笑わないで 3
剣舞を舞った後は夕食だった。食べなれない野営食がまあまあな味だったことに感心した後、エルセリスは周囲の言葉に甘えて早々に横になることにした。剣舞は全身を使う上に精神を研ぎ澄ますものなので、終わった後は寝台に飛び込みたくなるくらい疲れるのだ。
小さな天幕を贅沢にひとりで使わせてもらいながら、夢を見た。
夜の森だった。いまいる野営地の外側に広がっているような、背の高い手つかずの木々に囲まれた場所。まったく周りが見えないほどの闇だけれど、夢だとわかっているせいか意識が勝手に「ここは森だ」と判断している。
そこにはっきりと人影が見えるのも夢だからだ。
たったひとり立ち尽くしているのは、オルヴェインだった。夢にまで見るのかと苦い気持ちになったとき、彼の正面に誰かがいることに気が付いた。
(……子ども……女の子?)
全身を頭巾のついた暗褐色の外套に身を包み、顔を隠しているからはっきりとはわからないけれど、身長と全身の細さからして、エルセリスより二つ三つ年下に見えた。
いったい何をしているのかと思ったとき、オルヴェインが膝をついたので驚いた。
崩れ落ちるようにして頭を垂れる彼に少女は両手を伸ばす。そうしてエルセリスはさきほどから聞こえていた風の音が彼女の笑い声であったことに気付かされた。
『あなたはわたしのもの』
森を満たす笑い声は、愉悦と悪意そのものだ。
『あなたの身体はわたしのもの。あなたの心はわたしのもの。あなたの過去もいまも未来も、すべてすべてわたしのもの』
嬉しそうに、楽しそうに。相手を奪えることを喜んで、少女は囁く。腕の中に抱えた無抵抗のオルヴェインに染み込ませるがごとく、何度も繰り返し、繰り返し。そうして彼は彼女から湧き出した黒い闇に飲まれていく。
連れ去られる。取り戻さなくては。
そう思ってエルセリスは声を上げた。
「オルヴェイン!」
音が、止んだ。
首をもたげた少女がそれまで見えていなかったはずのエルセリスを捉えた。
『誰だお前は!』
鋭く息を飲んだ瞬間に目が覚めた。
飛び起きると心臓がばくばくと鳴っていた。怖い夢に入る部類の、いやな夢だった。
(神経質になってるのか、それとも聖務官としての力のせいか……)
夜の森の、顔の見えない恐ろしいもの、が想起させるのは人の脅威である術師だ。不安が夢に出たのならあんな内容になるのは当然だったが、濃い魔気のせいで聖務官としての能力が過敏に反応して予知夢めいたものを見せた可能性もあった。
そう考えたエルセリスは手早く支度を整えて外に出た。
夜半も過ぎ、火の番をする騎士たちの話し声も聞こえず辺りは静かだ。みんな道中気を張って疲れたのだろう。休めるときに休んでおかないと明日の実地調査が大変だ。
(不審なところは見当たらない、か……?)
そう思ったところで野営地を出て行くオルヴェインを見つけてしまった。しかもひとりだ。
少し考えて、後をついていくことにしたのは夢のせいだった。
(ちゃんと謝ってないし、ね)
しかし一声かけていくべきだろうと火を囲んでいる三人に近付く。
「……聖務官? どうしました?」
「閣下が森に入っていくのが見えたので追いかけます。大丈夫だと思いますけれど、一応」
「あれ? 天幕でお休みになっているんじゃ?」
慌てた様子でひとりが立ち上がった。
「聖務官を行かせるわけにはいきません。俺が行きます」
「えーっと……そうですね、お願いします」
私情を挟まないとヴィザードに宣言したため、ひとりで行くとは言えないかあ、と大人しくそこに座った。エルセリスの示した方向に騎士が走っていく。
「何か飲まれます? って言っても豆茶しかないんですけど」
「ありがとうございます。いただきます」
眠気覚ましに濃く淹れたお茶を金属製の器に注いで渡してくれる。湯気が多くいかにも熱そうでなかなか口をつけることができない。
ふーふーと息を吹きかけていると笑われてしまった。
「猫舌ですか?」
「そうかもしれません。恥ずかしながら、出来立てのものを口にする機会があまりないので」
貴族の食事はたいていどこも、料理を運んでいるうちに冷めてしまっている。もっと慎重なところは毒見役も挟むので、作りたての料理を食べた経験のある人はあまり多くないだろう。
(だからオルヴェインに街の屋台に連れて行かれたときはびっくりしたっけ)
城を抜け出して街に行き、揚げたてのドーナツを買い食いしたのだ。いつもの場所に向かっている途中でいきなり引っ張っていかれてふたりで出掛けたときだったから、よく覚えている。
『熱い! でも美味しい!』と歓声をあげると、オルヴェインは笑ったのだ。
『そうか。よかったな』
(あのときのオルヴェインが大人になったんなら、いまみたいになってても不思議じゃないんだけど)
程よく冷めた豆茶の香ばしさと温かみに、ほっと息が漏れた、そのときだった。
「――っ!?」
ずきりと右手に痛みが走った。
落ちた器からこぼれたお茶が地面に染みを作る。突風に空の器が転がり、燃え盛っていた炎が消えた。からからと器の音が聞こえる中、野営地は急速に冷たい闇に包まれていく。
右手のひらがずきずきと痛み、わけがわからないながらもエルセリスは言った。
「気をつけてください! 何か、」
巨大な手のひらを叩きつけるような風にエルセリスは倒れた。
「うわああっ!?」
すぐそこにいた騎士の叫び声が聞こえ、何かがぶつかるばさりばさりという音と鼠が鳴くような声がした。まだ視界が利かない中で立ち上がりかけたエルセリスめがけてそれが風を切ってくる。思わず顔を庇うと薄く毛羽立った生き物の皮膚が触れた。
(飛行型の魔物!?)
「敵襲! 魔物出現、魔物、うっ!?」
警戒を叫ぶ騎士は翼で顔を打たれたらしく短く呻いた。どうやら魔物は一匹ではないらしい。声を聞いて天幕から出てきた者たちの周りにも飛び交っているらしい物音が闇の中で響いている。エルセリスは慎重に聖具に手をかけた。
だがその頭上を、魔物を追い払うために振り回された誰かの腕が通過する。
(だめだ、先に目を慣らさないと剣が人に当たる!)
身を低くしながら耳を頼りに安全な場所を探り、その場を離脱しようとしたとき、背後にぶわりと生き物が迫る気配がした。
振り向いたときには遅い。闇を背負うかのような魔物の爪がエルセリスを狙っていた。
(やられる――!)
しかし思った痛みはこなかった。素早く地を駆けてきた何かに突き飛ばされたからだ。
「ぐっ!」
「オルヴェイン!?」
呻き声は彼のものだった。戻ってきたらしい彼は転がったエルセリスを抱えるようにしながら周囲に声を放つ。
「全員散開! 外に出ている者は天幕へ行くか仲間とともに森へ! 天幕にいる者はそのまま出るな!」
そうしてエルセリスは彼に肩を抱えられながら、低い姿勢で森に踏み入った。
夜のそこはさらに闇が濃かったが、次第に目が慣れる。振り返ったさきで野営地の上を飛び交っている魔物の影がなんとなく掴めてきた。巨大な蝙蝠の群れらしく、空を埋め尽くすように飛んでいる。
(蝙蝠なら、朝になるまで耐えれば大丈夫か)
やつらの目が広場に向いているなら森の中は比較的安全か。別種の魔物に襲われる可能性はあるが潜んでいればやり過ごせるはずだと、オルヴェインは咄嗟に判断したのだった。
だがどこまで行くのだろう。
オルヴェインは野営地からどんどん離れていく。まるでそこから遠い場所に逃げたがっているかのようだ。
「閣下、このままだと離れすぎ、……閣下?」
そのオルヴェインの身体が大きく傾いだ。膝を折って地面に両手をついてしまう。
「どうし……、!?」
支えようと背中に手を回したところで、ぬるりと生暖かい濡れた感触に言葉を失った。見れば右肩から背中にかけてざっくりと爪痕が残っている。
(さっき私をかばったから!?)
闇に響くざわめきが急に大きくなった気がして、額を冷たい汗が流れた。
だが立ち尽くしたのは一瞬だ。エルセリスはオルヴェインを担ぐように手を回し、辺りを見回すと、斜面に突き出した巨岩が大きな庇を作っていたのを見つけ、その下に彼を引きずっていった。
力を失いつつオルヴェインは重く、辿り着いたときには汗だくになって息が切れていたが、エルセリスは自身の上着を脱いで地面に敷くと、患部が直接触れないよう彼を横たえた。
「う……」
(意識が朦朧としてる。魔気のせいかもしれない)
患部に刃を当てれば魔気を取り除ける。そのためには彼の服を脱がせなければならない。
下手に気を使うと痛がらせるだけだと、思いきって豪快に服を剥いでいく。重い上着の下の白いシャツは、背中の汗と血でぐっしょり濡れていた。きっちり留めてあったボタンを外して右半身をはだけたとき、エルセリスは動きを止めた。
(……なんだ、これ)
最初は血が肌を汚しているのだと思った。
痣なのか刺青なのか判断がつかなかったが、右肩から右胸、腹部に走る、黒い蛇あるいは蔦。もしかしたら腰よりも下にも広がっているかもしれない。
知らない間に刺青を入れたのだろうか。だがそれにしてはやけに禍々しく嫌な艶かしさがある。彫るにしてもオルヴェインの趣味ではないだろう。
手当を忘れて彼の肌の上の秘密について考えたとき、かっと目を見開いたオルヴェインがエルセリスに飛びかかってきた。
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