第3話 脱出ゲーム ~ Alice II


 さて、日はもうだいぶ沈みかけていて真っ暗になるのも時間の問題だ。


 不幸中の幸いか、屋上には作業用の倉庫が一つあって、その中には使えそうな資材がたくさん入っていた。もちろん、ロープはないがそれに代わるようなケーブルがある。


 親指ほどの太さのあるグレーのケーブルは、銅芯の入った電源敷設用のFケーブルであろう。これをロープ代わりに下ればなんとかなりそうだ。耐荷重はたしか百キロくらいあったはず。


「そういや有里朱の教室ってどこなんだ」

『南校舎の四階の東端だよ』


 俺はケーブルの束を頭から被って肩から斜めにかけると、ケーブルカッターを手に持ち南校舎へと向かう。この学校の建物は「工」の字になっており、上が北校舎で下が南校舎という造りだ。真ん中が連絡通路なので、北と南は簡単に行き来できる。


 南校舎のフェンスから下を見る。暗くなった校庭にはもう人影はまばらだ。真下の部分には花壇があるが、そのまま落ちれば、ただでは済まないだろう。


 ケーブルを十メートルほどで切り、一方をフェンスにくくりつける。もう一方を股の間から後ろに通して肩の方へとたすき掛けをし、背中から回したケーブルを右手でしっかりと掴む。


 そのまま、レンジャー部隊のように降下しようとして、目的の教室に明かりが灯いていることに気付く。


『待って、誰かいる』


 有里朱が小さく叫ぶ。


 俺は降下せずに四階の庇部分で止まった。そして、ケーブルで身体を支えながら頭だけを斜め下に持って行き、教室内部を盗み見る。


 中には三人の女子生徒がお喋りをしていた。窓が閉まってるので話し声はよく聞こえない。


『高木さんたちだ』


 俺の視線を通して有里朱がそう断定する。


「いじめっ子か?」

『うん。まだ残ってたんだ……』


 有里朱の声はまるで希望を失ったように泣きそうだった。せっかく屋上から脱出できると思ったら、待ち構えるかのようにいじめっ子たちが教室に残っていたのだからな。


「おいおい、脱出ルートを変えればいいだけだろ」

『……でも、鞄とかあるし……』


 彼女は完全に気落ちしていた。下手に希望を見せてしまった為であろうか。ならば少しばかりの余興を楽しむか。


 そういや、さっき見つけた倉庫にいろいろ入ってたしな。



**



『ねぇ、ほんとにこんなことするの?』

「面白いだろ?」

『自分の顔、見えないからどんなになってるかわからないよ』

「俺もわからんけど、だいぶヤバイことになってると思うぞ」

『誰かに見られたらわたし……』

「その誰かに見られるためにやってるんだけどな」


 先ほどのケーブルの他に、もう一本のケーブルをフェンスに結んで下に垂らす。

 降下用の一本は足に巻き付けてスカートがめくれない状態にして、そのまま胴体にも巻き付ける。これで下がれば、逆さのまま教室の窓に顔を出せる。


「行くぞ」

『……もう! 知らないからね』


 じわじわと降下し、ちょうど頭だけが逆さになった状態で窓から覗く。教室から見たら逆さ吊りの人間の頭が覗いている感じだろう。


 髪の毛は逆立ち、そして顔のメイクは赤いペンキで血だらけの死体っぽくしていた。剥離剤があったから後で簡単に落とせる。


 そして、ニターと薄笑いを浮かべながら教室の女子生徒達を観察した。さすがにすぐには気が付かないか。


 一分くらいで頭に血が上って苦しくなってきた。教室の生徒達はまだこちらを向かないので、片手でこんこんと窓を叩いてみる。


 一人の生徒がこちらを見上げる。そして固まった。恐怖と混乱とが入り交じった表情で。


 もう一人の生徒が「どうしたの?」という感じでその生徒に視線を移すと、固まった生徒の指先が俺の方を向く。


 「え? 何」と笑っているのだろうか、声をかけた少女もこちらを見る。


「きゃぁあああああああああああああああああああああ!」


 悲鳴があがった。さすがに窓が閉まっていても声は響いてくる。そして、残りの生徒もこちらを見る。同じく悲鳴をあげ、腰を抜かすいじめっ子たち。


 数秒経たずして、女子生徒達は一目散に教室内から逃げ出したのであった。任務終了だ。


「これでいじめっ子は排除した。教室に戻れるぞ」

『……』


 有里朱は何も答えない。うまく行きすぎて呆然としているのだろう。


 俺は剥離剤を使うために一度屋上へと戻る。もう一本垂らしていたケーブルで、体勢を立て直したのだ。あのまま準備せずに一本のケーブルだけで悪ノリしていたら、逆さ吊りのまま身動きがとれず、本当に死体になってたかもしれない。


『肌荒れるよ……』


 剥離剤でペンキを落としているとそんな声が聞こえてくる。こちとら忘年会で全身真っ黒に塗りたくられて夢の国のネズミを演じたこともあったしなぁ、わりと慣れてはいるんだけど。


「まあ、大丈夫だろ。若いんだから」

『帰ったらちゃんと確認してよ。残ってたらみっともないんだからさ』

「へいへい。それよりも脱出ルートを他に探さないとな」

『え? さっきの窓から入るんじゃないの?』

「窓は内側から鍵が掛かってたぞ」

「じゃ、じゃあ、屋上から出られないの?」


 またしても泣きそうな声。いちいちネガティブだな、こいつは。


「大丈夫だよ。北校舎側の東側に非常階段があっただろ? あれ四階まであるから、あそこから降りれば三メートルほどの高さだ」

『三メートル? ケガしない?』

「さっきのケーブル使うから平気だよ」

『ならいいけど……』


 こうして俺たちは屋上という名の密室から脱出に成功したのだった。学校の怪談に一つの噂を書き加えて……。



**



 下駄箱で靴に履き替えて外へ出ると、すでに真っ暗であった。北西には雑木林があり近辺の住宅もそれほど密集していない。県道に外灯はあるが、間隔も広く暗くて寂しげな風景が続く。


「わりと田舎なんだな」

『駅の方へ行けばもっと栄えているよ』

「夜道危なくないか?」

『うーん、どうなんだろう? こんなに遅くなるのは久しぶりかも。わたし部活とかやってないし』


 有里朱の家は人通りの多い駅の方ではなく、その逆の閑静な住宅街らしい。そのせいで、車も人もどんどん減っていく。外灯さえも間隔がだんだん広がっていくようだ。


 俺が住んでいた街と違って、マンションやアパートより一軒家が多い。小さな畑も点在していた。


「なんか寂しくね?」

『そう? わたしにとってはこれが普通だけど』


 それからあまり会話は弾まなかった。もともと知り合いではないし、まだお互いの事を知らない。共通の話題がないからだろう。


 まあ、家に行って落ち着いてから話すか。


 俺は有里朱に説明された道をひたすら歩いて行く。


『……!!』


 携帯電話の着信で震えたように、なぜか胸の辺りがぶるっと震えた。喩えるならそんな感じだ。同時に恐怖のようなものが沸き上がってくる。


 何かの気配を感じて後ろを振り返ると、そこには不審者らしき男がこちらを伺っている。


「知り合い?」

『そんなわけないでしょ? 背筋がぞぞぞってすると思ったけど、あの人が原因だったんだ』


 なるほど第六感という奴か。俺にとっては携帯のバイブ的な感覚だったけどな。


「どうする?」

『ど、どうするって、わたしに聞かないでよ』

「逃げてもいいけど、ストーカーだったら住所知られるのはマズいよな」

『ス、ストーカー?』

「それとも有里朱のファンの子かな?」

『もう、本気で怖いんだから冗談なんか言わないでよ。わたし一般人よ!』


 怒られた。けど、気力は回復しているようだ。今の状態なら、自殺なんか実行しないだろう。いい傾向である。


 俺は歩みを進める。ストーカーというのは勘違いの可能性もある。有里朱自身がこの時間に帰るのはあまりないようだし、待ち伏せして追ってきたわけでもなかろう。それならば……痴漢か?


 背後の足音は、若干自分の歩みより早い。こちらが一歩進むごとに、向こうは二歩くらい進んでいた。ということは、そろそろ追いつくかな。


 そう思っていたところで、後ろからガバッと抱きつかれる。


 酒臭い匂いと加齢臭。


 思わず息を止め、すぐにしゃがみ込みながら身体を半回転ひねる。その回転と同時に右肘を相手の股間へと打ち込んだ。


「ぐぇっ」


 相手が怯んだところで顎先へ向かって頭突きする。


「うぐっ……」


 相手がバランスを崩して道路へと倒れ込んだ。俺は追撃の為に、相手の股間を蹴ろうとしたところで逃げられてしまう。


「ひええええええ!!!!」


 雑魚かよ!


『ど、ど、どうなったの?」

「護身術だよ。俺もいじめられっ子だったから、そういうの必死で習った事があったんだ。この身体でも意外と動けるもんなんだな」


 まあ、もやしっ子でも戦えるのが売りだったからな。筋力はそれほど使わない。今考えてみれば痴漢撃退にはぴったりの護身術であった。


『あ、ありがとう』

「え? なんでお礼を?」

『いちおう助けてくれたことになるんじゃ?』

「俺としちゃ、自衛の為の行動なんだけどな。ま、いいや。これで少しは俺の事信用してくれた?」


 その質問に有里朱は黙り込む。普通なら助けた少女に感謝されるものなのだが、まだ心は開いてくれないようだ。



**



「お邪魔しまーす」


 結局、痴漢の件は警察には届けずにそのまま有里朱の家へと直接帰ってくる。


 特殊な状況で、俺がまだ状況をよく把握していないというのもある。


 彼女の家はマンションの六階だった。わりと高級なデザイナーズマンションなのだろう。エレベーターホールはお洒落な間接照明で、俺には理解できないヘンテコなオブジェが置いてある。玄関の作りもわりと凝った装飾がされていた。かなりお嬢様なのかな、こいつは。


『自分の家なんだから“お邪魔します”はおかしいよぉ』

「そりゃそうだが、俺にとっては知らない家だからなぁ」


 鍵を開けて入ったので、家には誰もいないはず。玄関で靴を脱ぎ、三メートルほどの狭い廊下を抜けると、そこはリビングであった。手前にはキッチンへの入り口があり、中からはリビングが確認できる。なるほど、対面キッチンってやつか。


 リビングには五十インチの大画面テレビ。高級そうなソファに、壁には絵画まで飾ってある。


「おまえんちって金持ちなのか?」

『うん、お母さんはデザイン事務所の社長なの』

「ってことは帰りはいつも遅い?」

『うん』

「父親は?」

『知らない……わたしが小さい頃に離婚したって聞いてる』


 少し不機嫌な口調。父親のことはあまり触れて欲しくないようだ。


「有里朱の部屋はどこだ?」

『廊下を戻って右の奥』


 俺は彼女に案内され部屋へと向かう。案内といっても、口で説明されただけだけどな。


『ここよ』


 扉を開けるとポプリの良い匂い。まさに女の子の部屋っぽい香りだ。まあ、そもそも女の子の部屋になんて入るの初めてだけどな。


 壁紙はピンクを基調とした『不思議の国のアリス』をモチーフにしたキャラが描かれている。ロココ調の高級そうなベッドに、学習机の上にはノートパソコン。WACブックか? 親がデザイナーだから、やはりリンコ信者となるか。仕方ない、使いやすくするために、後でブーストキャンプを入れておくか。


『なんか変な事考えてない?』


 俺が黙りきったのを訝しく思ったのか、そんなことを聞いてくる。


「いや、良い部屋だなと思ってな。パソコン起動していい?」

『いいけど……何するの?』

「情報収集。俺の身体がどうなったかも知りたいし」

『わかった。でも、その前にお風呂……あっ』


 彼女の心が急激に熱を帯びたような気がした。


「そうだな。ペンキの汚れも残ってるかもしれないし」

『ダメ!』

「え?」

『だって、あなた男の人なんでしょ。わたしの身体見られたら……死んじゃう』


 いや、あなた今日死ぬつもりだったんでしょ? とは返せなかった。恥ずかしいのはわかる。だからといって、この状態がどこまで続くかわからない。


「お風呂入らなくていいの?」

『……』


 黙ってしまう。代替案なんて持ってないのだろう。


「着替えとかしなくていい? この制服のままずっと過ごす?」


 ちょっと意地悪かなとは思ったが、現実を見せなくては前へは進めない。


『……死にたい』


 まあ、わかるよ。今の状態は、もしかしたら死ぬよりもつらいかもしれないからな。


「お母さんは何時に帰ってくるんだ」


 いったん保留にするために話題を変える。こうでもしないと、この子の心が持たないだろう。


『いつも終電くらい』


 となると帰りは零時過ぎくらいなのだろう。俺は時計を見る。今は午後六時過ぎだ。お腹もそろそろ空いてきた。


「晩飯は?」

『冷蔵庫の中のもので適当に作る』


 仕方がないのでキッチンへと移動した。冷蔵庫を開けると、わりと食材は豊富だった。工ビスビールも常備されている。これに手を付けたらめちゃくちゃ怒られるだろうなぁ……。


「有里朱はお腹空いたって感覚はある?」

『……うん、そうだね。お腹空いた感じはあるよ』


 肉体の情報は共有しているのだろうか? ちょっと実験してみよう。おもむろに頬を抓る。


『痛い!』


 痛いんだ。まあ、俺も痛いけどな。でも、これで感覚を共有していることがわかった。

 ということはいろいろマズいな。


『もう! 何してるの!』


 少し怒ったような声。声といっても、この音声は他人に聞こえるのだろうか? 後で録音してみりゃいいな。


 それよりも俺は重要な事に気付いてしまった。


「あのさ。早い内に言っておくけど、トイレだけは我慢できないからな」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る