第6話 盗まれた上履き ~ Duchess I
風呂から上がる。身体がすっきりして疲れも僅かにとれたようだ。
バスルームには全身が映る鏡はないので、この裸体をすべて見ることはできない。が、身体を洗うときにどうしても胸などに目がいってしまう。しかしながら、不思議とイヤラシい気持ちは沸き上がってこなかった。そりゃそうだ、本来あるモノが付いてないのだから。
自分の股間を洗う時、少し不安になったが、それは先ほど排尿した時に経験済みだった。あとは多少ストレスに感じてしまうくらいである。生理とか来たらどうしよっか? 考えるだけで気が重くなるな。
元の自分とは、まるきり違う身体。どういう仕組みで意識だけが身体に乗り移ったのだろう?
もしかしてすべて夢なのか? それともここは現代の日本風の……やはり異世界なのか?
どちらにせよ、情報が少なすぎて結論を出すことなどできなかった。
風呂から上がったタイミングで母親らしき人物が帰ってくる。気怠げに「ただいまぁ」と言い、そのまま風呂場へと行ってしまった。
「いつもこうなのか?」
『うん、お母さんは帰るとすぐにお風呂だよ。疲れてるみたいだから、あまり夜は話さないの。それに昨日、ちょっと喧嘩しちゃったから』
「喧嘩?」
『ううん。大したことじゃないの、いつものこと。多分、明日になれば忘れてる』
「じゃあ、このまま寝ちゃっていいんだな」
『うん。あ、寝る前に牛乳飲んでね』
「牛乳?」
思わず胸の膨らみをもう一度確かめたくなる。わりと華奢な身体だったよな。
『わたしのいつもの習慣だから』
成長途中だからなぁ……まあ、その件は触れない方がいいだろう。
「まあ、よく眠れるだろうし……」
とりとめのない会話をしながら俺は……俺たちは部屋へと戻る。
ちなみに有里朱の声だが、録音してみた結果、音としては外部に聞こえていないらしい。対する俺の声だが、彼女に話しかけている時は音として認識されていないようだ。もちろん、普通に発声すれば有里朱の声として俺が喋ることになる。
一人でバカみたいに喋っている事態は免れたが、これはどういう仕組みなのだろう?
心の声は有里朱には届かなくて、会話をしようと彼女に話しかけると伝わる。でも、それは外部には聞こえない。どちらも心の声なのか?
そういや、有里朱の心の機微、恥ずかしいとかそういう感情が間接的に俺に伝わる。なので、逆に俺の感情の動きが有里朱に伝わるかどうかの一つの実験をしてみた。
俺が大好きな嫁をブラウザで表示させ、有里朱がどう思うかだ。
もちろん嫁は二次元。ヘタレ男子が異世界でループを繰り返し、失敗を何度も繰り返しながらヒロインを救う物語に出てくる双子のメイドの青髪の方。
原作は小説投稿サイトで、そこから商業で出版、アニメ化で人気の出た作品だ。モニタに表示しているのは、大好きな絵師さんが二次創作で描いたものだ。
男ではなくなったので、ムラムラする気分はなくなったが、キャラを愛でる感情は変わらなく芽生えていた。そして、その感情を有里朱は読み取り『なんだか、あたたかい感じですね』と答える。
なるほど、これは気をつけないといけないな。あまり感情を吐露すると、有里朱に読み取られ引かれてしまうだろう。性欲がなくなったとはいえ、俺の根幹であるオタク精神は残っているからなぁ。
部屋に戻るとPCの前に座りもう一仕事する。
『今度は何を調べるのですか?』
さすがに俺が三十のおっさんとわかって、敬語で喋るようにしているのか?
とはいえ、同じ肉体ってことで混乱してタメ語と敬語がごっちゃになってるけどな。俺としては別に敬語じゃなくてもいいんだが。
「有里朱はお小遣いをどれくらいもらってる?」
『月五千円ですけど、それが?』
答えを聞きながら、俺はインターネット通販サイト「Konozama」のログイン画面を表示させ、IDとパスワードを入力する。
本来は千葉孝允のアカウントだ。
ログインできればこの世界に千葉孝允が存在する証拠となる。これを確認しておかないと、すべてが無駄足となってしまう。ここが俺のいた世界とは異なる場所で『俺が存在していない』という可能性もあるのだから。
それにいじめに対抗するなら、ある程度の金が要る。
「軍資金が必要だ。かといって母親に頼るのもいただけない」
『はぁ……』
見事にログインできて、メニューバーとアカウントサービスの上に「千葉孝允さん」と表示される。
ここは異世界ではなかった。千葉孝允は存在した。あとは、パラレルワールドでないことを祈るばかりである。
メニューからKonozamaギフト券の残高を確認。
【現在のギフト券・Konozamaチャージ残高: ¥ 1,952,785】
よし!
『あの……この金額はなんですか?』
「それは俺がネットで稼いだ広告収入だ。他にもあるけど、Konozamaなら買った商品をこっちの住所に配達してもらうことができる」
『送ってもらう? 通販で買うのってクレジットカードとかいるんじゃないですか?』
「カードは俺の……千葉孝允ので登録してあるが、二百万円近くはカードなしでただで使える額だ」
俺がいざという時の為にとっておいた隠し財産のようなものだ。緊急事態ともいえる今が使い時であろう。俺が持ってても、オタクグッズに散財するぐらいだ。ならば、人助けに使うべきじゃないか?
『え? どういうことですか?』
「だから、稼いだ広告収入だって……毎月七、八万くらいは自動的に入ってくるの。まあ、ブログの方を更新しなきゃならんのだけどね」
みんな大嫌いなアフィブログだけどな。ちなみに、さらに嫌われている『まとめサイト』ではない。あっちだったら、収入の桁が違ってくる。俺のは専門的な知識を披露したり、購入したマニアックな商品を解説したりするやつだ。いわゆるアルファブロガー。
『百万円以上あるじゃないですか!!』
有里朱は何か嬉しそうだ。
「欲しいモノはあるのか? それほど高くなければ買ってやるぞ」
そもそも生活が不規則すぎて通販は使いにくかったからな。どうしても銀行に振り込まれるGoogooの方を優先して使ってしまう。だからこれは、俺の隠し財産のようなもの。
緊急時に使えるように、とっておいたといってもいい。
今がその緊急事態なのだから。
**
目が覚めると見慣れぬ天井。ある意味ここは異世界でもあった。
双丘の膨らみは健在だ。昨日の事は夢でも何でもない。これが現実だ。受け入れなければいけないな。
『おはようございます』
「おはよう」
『眠れましたか?』
「まあ、わりと。有里朱は?」
『不思議とよく眠れました』
「今起きたのか?」
『ええ、孝允さんが目覚めるのと同時です』
こういうところでも感覚を共有するのか。まあ、二日目だし、まだまだわからないことが出てくるだろう。
「朝はどうするんだ? 母親がいるんだろ? いつものようにしてないと」
『わたしはあまり喋らない性格だし、母もそれをわかってます。朝食は冷凍室にある食パンを自分でトーストしてください。リビングには母が居ますから“おはよう”とだけ言えばいいです』
俺は有里朱に言われるまま朝食の用意をし、リビングのテーブルへと向かう。
「あら、おはよう」
「おはよう」
眠そうな顔を演技しつつ、母親を観察する。ショートカットで三十代前半くらいであろう若々しい顔立ち。実のところ、昨日有里朱から年齢を聞いているので、現在四十一歳であることを知っている。ゆえに若々しく感じてしまうのかもしれない。
鼻筋が通っていて、薄い小さな唇は有里朱にも似ている。というか、彼女の顔が母親譲りなのであろう。
黙々と朝食を食べる。その間、母親は真剣に新聞に目を通している。ピリピリとした緊張感はないが、少しどんよりとした空気が朝の食卓を覆っている。
リビングのテレビは、そんな二人の間の空気を和ませるように、アナウンサーたちが愉しげに喋っているのを映していた。
『七時三十分! 七時三十分!』と目覚まし時計の形のキャラが画面上で騒ぎ出す。
「行くわね」
そう言って立ち上がった母親が玄関へ向かう。「行ってらっしゃい」と言う暇もなかった。
「いいの?」
『うん、母親とはこんなもんです。機嫌が良ければもっと話しますけど』
食べ終わった食器を食器洗浄機の中に入れるとボタンを押す。これで洗浄、乾燥まで行ってくれるらしい。そして、有里朱に『さあ、学校へ行く支度を』と急かされた。
制服はセーラー服の冬服。紺青色のオーソドックスなものにセーラーカラー部には白い二本線が入っている。胸のポケットには二人の女神を象った校章がデザインされていた。下も同じ色のプリーツのスカート。まだ寒くないのでコートもセーターもいらないが、それでも、海老茶のタイを結び直さなければいけないので面倒だ。
『あ、そこ違う。右へ回して』
「……」
タイは下に垂らすやり方で無く、蝶々結びのような左右対称だ。いわゆる「五商結び」というやつに近い。
『違う、そこから下にひっくり返して!』
「……」
『そうそこで、ふわっと結んで』
とりあえず文句言われそうなので、命令されるままにやってみた。タメ語を越えて命令口調になってたのは仕方ないか。
洗面所の前で服を整える。少しだけ跳ねている毛が気になって有里朱は「直して、直して」とうるさく言ってくる。下手に逆らわない方がいいのはわかっているが、ストレスが溜まりそうだった。
八時に家を出る。学校までは歩いて十五分と昨日の時点で把握していた。八時二十分で校門が閉められるので、これくらいの時間に出るのがちょうどいいとのこと。
「有里朱の学校ってさ、スマホは持ち込み可なんだよね」
『そうですよ。なかったら親とかに連絡できませんからね。学校からの緊急連絡もLINFで来るし』
「授業中とか、やってる子いないの?」
『そういうのはうるさいです。授業中やってたら没収だし、廊下での歩きスマホもダメ。だから注意してください』
なるほどね。緊急連絡に使うくらいだ、学校としてもスマホを完全に排除するわけにもいかないのか。
俺が高校の時も携帯くらいは持ち込み可だったか。あの頃は大したゲームできなかったからな。教師の目を盗んで携帯ゲーム機とか持ち込んでたのが懐かしいよ。
問題なく校門を抜け、昇降口に入り、下駄箱を開けたところで違和感……というかあるべきものがないことに気付く。
「上履きがない」
『……』
有里朱の心の温度が急激に下がる。ぎゅっと胸を締め付けられるような感覚。
「いじめか? 隠されたのか? ベタすぎないか?!」
俺は静かに怒りを発動させる。上履き隠すって、どこの小学校のいじめだよ。
『いつものことです』
諦めたような有里朱の声。弱者はいつも強者に虐げられ、自分にそれを撥ね除けるだけの力がないことを知っている。ゆえに絶念する。
「初っぱなからこれかよ!」
舌打ちする俺の声に反応し、有里朱は何事もなかったかのように話しかけてくる。
『大丈夫です。用務員さんにスリッパ、借りられますから。場所は北校舎のとこです。ちょっと歩きますが』
俺は怒りを抑えながら上履き代わりのスリッパを借りる。そして、スマホを取り出し、Konozamaお急ぎ便で、とある商品を買うと、そのまま教室へと向かった。
教室に入ると空気がピリピリする。
挨拶してくる者がいないのは予想通りだが、陰口をこそこそと本人の前でやられるのはさすがにキツい。そして蔑むような視線の数々。有里朱を排除したくてたまらないような雰囲気がクラス中に蔓延している。
そんな中、一人の生徒が足元のスリッパを見て
なるほど、犯人はあいつか?
「あれは誰?」
俺は視線を犯人へと向ける。これで有里朱にも見えるだろう。窓側の席に座る、三つ編みで縁なしのメガネをかけて、やや丸みを帯びた体型の女生徒だ。
『
「おまえ気付かなかったのか? 教室に入った時、俺を見た最初の視線の先がこのスリッパだったぞ。有里朱が疎まれてるとしても、無視するか、顔を見て
『でも……証拠がないんですよね?』
「まあ、今のところはね。でも、これは窃盗事件だろ。警察が介入できる案件だぞ」
『警察なんて……大げさですよ』
「おーい、有里朱。おまえ洗脳されてるのか? 人様の物を盗んではいけませんと法律に書いてあるんだぞ。刑罰すらあるんだぞ」
『だけど……ただのいたずらだから』
「おまえ……昨日死のうとしたんだろ。そこまで追い詰められているのに、なんでそんなに寛容なんだよ」
『たいしたことないんです。これくらいは』
話にならん。なんだよこれ。
まあ、被害者の有里朱に怒っても仕方が無いな。
よし、俺が犯人を捕まえてやる!
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