの実家って、関東の方だったよね」
「東京から二時間かかるかかからないかくらいのベッドタウンです。東京都内は家賃の関係で難しくて」
「じゃあ生粋の都会っ子だ」
「鬼住村よりは、ですけどね。緑や公園の多いのどかなところでしたよ。大きな公園があって、子供の頃はよく走り回ったりして」
またコーヒーを一口。と同時に虎徹には千秋さんからジャーキーのプレゼントだ。
「大学在学中はワンルームのアパートを借りて通ってました。懐かしいな」
「働き始めてからもそこから?」
「むしろ大学より二駅くらい近くなったんですよ。ちょっと寝坊しても平気なくらいで。助かりました」
「そっかぁ。あっちの電車って本数多いし間に合っちゃうよね、うんうん」
若干距離はあるが、鬼住村にだってちゃんと無人駅が存在する。
だけど特急は素通りするし、鈍行も一時間に一本あるかないか。
もし通勤や通学の際に乗りそびれでもしたら一巻の終わりだ。
都会に比べ自家用車の所持数が格段に多いのもうなずける。
「……でも結局辞めちゃいました。ようやく受かった会社だったのに、声が出なくなって、業務に支障が出てしまって」
どこかの誰かに呪われて。
「私、あんまり考えたくないんです。誰かに嫌われてた、なんて落ち込むじゃないですか」
口を潤したくてマグカップに口をつけた。
千秋さんは穏やかに微笑んだまま、じっと傾聴している。
「呪いって、いわゆる牛の刻参りみたいなものですよね。白装束で藁人形に釘を打ち付けるような」
ずっと、人を不快にさせる行動は極力控えてきた。
八方美人になるつもりもないが、攻撃的な人間になるつもりもなかった。
会社でもプライベートでも、ある程度良好な関係を築いてきたつもりだった。
「例えば、馬が合わない相手を心の中で罵倒するだけ。たったそれだけであっても、繰り返せば呪いに化けることもあるんだ。憎悪以上におぞましい毒もないよ」
「直接言ってくれれば直したのに」
足元でくちゃくちゃとジャーキーを噛む虎徹に視線を落とす。
お前は本当に可愛いね。
視界に入ると安心するよ、虎徹。
ありがとう。
「……長い髪をきっちり纏めていて、つんとした目元の女の人。すみれちゃんとも何度かレストランや居酒屋で食事してる。二十代前半くらいで、休日はいつも甘い香りがするような」
「え?」
「ええと、あけび様がね呪った相手はそんな人だって」
千秋さんはばつが悪そうに頬を掻く。
「心当たりがある?」
「……はい」
並べられた情報にぴったり当てはまる人を知っている。
艶めく亜麻色の髪を器用に纏め、メイクも程よくお上品。
パンツスーツが誰よりも似合う羨ましいスタイルの人。
仕事終わりや休日に会って出掛けたりもした。
お酒を呑んだのもカフェでケーキを食べたのも一度や二度ではない。
会うたびに、甘ったるくて満開のバラのような香りを漂わせていた。
同期の姫野さんだ。
彼女以外にそんな人知らない。
私を呪ったのは、親しかったあの姫野さんだ。
「女は嫉妬のカタマリだってあけび様が」
「嫉妬……」
処理が追いつかない。
涙も怒りもない。
まさか姫野さんが。
私よりずっと優れた人が、私を。
むしろ私の方こそ羨んでいたのに。
「すみれちゃん、大丈夫?」
「……あ、っとはい。えへへ、平気ですよ」
千秋さんに顔を覗き込まれ、反射的に不気味な笑いでごまかした。
「もう済んだことですし。今更関係ないですし」
うそだ。大うそだ。
心臓を握り潰される方がマシなくらい大丈夫じゃない。
「あ、怪しいと思ってたんですよねー」
「わふ?」
三文芝居めいた状態の私を心配しているのか、虎徹が膝に頭を乗せる。
「虎徹まで大げさだなぁ、もう」
ふかふかの頭を撫でて、ようやく深く息が吸えた。
平気平気、大丈夫。
こんなのへっちゃら。
落ち込んでも呪われた事実はなくならない。
落ち込んでも得るものはない。
一度姿勢を正し、大げさに深呼吸する。
湿り気のある空気が肺を満たし、隅々まで潤わせていった。
「すみれちゃん、僕――」
ぴこん。
しょんぼりわんこ顔の千秋さんが口を開くと同時。
開きっぱなしのノートパソコンにポップアップの表示が現れた。
「あれ? 誰からだろ」
通知されたのはSNSに新規のダイレクトメッセージが届いた旨の文言。
私は気まずさを払拭したい一心でマグカップを置き、マウスを握った。
「えーと……げ。千秋さん例のヤナギさんからメッセージが届いてます」
「うわぁ」
千秋さんは大きなため息のあと、コーヒーを一気飲みする。
「なんだって?」
「近々店に行くから一緒にメシ食わね? もちろん千秋抜きで……だそうです」
全然嬉しくないナンパをされてしまった。
これまでのやり取りで、この人とは相性が悪いと痛感している。
とにかくノリが軽いし、冗談ばっかり。
毎度そっけない返信を打つように指示を受けるが、一度もめげたためしがない。
二人きりでご飯を食べるなんて、私の精神では耐えられないだろう。
「この前のもつ鍋が美味しかったのでもう一度食べたいです、って返して」
「了解しました」
言われた通り、原文を一切いじらずに返信した。
数秒後。ぴこん、と返事がくる。
「なになに……うわ、千秋いたのかよ。お前本当もつやら肉やら好きだな」
文章を読み上げる千秋さんの眉間には深いしわが刻まれていた。
「いいじゃん別に。ねぇ、すみれちゃん。美味しいものを美味しくいただいてるだけなのに」
「ちなみに、シメは雑炊ですか? ラーメンですか?」
「雑炊一択」
「右に同じです」
お互いに見合ってニヤリと笑う。
上司と食の嗜好が一致するのは色々と喜ばしい。
しかもその上司が千秋さんとなれば嬉しさ一億倍だ。
ぴこん。
「あー、またきた」
ヤナギさんめ。
「葉挿しで増やしたベゴニアが結構でかくなってきたんだけど、そっちは? だそうです」
「あー、あれ無事に増えたんだ。貰っとこうかな」
「ベゴニアって葉挿しで増やせるんですね。多肉植物と見た目があんなに違うのに」
葉挿し。
多肉植物について調べている途中で知った、植物の増やし方の一つ。
もいだ葉を乾かして、赤玉土などに軽く挿しておくだけのお手軽な方法だ。
数週間後にはもいだ部分からにょろりと白い根が生え、遅れてミニチュアのような芽が萌え出す。
元の株を数ミリに縮めたような小さな芽が。
「多肉植物以外にも葉挿しで増やせる子は結構多いよ。ベゴニアなら、主脈を中心に葉を楔型に切って、ミズゴケに挿す。あとは湿度を保つために密閉容器に入れて、温かい暗所で管理すれば発芽するんだ。面白いよね」
「ほおぉ。また一つ賢くなりました」
「それは僥倖。どんどん覚えていこうか」
「はい」
ぴこん。
「人が話してる最中に……」
四度目の通知に苛立ちはじめる千秋さん。
画面に示されたのは「俺を無視してイチャイチャしてんじゃねぇぞコラ」の一文だった。
私としても実に腹立たしい。
赤面するよりまず腹が立つ煽り文句である。
「うるさい。写真送ってくれるんなら考える、って打って」
「わかりました」
キーボードを叩き、すぐさま返信する。
二人分の怒りが籠ったうるさい、は果たして彼に効果があるのだろうか。
「……あ」
ほんの数秒でヤナギさんは返事を送ってきた。
親指をビシッと立てた絵文字のみを。
「だからひと月でついていけないので、って彼女にフラれるんだよ……」
まったくもって反省していらっしゃらない。
いっそ清々しいくらい吹っ切れた殿方であらせられる。
同時に、眩暈がするほど元彼女に同情の念を禁じ得ない。
私だったら恐らく十日と持たないと思う。
「自由な方ですよね……恐怖を感じるレベルで」
「すみれちゃんって遠回しに貶すの上手いよね」
ぴこん。
「あぁー」
「フリック入力早すぎませんかこの人」
「わふん。うわうっ」
ずっと傍観していた虎徹もついに顔を持ち上げ、会話に参加してきた。
「話は変わるけど、大吟醸と芋、どっちがいい? だそうですよ」
変わりすぎですよヤナギさん。びっくりですよ。
「どっちも」
即答だった。
「どっちも、っと」
素早く打ち込むと、その後、再び親指を立てられメッセージは途切れた。
こうして、ボタニカルショップウィルオウィスプの昼下がりは無駄に浪費されたのである。
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