005→【本日の行動指針】



     《2》



 七月十九日、南河ながわ高校の授業は四半で終わる。

 終業式とホームルームさえ終われば、十時過ぎには全生徒が念願の、長期休暇に突入という寸法だ。


 ただし、そんな浮かれ気分に冷や水をガロンで浴びせるのが、進学校ならではのどっさりとした課題――目で見てわかる物量に、多少なりとも誰もがうんざりする中で、ウチのクラスの担任が慣れた具合に福沢諭吉を引用する。


「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり』――この論の主題を単に人類平等の文言だと解するのは誤りだとは、四月に言った通りである。人は貴賤上下の差別なく生まれ、そしてそれから何をするかによってその道が分かたれてゆく。『天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり』――君を君たらしむるものは、君がどう動き、何を学び、功を成したか、それに尽きる。幸福になりたくば、努々怠ることなかれ」


 淀まず、静かに、淡々と。

 しかし決して冷たくはなく、教室の隅から隅まで、クラス一人一人を見渡しながら。


 初対面の四月の頭、最初のホームルームで「『精神的に向上心のないものはばかだ』。この言葉に思い当たる者は挙手を」と発し、初っ端からクラス中を絶句させたあの時から、結局、一度もぶれない調子で。


「世が世なら十五の君らは既にして成人だ。与えられた自由を、無軌道な浪費ではなく、成長の為の布石とするには如何にすべきかを、あらん限りの知を以て思考することを期待する。必要な苦労を見定め、乗り越えることが出来るかどうかが、人の生を分けるのだから。――以上、挨拶を終わる。日直、号令」


 きりーーーーーーーーつ!

 ぴんと締まった号令、背筋の伸びた礼、相変わらずこの手の演説をさせたのなら見事なもので、蔓延していた倦怠は、全部キレイにと言わないまでも、何割かが低減されて払われた。


 声を伴う言葉は、それを語る者の要素までもを含む――プラスであれマイナスであれ、単なる情報以外の説得力が付随する。

 少なくとも、そこに真実味を感じる程度には、ウチのクラスの人間は、南河高校現国教諭、中嶋勲なかじまいさおの人となりを知っている。


 少なくとも。

 嘘とか、調子のいい煽てとか、思ってもいないことを適当に言えるような、器用で要領のいい人間ではない、ということが。


 だからこそ、その言葉は、響くのだろう。

 中嶋教諭の退出後も、先ほどまでのどやどやとしていた盛り上がりは鳴りを顰め、残された神妙な空気が後を引き、誰もが学生の本分への向き合い方を今一度考えている様子で、


「いやー、いいことを聴いたねえ、杜夫!」


 そしてそういうものをまったく気にしないもう一人の男が席に来る。


「さすが中嶋先生だ! 毎度毎度口を開けば名言しか言わないなあの人は! まったく実に真剣に尊敬に値する! これであともうちょっと、モテ方でも教えてくれれば弟子入りも考えたんだが実に惜しいね!」

「……あのな、山田」


 ヒトの机に顎を置き、笑いながら「ん?」と首を傾げる。


「残念だがそりゃ無理だ。あの人のモテ方、つーか“モテの型”は、そう気軽に再現できるもんじゃないだろう。方法じゃなくって型式によるもんで、その場しのぎのテクニックじゃなくて、普段何を考えて、どういうところを見据えて生きてるかのスタイルが秘訣なんだ。小手先の技じゃなく、根底の心だよ。それでもマネがしたいっつうんなら、おまえ、いちから全部変えないとだぜ。しかも、それにはまず、心の底から本当に【異性を惹き付けたい】と思うところからやめないとだが」


 出来る? と問えば、


「よし、すっぱり諦めたっ!」


 おまえのそういうところ好きだよ俺?


「そうと決まれば別の手を考えなくちゃなあ! 僕が僕として僕のまま、気のままありのまま為すがままの自然体でキャーキャー言われる方法を! どうだい杜夫、これから一丁、ファミレスでこの夏の脱童貞計画の作戦会議を行うというのは!」

「んー」


 それはそれは実に魅力的なお誘いなんだが。


「悪いな山田、今日はパス」

「えー!」


 小学生も顔負けなダイレクト感情表現。子供みたいに頬を膨らませ、机を打って顔寄せてくる。近い近い近い。


「あー、そっか、バイト代入るの明日だっけ、杜夫? 丁度今が一番サイフが軽くて紐が硬い時期だもんなあ。じゃあいいや、とりあえず購買でラムネでも買ってさ、中庭の木陰にでも」

「うむ、最高に気軽で手軽な代替案ナイスです。でも重ね重ね申し訳ない、金欠は確かにドデカい理由だが、行けない理由は別にあるんだ」

「なんだい、その脱童貞より大事なことってのは」

「そのラインを基準にすると何であっても意味深になるからやめような?」


 ん、と窓の外を指差す。

 昔むかし、この辺りにいた大名とかが城なんかを建てていたという小高い丘の上には、今は学びの為の場所がある。

 地域の子供たちからは、そこに通っているというだけで驚愕と同情を向けられる、通学のいっとうしんどい小学校――市立向井小学校。


「昔の自分に、会いに行くんだ」


 その返事から何を読み取ったのか。

 山田は目を輝かせ『それは実に面白そうだね』と笑む。


「成程。【えッ!? 真夏の魅力がビキニを緩める!? トキメキの鍵は水辺にあり大作戦!】を、後回しにするだけの価値はありそうだ」


 うん、もう一日と言わず結構長めのスパンで凍結しちゃってもいいと思うよその雑誌の特集記事みたいなやつ。

 そっちの方向ルートに走り出すと、最終的に、ブーメランパンツで警察に追われる羽目になるからね。



    ●○◎○●


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