笑わないで 4

「うあっ!」

 突き飛ばされて背中を打ち、短い悲鳴をあげると彼は動きを止めた。

 強い眼光が夢とうつつの間を見るように揺れる。左手でエルセリスの襟元を掴み、右手は宙に浮かんでいた。それが攻撃のためのものだと理解したエルセリスは、襟を締める彼の手に触れながら静かに言った。

「……大丈夫、落ち着いて。あなたはいま、怪我をしている。手当をさせてほしいだけなんだ」

「……見たな」

 獣が唸る声にしか聞こえなかったが、身体の痣は触れてはいけない秘密だったことをエルセリスは悟った。

 しかし彼を興奮させてはいけない。息を飲み下しながら声が震えないよう続けた。

「傷に障る。落ち着いて。私は何もしないから。大丈夫、大丈夫だか、」

「見たんだな!?」

 全身にびりびりと震えが走る声には覚えがあった。

 子どもの頃オルヴェインがよく見せた、憎悪だ。目はぎらつき、逃がさないよう手の力は強く、怒りと嫌悪を含んだ形相は、相手を憎むそれだった。

 頭の中が真っ白になる恐怖を味わう。

 声が出なくなり全身は石になった。息を飲み込むことすら彼を駆り立てるのではないかと呼吸もままならない。ただオルヴェインを見ている。飢えた獣のような彼から逃げようと本能が身じろぎする。

 しかしそこに一筋の光を見つけた。

 オルヴェインの目、恐怖を覚えさせる眼光にわずかに混じる怯えがあった。

(怖がってる……)

 知られたくなかったものを暴いたエルセリスを恐れている。そして知られたことを許すべきか迷っている。

 背中の傷から流れる血が肘から滴るのを見たエルセリスは、勇気を振り絞ってもう一度告げた。

「……傷の手当をさせてくれたら、何を見たかは誰にも話さない。約束する」

 目つきが少し変わったのを感じて「お願い」とさらに押すと、彼はようやくエルセリスを開放してくれた。

 再び飛びかかられないよう警戒しながら、驚かせることのないようにじり寄る。半分脱いだ状態のシャツを脱がそうと手をかけると協力するように身体を動かしてくれたから、とりあえず言葉は届いているようだ。

「……っ」

「ごめん!」

 痛がらせたことを反射的に詫びると「いや……」と小さく言われた。

 まだ血のにじむ鉤爪の傷跡にエルセリスはそっと剣の腹を当て、記憶している祈祷書の魔気を祓う聖言を唱えた。

 剣を押さえる手に小さな風を感じ、浄化に成功したことがわかった。

 そうしてなんとか脱がせることのできたシャツを、汚れた部分を避けて裂き、傷口を圧迫しながら巻いていく。長さが足りない部分は自分の上着の裏地を切って使った。

 応急処置が終わって肩をたたくと、オルヴェインの全身にみなぎっていた緊張がふっと緩んだ。

「まさかお前に見られるなんてな」

 上着をかけようとした手を止め、なんと答えていいのかわからずにいると、笑う気配がした。

「……お前にはいちばん知られたくなかった」

 暗くともオルヴェインが自身を嘲っているのがわかる。みなぎっていた覇気が薄れて悄然として見えていることに気付かないふりをして、エルセリスは裸の背中に彼の上着を被せた。

「騎士たちと合流しましょう。また意識を失われたら、私だけではあなたを運べませんから」

「敬語はいい。不敬だと言うやつらはここにはいない」

 だから距離を取らなくちゃいけないんだよ、とエルセリスはため息をついた。

「あなたは王子で、私の上司です」

「だが俺の最大の秘密を知った」

 ばさりと上着を落とし、オルヴェインは自らの痣をエルセリスに晒した。

 再び目にして改めて、嫌な痣だ、という印象を強くする。鱗を模しているのか何度も針を刻んで描いたような細かさは陰湿だった。同じところに何度も縄を巻きつけて迷路を作り、肌を埋め尽くそうとして見える。もしそれが本当に縄や大蛇なら締め上げられる痛みで我を失いそうだ。

「この痣は、術師の死の呪いだ」

 オルヴェインは顔を歪めて笑いながらそう告げた。

 死の呪い――呪われた者は身体と魂を奪われて術師の所有物になる。最後は自我を失い、術師の命令に従う人形のようにもなるという最悪の呪い。

「死、……の……?」

 さあっと血の気が引いた。

「学術都市にいた頃、そこで知り合ったやつらと封印塔の影響外でしか採れない草やら石やらを集めて小金を稼いでいてな。二年前運悪く術師と遭遇して、よっぽど気に入られたのか呪いをもらった」

 オルヴェインはくつくつと喉を鳴らす。言葉を失っていることを笑われているように思えてエルセリスはかっとなった。

「笑い事じゃないでしょう!? 死の呪いなんて滅多なもの、どうして……!」

 全身が震えた。死の呪いは、病や不幸を呼ぶ小さな呪いとは違って封印塔の影響下でも解呪された例がない。呪いを受けた者は少ないがその恐ろしさは人々の間でよく知られていた。何故なら呪われた者は十年と保たないからだ。

「さあ、怒りなのか好意なのかはわからんがとにかく術師は俺に狙いを定めたらしい。そのときは逃げ出すことに成功したが、よくよく見ると身体にこの痣があった。調べてみるとこの痣が全身に広がったときに死ぬらしい。死んだ後は術師のものになる」

 さらりと乾いた口調だが内容は重い。

 その呪いは右半身の大部分に及んでいる。二年でこれなら残りの命数は。

「――だから、変わろうと思ったんだ」

 エルセリスを見ずに地面に目を落としたまま、オルヴェインは片膝に口元を隠した。

「子どもの頃の俺は、世界のあらゆるものが大嫌いだった。家族も、世話をする者たちのことも。王子であること、自分自身のこと。身分や貧富の差、戦争といった自分ではどうしようもないもののことや、優しい言葉や美しいものといったものでさえ、神経を逆なでして仕方がなかった。だがその思いをどうしていいのかわからなくて、持て余して、当たり散らした。巻き込まれる側はたまったものじゃなかっただろうな」

 声は静かで、何度も自問自答して導き出した思いなのだと感じた。彼はかつての自分をそうやって見つめなおしたのだ。

「多分俺は傷付いてることを知ってほしかったんだ。誰かを傷付けることで俺が感じている痛みを感じて欲しかったんだと思う……」

 赤ん坊みたいだよなとかすかに笑った。泣くことでしか訴えることのできない赤子のように、少年だった自分は誰かを傷付けることしかできなかったのだと。

「年を重ねるにつれて嫌悪は薄れたが、くすぶりは残っていた。留学先で不良行為を繰り返してお目付役の頭を抱えさせたよ。呪われる原因になった外出も馬鹿をやった結果だ。周りをめちゃくちゃにした結末がこれだと思うと、おかしくてたまらなかった」

(どうして笑うんだよ……)

 思いながらも、わかる。

 笑わないと怖くてたまらないのだ。そうやって自分が死ぬことから目を背けるしかなかった。

 それがどうして『変わろうと思った』のかを彼は穏やかに語る。

「しばらくそうして腐っていて……ある朝ふっと目が覚めた。妙に頭がすっきりして初めて気持ちよく起きた気がした。身体が軽くて久しぶりに外に出てみたくなって扉を開けると、ちょうど朝日が昇るところだった」

 オルヴェインは褪せない実感を込めて言った。

「綺麗だった。俺がいなくても世界は綺麗だ。世界がそうであることをようやく許すことができたんだ」

 ずっとどうにもできなかった苛立ちや憎しみといった燻りはそこで消えた。そうして彼は動いた。

「考えた。今までのこと、これからどうするか。そう遠くないうちに俺は死ぬ。だったら新しい自分になろうと思った。これまでしてこなかったこと、表現できなかったもの、行動に移せなかったことを、相手の気持ちを考えてやってみようと思った。――自分が死んだとき、いなくなってせいせいしたと言われるより、惜しまれたいと思ったんだ」

 死を見つめて受け入れた穏やかさと、それを人に悟らせないための優しさを最初に身につけたのか。惜しむものがないからこその勇敢さと行動力、人をいたわり励ますのは、彼がもうこの世界の居場所を片付け始めているからだというのか。

(……嫌だよ、そんなの)

 エルセリスに最初に思ったのは、それだった。

 傷付けられて、許せなくて、再会して謝罪されてもどうしても認められなかった。変わった彼を疑って冷たく当たってしまったこともある。ごめんなさいの一言も言えなかった。けれど。

 オルヴェインが死ぬのは、嫌だ。

「何か、方法はないの……死の呪いを解く方法は。……そうだ、封印塔。塔を活性化させて神の力を使えば、もしかしたら!?」

「同じことを親父と兄貴も考えた」

 少し迷った後、彼はエルセリスを見つめて告げた。

「今回の塔活性化事業は、俺の呪いを解ける可能性を考えて始められたことなんだ」

 初めて聞く真実にエルセリスは眉を寄せた。

「どういうこと……?」

「クロティア地方のその塔に祀られていたのは、時の神だ。もし塔を活性化させることができれば、神の力を目覚めさせて進行した呪いを巻き戻し消滅させることができるかもしれない。そう学者たちが言っていた」

 病や不妊といった呪いは封印塔で祈りを捧げることによって解呪できる可能性があることは知られている。そうした呪いをかけられることは日常的にままあったが、祈りによって必ず呪いが解けるかというと断言はできない。

 それも死の呪いとあっては彼の言うように存在するかもわからない神の力に頼るしかないだろうが、その力を引き出すことのできる祈りの強い聖務官が存在していなければ不可能だ。

 そう考えて心臓が鳴った。

 どくん、どくんとゆっくり鼓動が速まっていく。

「……すまない。お前たちの高潔な仕事を、助かるかどうかもわからない俺の命のために始められたことだなんて知らせたくなかったんだが……お前にはもう隠しておきたくなかった」

 国の上層部はオルヴェインを助けるために国事としてこの計画を始動した。呪われたのがただの一国民だったなら動き出さなかった事業だろう。

「……うん。このことは誰にも話さない方がいいと思う。聖務に携わる典礼官は中立の立場でなければならない掟がある。私もいま聞いたことは忘れる」

「すまない」

「ううん。……大変だったんだね」

 いたわりが自然と口をつく。

 転機さえあれば人は変わるというヴィザードの言葉がずっしりと感じられた。こんなにも穏やかなオルヴェインは呪いを受けてどれだけ思い悩んだだろう。残り十年もない命だと言われたことを想像すれば、混乱して動けなくなって当然だ。でも彼は変わろうと動いた。それだけで驚嘆に値する。

「理由がなんであれ、典礼官は国のために祈りを奉じる。だから私は聖務官として自分の義務を果たす」

「わかっている」

「祈りながら、あなたが助かることを願うから」

 オルヴェインが言葉を止めた。

 国のため、人々のため、祈りを捧げるのが聖務官。

 でも具体的な誰かを助けるために力を使えるならそれでいいのではないかとも思うのだ。見えないもののために祈りを投げ続けるよりも、知っている人たちを思い浮かべる方が強い祈りになる。そんな気がするからエルセリスは微笑む。

「私はこの仕事をやり遂げてみせる。あなたの呪いが消えるように、あなたの命が続くように祈るよ」

 鼓動が鳴る。大それた願いが胸にある。

 聖務官として名を残せるものになりたいと思ってきた。

 それが神の力を目覚めさせる祈人、強い祈りを奉じる存在だというのなら。

 不可能と言われようがその高みに手を伸ばし。

 私がそれになってやろう。――私の望む私になろうじゃないか。

「だからあなたはこの事業が成功させられるように全力で挑んで。生きてやるって、足掻いて」

 生きていてよ、オルヴェイン。

 その思いが伝わったかどうかはわからないけれど、彼は一度、大きく頷き、羨望するように目を細めた。

「……変わらないな、お前は。素直でまっすぐで、いつも眩しい」

「悪かったね、単純で」

「いいや。そういうところが、俺は……」

 耳を澄ましたが言葉を濁したのか聞こえなかった。

 いつの間にか森の空気が変わっていた。魔気が薄れて魔物らしい気配も遠ざかっている。

「そろそろみんなと合流しよう。まだ仕事は完了していないんだから」

 腰を上げて手を差し伸べる。

 オルヴェインのことを許せたわけじゃない。でも。

「よろしく頼む。聖務官」

 託すように手を掴まれたいまは少しだけ。――だいきらいを撤回してもいいかな、と思っていた。

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