第41話 十五歳 3

 その客が現れたのは閉店間近で、店の中のお客も少なくなった時だった。

 私がその場にいたのも、本当に偶然だった。私はいつもならその場にはいなかった。

 だからこれも運命なのかもしれない。


「…お姉ちゃん」


 フリッツの呟きが私に向けられたものではない事にはすぐに気づいた。フリッツはいまでも私のことをアンナとしか呼ばないのだから。

 フリッツの視線の先には母だった女性にそっくりの少女が立っている。一度だけ見たことがある。あれは私が家族に絶縁された日だ。母だったあの人はこの少女を抱きしめて泣いていた。あの時の少女と今の少女はまるで違う。あの時見た少女は小奇麗にしていたけれど、歩き方、仕草の一つ一つが庶民丸出しだった。それが今はどこから見ても貴族の娘そのものになっている。

 アネットはフリッツを見ても瞬き一つしない。そしてスルーした。


「ここがエドモンド様のお店なのね」

「はい、そのようでございます」


 アネットの横にいるメイドは私の知らない人だ。そのことに何となくホッとした。


「素敵なお店。でもどうしてエドモンド様は貴族専用のお店にしなかったのかしら」


 独り言なのか、それともわざと私たちに聞こえるように話しているのかわからない。何故ならアネットは私たちを全く見ないからだ。


 メイドが引いた椅子に座り、注文もメイドがする。

 フリッツが固まったまま、アネットを凝視しているのでサラが注文を受ける。サラもアネットを知っているはずなのに、全く知らない人のように接している。

 私はフリッツの傍に行き、震えている手を握る。振り払われるかと思ったけど、握り返してきた。


『アネットが憎いか?』


 クリューはいつものように肩の上に座っている。


『ううん、憎んでないわよ』

『アネットに全て奪われたのに?』

『奪われたんじゃないわ。元々彼女の物だったのよ』

『まあ、そうなんだけどね』

『それに…』

『それに?』

『兄さまはいなくなったけど、代わりに弟や妹ができたからいいの』

『弟って…、全然姉だって認めてもらえないのに?』

『認めてもらえなくても、私が姉だもの』


 これは本心だ。まだ姉だって認めてはもらえないけど、それでも私にとっては可愛い弟妹なのだ。

 アネットはクレープを食べ終えると、私たちの所に来た。

 何を言われるのか怖かった。私が悪いわけではないけど、私の代わりに十四年も庶民として苦労したのだから。


「貴女に忠告しておくわ。エドモンド様は私と婚約するの。昔の婚約者だからと言って、いつまでもまとわりつくのはおやめなさい。恥をかくだけよ。昔は貴族だったかもしれないけど今は庶民。身分をわきまえなさい」

「姉ちゃん、なんてこと言うんだよ」


 フリッツが喚くとアネットは冷めた目でフリッツを見た。


「フリッツ、もう私は貴方の姉じゃないの。『姉ちゃん』だなんて呼ばないで。貴方と私は赤の他人だったの。わかったら二度と話しかけないで」


 フリッツはアネットの言葉に傷ついたのか涙目になっている。


「酷いわ。フリッツは貴女の弟だったのに」

「今は違うわ。それに貴女も私に対してそんな口の利き方は許されないわよ」

 

 その通りだった。エドが昔も今も同じ態度だったので忘れていた。本来なら許されないことだ。


「も、申し訳ありません」

「ふっ、まあいいわ。言いたいことは言ったし、今日の所は帰るわ」


 そのまま帰ろうとしたアネットを思わず呼び止めていた。


「待ってください」

「何?」

「あ、あの兄様は元気ですか?」


 どうしてそんなことを尋ねてしまったのか、驚いたように目を見張るアネットの顔を見てしまったと思った。


「兄様、ね。わかっていると思うけど、貴方の兄ではなく私の兄よ。家の恥だった妹がいなくなって、肩の荷が下りたのよ。元気に決まっているでしょう」


 意地の悪い言い方だったけど、兄が元気だと聞いて嬉しかった。兄が私のことなんてもう妹だって思っていないことは知っている。それでも私は兄がいたからあの家で暮らせていたことを忘れてはいない。


「そうですか。教えてくださってありがとうございます」


 私の返事にちょっと驚いたような顔をしたけど、肩をすくめて扉から出て行った。

 フリッツは涙を流していた。たぶんこれが姉であるアネットとの本当の別れだったのだろう。突然いなくなったために別れがきちんとできていなかったのだ。

 私はフリッツが泣き終わるまで手を放さないでいることしかできなかった。

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