第2話 我、異世界に転生せず ~ Alice I
眼下に広がるのは朱に染まる夕焼け。まるで
見ているだけで不安を煽るような、それでいて温かみを帯びたような、人間の美醜が混じり合った光の混沌。それは闇の入り口を必死で隠す、朱殷のカーテンのようにも思える。
遠い昔、俺は同じような景色を見たことがあった。抜け出せないような絶望の中で、もがき苦しんでいた頃。
いじめっ子に自殺寸前まで追い詰められた
陰鬱な思考を振り払うために俺、
そんな事より、ここは
昨晩、いささか深酔いをしてしまったようだが、その後の記憶がまったくない。
ずきりとこめかみが痛む。二日酔いか? それにしてはもう夕方か。今日は土曜日で朝から仕事があったはずだが、俺はこんな場所で何をしているんだ?
目眩でもしたかのように身体のバランスが崩れる。と同時に下を向くと、そこには足場などなかった。遥か下方には、冷たいアスファルトらしき小さな道と鉄製の柵、その奥にはうっそうと生い茂る雑木林が見えた。
「……っ!!」
地上から吹き上げる風が、額から流れる冷や汗を一瞬で乾かしていく。
ヤバイ! 落ちる!
咄嗟に右腕を伸ばし、格子状のフェンスらしきものを掴む。なんとか落下せずに済んだようだ。左手で髪をかき上げ、思わず乾ききった額を拭う。
「ここは屋上なのか?」
あたりを見渡す。なんとなく懐かしい雰囲気がするコンクリートの建物。地上四階程度の建築物……だろうか。
『なんで?!』
声がする。
澄んだ少女のソプラノボイス。どこから聞こえてきたんだ?
後ろを振り返る。屋上らしき場所には、ひとけはなかった。
『なんで死なせてくれなかったの?!』
直下を見る。そこにも人影らしきものはない。いや、正確には左斜め後ろ……南の方から大勢の若い少女たちの声が聞こえてきてはいた。
――タクジョー! ファイ、オー、ファイ、オー、ファイ、オー。タクジョー! ファイ、オー……。
それは、直接俺に語りかけてくるのではなく、部活動をやっているかのような声出しの音だ。十年以上前の記憶が甦り、同時にノスタルジーを感じる。学生時代を思い出すような、ありふれた放課後の風景。
記憶は混濁していた。俺はなぜ、見知らぬ屋上にいるのだろうか?
とりあえずフェンスの外側は危ないので、それを乗り越えようと手をかけ、足をかけたところで異変に気付く。
どうにも足がすーすーと涼しげだなと思っていたら、なんとスカートを履いていた。俺はいつから女装趣味に走ったのか?
酒の上でのことなのか? ますます記憶は混乱していった。おまけに上はセーラー服ではないか。
胸元を見ると、僅かに膨らんでいる。俺はそれを確かめるべく両手をその双丘に触れようとしたところで、また、あの少女の声が聞こえてきた。
『返して!』
しかも、わりと大きな声ではっきり聞こえる。というのに、姿すら見えない。
『返してください……』
俺に話しかけているのだから答えるべきだろう。呆気にとられながらもその声に対して返事をした。
「何を返すんだ?」
『わたしの身体です!』
**
まるで狐につままれたような話だ。
俺の意識は、とある女子学生の肉体に転生したらしい……いや、転生と決めつけるにはまだ早いか。彼女の意識はまだこの身体に残っているみたいなのだからな。
とはいえ、身体の所有権は俺に移ったらしく、彼女には身体を動かすことができないようだ。単純に少女と意識が入れ替わったわけでもなかった。
明晰夢? 夢と呼ぶにはあまりにも生々しい感覚。五感に抱くこの現実的な体感は、あまりにもリアルすぎた。
俺は一旦、自分の身に起こった事を保留にし、この肉体の持ち主である少女の状況を理解することにした。いくつか質問を投げかけることで、回り回って自分自身に起きている事を把握できるはずだ。
もちろん、これが夢だという可能性も頭の片隅に置いておく。
「ここは学校だと思うんだが、どこのなんて学校なんだ?」
俺は思いつくまま質問する。生徒の声や建物の作りからして、学校には間違いない。
『
女子高かぁ。オタクの感覚だとパラダイスだが、リアルだと結構キツいというか幻想を抱かない方がいいと聞く。
「俺は千葉孝允っていうんだ。千葉県の『千葉』に明治維新で有名な木戸
『……』
黙り込んでしまった。俺が男だということで怖がるのも無理はないだろう。
「ねぇ、君の名前はなんていうのかな?」
『……わたしは……みはま…………ぃす』
心に直接語りかけてくる言葉。だというのに、声が小さくて聞き取りづらい。これ、どういう原理で俺の耳に届いているんだろう?
「みはま……なにちゃん?」
なるべく優しく問いかけてみたが返事がない。
『……』
「なんで黙るんだよ?」
『みはま……………………』
またしても消えそうな声。
「みはまが下の名前か? 苗字は?」
『違う。みはまは苗字よ。下は……」
「……」
そこで間が空く。俺は十秒ほど我慢強く待った。相手の顔が見えないので、どうにも妙な感覚だ。
『ありす』
恥ずかしくて自分の名前を言いたくなかったのだろうか?
日本人で「ありす」なんて名付けるのは希ではあるが、いないことはないだろう。芸能人でいたような気がする。
「漢字はどう書くんだ?」
『苗字は「美しい」に砂浜の「浜」で「みはま」って読むの。下の名前の「あ」は有限の「有」で「り」は里親の「里」、「す」は朱色の「朱」……わたし、あんまり自分の名前好きじゃないの』
有里朱と書いて「ありす」と読むのか。漢字の音訓を無視したキラキラネームでないのが好感を持てる。そこまで
しかしながら本人にとっては、自己紹介で名前を言うことが相当恥ずかしかったのだろう。けど、「ありす」なんて名前はわりとありふれているような気がする。それは、俺がオタクだからだろうか。
「可愛い名前じゃないか」
『可愛くないよ。キラキラネームみたいだってバカにされることあるし……』
「そうか? アリスなんて、大昔からある由緒正しい名前だぜ」
英語・フランス語圏じゃ一般的な女性の名前だ。恥ずかしがることはない。少なくとも読み方のわからない名前にされるよりは全然いい。
『でも、日本人なのにこんな名前付けられたら……こっちが恥ずかしいの』
「日本人でも俺は結構知ってるけどな。久遠寺とか橘とか紫苑寺とか島田とか叉鏡とか……そうそう坂口でもいたなぁ古いけど」
そろそろあたりも暗くなってきた。名前の話で引っ張る場合ではない。俺は質問を変える。
「そういや、なんでここにいるんだ?」
『そ、それは……』
ずっしりと心に何か重しが載ったような声だった。
「言えないことなのか?」
『あそことあそこに扉があるから……そこに行けばわかるよ』
俺は校舎内へと繋がる塔屋の一つへ赴き、扉へと手をかける。が、開かない。鍵が掛かっているようだ。しかも解錠用のサムターンがついていない。
もう一箇所、南側にある塔屋へと移動する。ここを開けば階段があるはずなのだが……やはり扉は施錠されている。
「どういうことだ?」
『……閉じ込められたの』
「なんで?」
『もう……わかってよ……わたし、ずっと意地悪されているの。今日だって高木さんに騙されてここに来たら……鍵締められちゃったんだよ!』
「携帯とか持ってないの?」
『鞄の中……教室に置いてきちゃった』
うーん、それは抜けているというか、ストレートに間抜けだな。貴重品なんだから身につけておけよ。
やべっ……こういう心の声って
しばらく待つが反応はない。それとも自覚しているのか? (やーいバーカバーカ!)と小学生のように心の声で煽ってみるがまったく反応なし。やはり声に出さなきゃ聞こえないのか。
「いじめられてたって事でいいんだよな。おまえの立場って」
『そうよ……もう苦しいのは嫌なの……一人は嫌なの』
「だから自殺しようとしたのか?」
『誰にも頼れないんだから仕方がないじゃない』
それでも有里朱は助けて欲しかったのだろう。それを甘えとは思わない。誰もがそんなに強くなれないんだ。
よく、いじめられっ子に戦えと言う奴がいるが、そんな事ができるのならいじめられるはずがない。そもそも言い返せる時点で、いじめられっ子のメンタリティではないのだ。
だから俺は有里朱に「いじめに立ち向かえ」とは言えなかった。そんなのは無責任な言葉だ。武器を持たぬ者に戦えというのは酷である。
本来なら出会う事もない少女。だが、今は身体を共有している。この状況を利用して、いじめを解決できないだろうか?
「じゃあさ、有里朱は一度死んだということで、この身体は俺が借り受けるよ」
俺は思いきり脳天気にそう宣言した。ネガティブに考えていても仕方がない。行動しなければ何も変わらないのだ。俺の師匠も言っていた。
『ええええええええ?!』
とても嫌そうな
死にたいほどこの世界が嫌になったのなら、ゆっくり休んでいろ。おまえに必要なのは居場所と休息だ。
「俺が
彼女が戦うのが無理なら、俺がその代わりを務めればいい。
高校生ごときのいじめなんか、社会人の俺にとってみれば子供のお遊びだ。社会に出てからのいじめなんて、法律ぎりぎりで攻めてくるんだぜ。
有里朱のいじめ問題は俺が全部解決してやる!!!
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