第5話 この世界が優しくないことは知っている ~ Alice zero【美浜有里朱視点】
それはわたし美浜有里朱が、千葉孝允さんと出会う少し前の事。
衝撃的で幻想的で運命的な事件の起きる当日の朝に話は戻ります。
**
目が覚めるといつもの見慣れた天井。
木目の優しい模様が一番に目に入る。時計は見なくてもわかっていた。まだ七時前。アラームを設定しなくても起きられるようになっている。睡眠はいつも浅いのだから。
わたし、美浜有里朱にとって朝はいつも憂鬱だった。
目が覚めても布団から出るのが怖くてたまらない。
昨日はお母さんと些細な事で喧嘩して、そしてカッとなった母親に酷い言葉で罵られてしまった。気分屋だからいつものことだって解っている。けど、それでもごっそりと心が抉られていく感じ。
「あんたなんて産まなければよかった」「有里朱、あんたみたいなのがいるからイライラする」「それくらい一人で解決しなさい!」「有里朱! 聞いてるの?!」
暴力こそ振るわれないが、言葉の刃はわたしの心をズタズタに引き裂いていく。産んでくれなんて頼んでいない。わたしだって精一杯生きてるの。自分でどうにもならないから頼っているのに……。
時刻は七時半を過ぎた。母親はもう出勤の為に家を出たようだ。このまま学校を休んでも、後でまた怒鳴られるだけだ。
陰欝な気分のままベッドを抜け出し、制服へと着替える。食欲はないので朝ご飯は食べない。
空はどんよりとした雲。午後からは晴れるらしいとのことで、傘は要らないと天気予報では言っていた。それだけが救いである。
学校への足取りは重い。一歩一歩がまるで泥沼を進むよう。少しでも気を抜いたら足は止まってしまうだろう。前へ進むことは義務でしかない。それはこれ以上最悪にならないためのただの逃げ道だ。
下駄箱でいつもの嫌がらせを受けて、教室に入ればひそひそと内緒話が聞こえてくる。単語の端々にはわたしの名前。
「ウザイよね」
「バカみたい」
「死ねばいいのに」
「まだ生きてたんだ」
冷たい視線に、嘲笑うかのような悪意の塊がわたしを襲う。気持ち悪い……逃げだしたいよ。そんな心の言葉さえも、悪意にさらされ消えていく。
いたたまれなくなりながらも、どうにか自分の席にたどり着く。真ん中の一番後ろの席がわたしの唯一の居場所だ。
机の下で両手を握りしめて授業が始まるのを必死で待つ。たった数分が長く感じるほどの苦痛の時間。
目を閉じても耳は塞げない。一度、それをやっていて授業が始まったことに気付かず先生に怒られた。その後、さらに陰口が酷くなったのは言うまでもないだろう。
だから耐えるしかない。拷問と感じてしまうほど、わたしの精神は磨り減っていく。
チャイムが鳴り、そして長い一日が始まった。
授業中は少し緊張がとれる。さすがに教師の前で嫌がらせや陰口を言う者はいない。ただ、そんな授業中の方が体感時間は短く感じる。五十分の課目より、十分の休み時間の方が長く感じるのだ。
そんな交互に続く苦痛の時間を経て、昼休みは屋上に続く塔屋の階段付近で食事を摂ることにしている。朝、コンビニで買ってきた菓子パンだ。学食もあるがそこにわたしの居場所はない。
午後からは晴れてきたようなので、屋上に出られればそこで昼食を摂りたい気分である。ほこり臭い階段付近は、慣れたとはいえ居心地の良い席でもない。
だが、基本的に屋上への扉は開かない。天文部や一部の生徒達には開放されていたようだが、それも数年前までの話だという。何か事故があったらしく、屋上へは出入り禁止となっていた。
まあ、わたしにとってはその方がいい。こんなところで昼食を食べていても、屋上まで上がってくる生徒に見つかることはないのだから。
予鈴が鳴るギリギリまでそこにて、時間になったら教室へと戻るのがいつもの日常だ。
席に戻ると、わたしの机の上にペンケースが出されており、中にあったプラスチック製のシャープペンシルが無残にも折られていた。代わりに百円玉が入れてある。
犯人はわかっている。前の方に座るショートボブの女子。わたしと同じ中学出身で、その頃は友だちであった、若葉かなめちゃんだ。
事情はよくわかっている。だから、わたしはそれほどショックを受けていない。だって、かなめちゃんまでいじめられたらわたしが悲しくなる。彼女が酷い目に遭う方が耐えられない。
六時限目が終わるチャイムが鳴り、わたしはようやく悪意の箱から解放される。
さっさとこの場から逃げ出したい。こんな悪意に満ちた空気を吸っていたら、わたしまで醜くなってしまう。
「
後ろから呼ばれる。振り返ると高木さんがいた。
何かされるのではないかと、咄嗟に身構えてしまう。
「な、なんでしょう?」
「
いつものようにからかってくることも、何か嫌がらせをしようという気配もない。
それどころか、かなめちゃんの名前を出されてわたしは混乱してしまう。
「伝言?」
「屋上で待ってるって」
屋上? 生徒の出入りは禁止されているのではないのだろうか。
「屋上は入れないんじゃ?」
「知らないよ。わたしはただ若葉さんのメッセージを伝えているだけだよ」
「他になんか言ってた?」
「んー……なんかぁ、謝りたいって言ってたようなぁ」
わたしはその言葉が終わるのを待たずに駆け出す。かなめちゃんはずっと苦しんでいたんだ。
わたしを庇うと一緒にいじめられるからと、わざと突き放したりした。大嫌いだと嘘を言ってあの子を安全な場所へと押し戻した。それが最善だと思っていた。
結果として、周りに合わせてわたしのことをいじめるふりをしていたけど、やっぱりあの子はつらかったんだと思う。あれ以来、かなめちゃんの笑顔を見たことがない。
階段をかなりの勢いで駆け上がって屋上への扉へと手をかける。
そこではたと気付く。さっき声をかけてきたのは、わたしを積極的にいじめていた高木さんだ。そんな人の言葉が信じられるのか?
扉が開かないことを知っていて、わざとそんな嘘を言ったのではないのか?
先ほどまでの逸る気持ちが急激に萎んでいく。どうせ、からかわれたに決まっている。そう思いかけたとき、いつもなら開くはずのない扉が簡単にがちゃりと開いた。
「あれ?」
嘘じゃなかったのだろうか?
やや錆び付いた鉄扉を開けて外に出る。雲はそれなりにあるが、青い空がところどころに見えた。真っ青な空にはほど遠いけど、空の高さを感じられる心地良さがあった。
「かなめちゃん?」
塔屋から離れて屋上全体を見渡す。校舎は北校舎と南校舎の二つが「工」の字に繋がっているので意外と広いようだ。
「かなめちゃん? わたし来たよ」
その時、ガタンと扉の閉まる音がする。
急いで塔屋へと戻るが、すでに扉には鍵がかかっている。屋内の扉と違って、反対側には施錠解除用のサムターンは付いていない。どちらも鍵がなければ開かない仕組みだ。
「開けて! お願い!!」
わたしの必死の声に扉の向こうでは爆笑が起きる。はっきりとはわからないが、たぶん高木さんたちだ。いつものことだというのに……。
騙されるわたしもバカなのだ。
いじめられる人間にはそれだけの理由がある。弱くて脆くて稚拙で無愛想で、救いようがないほど愚かなのだ。
だからわたしは、わたしが大嫌い。
こんな人間がなんで生きているのだろう? こんな世界で生きていけるのだろうか?
たった一人でこんな世界に置き去りにされて、わたしは生きることさえあきらめてしまいそうになる。
そう、ここはけして優しい世界なんかじゃない。
弱者は社会から虐げられ、淘汰されていく。それが自然の摂理なのだと。
…………。
……。
しばらく放心してたこともあって、気が付いたら日が暮れかかっていた。
西の空は血のように赤い。
見ているだけで不安を煽るような、それでいて温かみを帯びたような、人間の美醜が混じり合った光の混沌。それは闇の入り口を必死で隠す、朱殷のカーテンのようにも思える。
ドクンと鼓動が高鳴る。
わたしはその景色につられるように西の端へと歩き出す。そして、胸元ほどの高さの鉄柵を乗り越えた。
頭に浮かぶのは地獄のような日々、そして唯一の心のよりどころであったあの子の顔。
「かなめちゃん……」
わたしが突き放したものだから、かなめちゃんはいつもつらそうにいじめに加わっていた。逆の立場だったら耐えきれなかっただろう。それでも彼女は、わたしの被害が最小限になるようにいつも巧く立ち回ってくれていた。
もう彼女の悲しい顔なんかみたくない。
わたしが居なくなれば、そんなこともないのだろう。この世界はわたしには居心地が悪かったけど、それでも彼女がいたからこそ今まで生きて来れたんだ。
「さようなら、かなめちゃん」
そう呟いて一歩踏み出そうとしたところで身体の自由が利かなくなる。
何?
どうしたっての?
あとは落ちるだけで終わりだった。なのに、身体が勝手に動いて鉄柵を掴む。なんで肝心なときに身体の自由が利かないの? これじゃまるで誰かに操られているみたいじゃない!
「ここは屋上なのか?」
誰? 男の人の声が聞こえてくる。けど、屋上には誰もいなかったはず。
視界が自動的にぐるりと辺りを見渡す。これはわたしが動かしているわけではない。それと同時に体と心に違和感を抱く。
いや、異物と言った方がいいだろうか。異物がわたしの身体を支配している。気持ち悪い……もうイヤ。なんでわたしばっかりこんな目に遭うの……。
涙さえもう零れない。わたしの身体はわたしでなくなりつつある。
あと少しだったのに……あと少しで全部終わりにできたんだよ。それなのに……なんで?
『なんで死なせてくれなかったの?!』
わたしの願いは聞き届けられることもなく、無残にも最悪の結末を迎えた。
死ぬことさえ許されぬ身体となってしまったのだ。
**
あれから数時間後。
心だけの存在になったわたしは、なんだかとても穏やかになれた。そりゃ、死ぬほど恥ずかしいとか、いろいろと負の感情はわき上がってくるけど、結局のところ本気で死にたいとは考えられなくなってきたのだ。
たぶんあの人の存在は、わたしのわずかな希望となる。
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