第8話



「菜摘なのか?」


この男はわたしを知っているようだ。でもわたしはこんな男知らない。

男はブランド物のスーツをスマートに着こなしていて銀縁眼鏡をかけた如何にもなエリートサラリーマンだ。アメリカの大学に通ってそのまま就職して十年だ。日本人のしかもエリートサラリーマンの知り合いはいない。しかも『菜摘』って呼び捨てだよ。呼び捨てされるような男に知り合いはいないはずなんだけど……。


「まさか……俺のことわからないのか?」


男は傷付いたような顔でわたしを見た。眼鏡の奥の瞳は確かに覚えがあるような気もする。でも眼鏡をかけた男なんて高校生の時の同級生に数人いたけどこんな美形じゃなかった。でも十年も経てば垢抜けて……いや、ないない。


「はぁ、ショックだ。嫌われてることは知ってたけど、まさか忘れられてるなんて思ってもいなかったな」


「えぇ?」


この声、話し方、もしかして……蓮なの? 思い出の中の蓮は成長していなかったから全然わからなかった。日本に帰ればいつか会うかもって思ってたけどこんな不意打ちは想定外だ。

まさか隣の住人が蓮だったなんて。ん? いや違うか。まだ隣の住人と決まったわけではない。隣の扉の前に立ってるけど訪ねてきたのかもしれない。


「もしかして蓮なの?」


「やっと分かったのか。幼なじみなのに忘れられたのかと思ったよ」


「だって昔は眼鏡なんてかけてなかったし背広も着てなかったから……」


わたしのセリフに蓮はため息をつくと扉の鍵を開けてわたしに入るように勧めてきた。


「とりあえず中に入ったら?」


やっぱりここは蓮の住まいで間違いないようだ。わたしはタオルを詰めた箱を手に持ったまま中に入った。中は男の住まいとは思えないほど整理整頓されていた。


「綺麗にしてるのね」


「ああ。週一で掃除に入ってもらってるから」


お坊っちゃまめ! 昔からそうだった。子供の頃から蓮の部屋の掃除は彼ではなくお手伝いさんがしていた。他のクラスメートも掃除をしたことのある子なんていなかった。わたしたちの通ってる学校の掃除は業者が入っていたし、蓮は掃除なんてしたことないんだろうなと思った。そしてそのまま言葉に出していた。


「蓮は生まれてから一度も掃除なんてしたことないんだろうね」


「そうだな。……ああ、でも一度だけあったな」


蓮は何かを思い出したのかクスクス笑っている。


「何よ、思い出し笑いなんかして」


「あれ? 覚えてないの? 俺たちの初めての時、シーツを汚しちゃって俺はそのままで良いって言うのに絶対にダメだって言って、そのくせ自分は痛くて動けないって座ってたんだよな。おかげで生まれて初めて掃除と洗濯までさせられたんだよな」


何てことを思い出してるんだ。やっぱり性格が悪い。すっかり忘れてたけどこいつって超性格が悪かったんだ。ああ、忘れたい。消しゴムで消したい過去なのに。

ん? でも汚れたシーツの洗濯はさせたけどそれって掃除って言わないよね。


「洗濯は掃除とは言わないと思う」


顔が赤いのを意識しながらも一応言うことは言っておく。


「はぁ? やっぱり覚えてないのな。勢い余って押し倒したから居間のテーブルの上にあったもの色々倒してジュータンを汚したからって掃除機もかけただろ? 掃除機もどこに置いてあるか知らなかったから大変だったよ」


そうだった。でも蓮が知らなかったのは掃除機の置いていた場所だけじゃなく、掃除機のかけ方も知らなかった。結局最後は痛みを我慢しながら自分でかけたような気がする。正直他のことでいっぱいいっぱいであんまり覚えてないけど。


「多分…掃除機はわたしがかけたよ」


「何言ってるんだ。絶対俺だって」


むぅ。蓮って本当に変わってない。俺様なんだから。こんな調子で社会人やれてるのだろうか。ああ、御曹子だから俺様でも大丈夫なのか。

ユカの結婚相手はわたしの知らない人だった。てっきり蓮と結婚すると思っていたから驚いたんだよね。蓮はユカの結婚のことどう思っているのだろう。気になるけど聞けない。もうユカのことは何とも思っていないのか……それともまだ未練があるのか。あの頃なら蓮のことは何でも分かっていたのに今は全く知らない男だ。わたしが知ってるのは相変わらず俺様なことだけ。

十年って思ってたよりずっと……ずっと長かった。


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