一章 異世界に降り立つ聖女 ③


「リカルド・フリードリヒ・デ・バシリウス。大国キンバリー王国の第一王子にして、王位継けいしよう者。年は二十二。独身。文武両道で、国民の支持もあつい。……はあ。つまりかんぺき王子ってことですか」

 ハンナがくれたリカルド王子のプロフィールと地図をながめながら、理沙はためいきいた。

 リカルド王子との謁見から丸一日がち、現在理沙は王宮の中庭にいた。庭の中央にあるふんすいの出っ張りにこしけて、ひざに広げた地図に指をすべらせる。

 キンバリー王国は、ルシアン王国から見てほぼ東に位置する大国だ。目算でもルシアンの七倍ほどの面積を持つ。

 気候が安定しており、農耕に向いた土地で、海に面しているために魚介や塩もとれる。それだけでもルシアンががれるほどに豊かな国なのだが、軍事を始めとする技術力もまた高い国らしい。

 もはやルシアンがキンバリーに勝っているものなどひとつしかない。そう、宝石だ。こればかりはキンバリーの広大な土地を探しても、ほかの周辺国でもさいくつできないらしい。この一点のみで、ルシアンはなんとかキンバリーと国交を結び、かろうじてれいぞくまぬかれている。キンバリーだけではない、ルシアンは宝石事業だけで、他国とわたり合っていると言ってもいい。

 ──ルシアンって、結構綱つなわたりの外交なんだなあ。切れるカードは宝石しかないってことなのね。

 だからこそ、聖女の存在は彼らにとってとても重要で敬われるものなのだ。

 そんなことを考え、はっとしてあわてて首を横にる。国の心配をしている場合ではない。

「ダメダメ! 私は帰るんだから!」

「あれ? これ俺の国だね」

 ふっと地図にかげが差して、理沙は慌てて顔を上げた。いつの間にか目の前にリカルドがおり、腰を軽く曲げて地図をぎようしている。と思ったら、見ているのはハンナがくれたプロフィールの方だった。慌ててかくそうとするが、もうおそい。リカルドは笑みを深めて、するりと隣に座って理沙の顔をのぞきこんでくる。

「俺の事なら、俺に直接聞いてくれればいいのに。君の質問ならなんでも答えるよ」

 なんでも、なんて聞いてあきれる。理沙はプロフィールを地図の間にはさんで、パタンと閉じた。リカルドとの間に一人分隙すきを空けて、座り直す。

 リカルドは目を丸くして言った。

「おや。すっかりけいかいされてしまったね」

「何かようですか。リカルド王子」

にんぎようで悲しいな。俺は君ともっと打ち解けたい」

「では『謎の男性』とお呼びしましょうか」

「そうそう、その話をしたかったんだ。玉座の間で、口をつぐんでくれてありがとう」

「……全部ぶちまければ良かった」

 満足げなリカルドの顔がなんだか腹立たしくてぼそりとつぶやくが、彼は楽しそうなままだ。

「川辺で会ったのはこのまま秘密にしてくれないか。二人だけの秘密もいいものだよ」

 思わせぶりな言い方で微笑ほほえむリカルドだが、その真意が全く見えない。

 理沙の疑念と不安は、リカルドがやって来たことでさらに増していた。

 知らない世界にやって来た理沙にとって、未来を知っているというのは一種の安定剤ざいになっていた。理沙にとって不利なじようきようになっても、それをかいできるすべを自分は持っている。そのアドバンテージこそが、理沙の心の支えだったのだ。

 現在、それは根底からくつがえされそうになっている。異世界から来た自分という聖女がおり、見知らぬ国の王子までやって来た。本の通りに、全く話が進んでいない。

 理沙は、考えの読めないリカルドの笑みを見つめる。

「王子がこの国にいらした理由はなんですか?」

「ここに来たのは、次期国王として見聞を広げるためと、あとはルシアンの産業を学びたいからだよ。国王からそう聞いていない?」

 確かに訪問の理由は遊学だと聞いている。だがそもそも、ルシアンに勉強のために来たという理由が信じられない。ルシアンは、キンバリー王国からすれば取るに足らないきんりんの小国のはずだ。どちらが上かなど、考えるまでもないだろう。そんな力関係の中で、いまさらキンバリーの王子がルシアンになにを学びに来るというのか。一国の王子が他国に遊学するのはそう簡単にできることではない。しかも彼は王位継承者なのだ。それでもなおここに来たということは、相応の利益を求めてのはずだ。

 なにより彼は、この国に王子として正式におとずれる前にルシアンの地をんでいる。それを理沙に秘密にしてほしいと言ってきた。そうだ、彼はなぜあの川辺にいたのだろう?

 疑問がぐるぐると頭を回る。しかし、真正面から聞いてもはぐらかされるだけなのは分かっていた。更にやつかいなことに、相手は大国の王子だ。下手へたなことを言えば、外交問題に発展する可能性さえあるのだ。

「いいね」

「え?」

 リカルドが口を開いたことで、理沙はいつの間にか自分が深く長考していたことに気付いた。目の前のリカルドは自身のひざほおづえをつき、ふっと口元をゆるめる。

「その瞳で情熱的に見つめられると、気分がいい」

「はっ? 情熱的になんて見てません!」

「そう? 急に押しだまったと思ったら、ねつれつに俺の顔を見つめていたじゃないか。こう一心に、ひたむきに……。ああ、ずかしがらなくていいよ。俺だって君のれいな瞳を見ていたからね、おたがい様だ。──もっと見ていていいかな?」

「誤解です! 見てませんし見ないでください!」

 からかわれているのは分かっているが、熱烈に、ひたむきに、などと言われては言い返したくなる。理沙は全力で否定し、青いひとみからのがれるようにその場を離れた。




「……楽しそうですねえ。リカルド様」

 おこった様子であらあらしく遠ざかっていくリサの背中を見つめていると、どこからともなく自身の従者が現れた。

「オスカーか」

 リカルドの腹心でもあるこの従者は、いつもねむそうな顔をしている。細い目元は本当に開いているのかと時々確かめたくなるほどだ。しかし、のほほんとした見た目にだまされるとひどい目にあう。キンバリーの王立大学を首席で卒業したオスカーは、国随ずいいちの切れ者なのだ。

「そう見えるか?」

「はい。いきいきとしていらっしゃいます」

「言い返してくる言葉が小気味よくてね。まるでお前と話しているようなごたえを感じる。ま、お前とちがって性格はねじ曲がっていないし、目は大きいし、美人だけれど」

「はいはい。どうせ私は性格がとんでもなくねじ曲がっていて、目だっててるの? って聞かれるくらい細いですよ。──で? どうですか、あの聖女様は」

 リカルドはたんたんとした口調で言った。

「聖女なんてふんはなかったな。むしろその役目にまどって、うとんでいるようにも見える。でも周囲に流されて、否定もしきれていない。なにもかも、ちゆうはんだ。いつかきっと自分で役目を持て余して、どうしようもなくなる日が来る」

 オスカーはするりと自身のあごでた。

「なるほど。まあ、おおむね同意しますよ。それにしても最後、聖女様は怒って行ってしまいましたけど」

「ああ。色々聞かれる前に話を終わらせたくてね。わざと怒らせた」

「……へえ」

 いつしゆんの間の後、棒読みのようなあいづちが打たれて、リカルドはげんな顔で従者を見返した。

「なんだ」

「別に。ただちょっかいを出したかっただけじゃないかと思いまして」

「そんなわけないだろう」

「この国に来た目的を、お忘れにならないでくださいね」

「分かっている」

 リカルドがしっかりとうなずけば、オスカーは満足した表情になった。従者は「失礼しました」と言って、また姿を消した。

【画像】

 本の内容と現実がいつしない。理沙の頭をなやます事象だったが、それからは本の通りに話は進むことになる。体調がよくなったロレンツが、今まで延び延びになっていた宝石のさいくつじよう視察におもむくことになったのだ。赴くのは二週間後に決まった。

 理沙は今度こそ、決断をせまられることになった。このままロレンツが採掘場の視察に行けば、視察帰りにさいしようが放ったぞくに殺されてしまうのだ。しかし現状として、必ずしも本の内容通りにいかないかもしれない。ロレンツは殺されないかもしれない。

 ──でも、殺されるかもしれない。

 ぎゅっと痛いほど両手をにぎりしめながら、理沙は決断した。ディルクをかいして、国王と話したいと申し出る。

 二日後ようやくえつけんの許可が出て、むかえに来たディルクと王の待つしつ室へと向かった。

 部屋に入ったたん、理沙ははっとして体をこうちよくさせた。国王の後ろに、ラードルフがひかえていたからだ。理沙の視線に気付いたのか、国王がげんよく言った。

「ラードルフにも聞いてもらおうと思って、私が呼んだのだ。宝石事業についての話なのだろう? それならば彼のかんかつだからね」

 国王にそう言われてしまえば、理沙としては頷くしかない。気持ちを切りえ、執務室に向かうまでに組み立てていた考えを話し出す。

「今度の採掘場の視察の件なのですが、ロレンツ王子ではなく、私に行かせてもらえませんか」

 想像していなかった申し出なのか、国王は目をまたたかせ、ラードルフはさっと一瞬だが表情をくもらせたように見えた。

 自分が採掘場に行く。これが理沙の出した答えだった。

 ──中途半端な決断だって思うけど……。

 だが、理沙ができる最善はこれしかない、と考えたのだ。理沙がロレンツの代わりに採掘場に行っても、彼の命が一日二日延びるだけかもしれない。それでもなにかしたい、と考えた結果だった。ロレンツにはここに来る前に事前に話をしていた。彼は自分が行くべきだと最後までうつたえていたが、理沙はなんとか説得して役目をゆずってもらったのだ。

「その……、聖女として採掘場の様子を見てみたいんです。神の加護が今もルシアンの地にあることを、確かめたいんです」

 聖女らしい物言いを意識して言うと、案の定国王が目をかがやかせた。

「それはいい! とも行ってきて、神の加護を更に強めてきてくれ。どうだろうかラードルフ? らしい案ではないか?」

 意見を求められたラードルフは、思案するように視線を飛ばした。

「ですが国王様。この視察はロレンツ王子が行くことに意味があるのでは? ようやく体調が安定した今、次期国王として国政にかかわっていただくいい機会だと思うのですが」

 言葉だけなら、国の未来を考える宰相そのものだ。しかしどうしても理沙は、ロレンツを採掘場におびき出すために言いつのっているような、穿うがった見方しかできない。

「それはまあそうだが……」

 らぐ国王の気持ちが分かり、理沙はあわてて口を開いた。

「ロレンツ王子が採掘場に行かれることは、これから何度も機会が訪れるでしょう。ですが、私はいつまでこの地にいるか分かりません。言い伝えをご存じでしょう? 最初の聖女は、いつの間にかこの国から姿を消しました」

 国王がわずかに身を乗り出し、あせった口調で言った。

「待ってくれ。そなたも消えてしまうということか?」

「それは……、神のみが知ることですから。ですからどうか、今回は私に行かせてください!」

 理沙は頭を下げた。ロレンツ王子の死をかいできても、今度は理沙自身に危険がおよぶ可能性もある。だが理沙は、あの真っぐでりよ深いロレンツを見捨てることはできなかった。

 いついなくなるか分からないと言った理沙の言葉は、国王の心に深く残ったようだった。それからラードルフがいくら言っても、国王は首を縦にらなかった。ついにラードルフも同意し、理沙は採掘場に行くことになったのだ。

 話し合いが終わり、理沙は大仕事を終えたようなろうかんを覚えながら部屋を出ようとした。すると、ラードルフに呼び止められる。

「聖女様の護衛となるを新たに組み直して、後でしようかいさせていただきますね」

「はい。よろしくお願いします」

 そこでラードルフはじっと理沙を見つめ、何気なく言葉を続けた。

「鉱山では、らくばん事故など不測の事態も起こり得ます。──どうかお気を付けて」

「は、い……」

 理沙はギクリとして、ラードルフを見上げた。ふわっとはだあわち、自分が鳥肌を立てていることに気付く。理沙の安全を願うその言葉には、まるで温度がなかった。




 きんちよういられた執務室からようやく出ると、すぐに会いたくなかった顔に出会う。

「やあ。今日もうるわしいね、聖女様」

 リカルドが、ろうかべもたかってうでを組んでいた。理沙のけいかいしんがむくむくとき上がってくる。

「君の着る服にはいつも赤と青と緑が使われている。着る服も決まってるのかい?」

 理沙は自身の服を見返した。ハンナが選んでくれた服はいつも美しいが、すそが長すぎるのが難点だ。と、気を取られたしゆんかん、足元がおろそかになってその裾をんづけてしまう。

「おっと」

 すぐさまリカルドが腕を取って支えてくれた。かわべりで初めて会った時も思ったが、すらりとしたたいに似合わず、リカルドには力がある。

「気をつけて」

「あ、ありがとうございます」

 慌ててはなれようとするが、なぜかリカルドは手を離してくれず、そのまま歩き出してしまう。

「国王の執務室から出て来たよね? なんの用だったの」

「それは……、リカルド王子には関係のないことです」

「そうそう、ロレンツ王子が宝石の採掘場視察に行くんだってね」

 理沙は表情をこわらせた。まるで執務室での会話を聞かれたようなかくしんいた質問に、リカルドへの文句がのどの奥で止まってしまう。

「そういえば」とリカルドが理沙に耳打ちする。近さにぎょっとするが、次に言われた言葉にそれどころではなくなった。

「君と出会った川辺は、採掘場に近いね」

「え?」

「知らなかった? あの川で、採掘した原石を洗ったりもするらしいよ」

 理沙はリカルドを見て、目を瞬かせた。そういえば、川辺で村人が近付いてきた時、最初に音に気付いたリカルドは「村人か、それとも採掘者かな」と言っていた。

 ──川。そうだ。私がこの世界で初めて目を覚ました場所。

 あのとき自分には意識がなかったので今まで気付かなかったが、リカルドによれば理沙は川でおぼれていたという。理沙ははっとして目を見開く。もしも。

 ──もしも川の中に、もとの世界へ帰る道があったら?

 飛び込めば、帰れるかもしれない!

【画像】

 翌日、理沙はひとりの騎士を探すべく、この騎士団の訓練場へと足を運んだ。掛け声と、けん同士がこすれ合い、打ち合う音がひびき、みなおのおのしんけんな表情で取り組んでいる。しかし理沙はその訓練場はいちべつしただけで、となりにあるきゆうけい所へと足を向けた。

 現在訓練中で、休憩所で休むたいな騎士などいるわけもなく、中はがらんとしている。しかし理沙は、休憩所の屋根にかかる小さなはしを見て目を細めた。

 ──いた……。よし、これは本の通り。

 長い裾をひざの高さまで持ち上げて結び、足を動きやすくする。それから梯子に手をかけ、登り始めた。

 屋根の上で、あおけでねむっている男がいる。理沙はその男を見下ろした。

 ──れいな赤毛だなあ。

 短めのかみあざやかでありながらい赤色をしており、理沙はピジョンブラッドという言葉を思いかべた。それはルビーの中でも最高級の色合いを表す言葉で、『はとの血』のような深い色のことだ。顔つきも整っており、リカルドやロレンツのような美しさとはちがい、な男らしさがにじんだふんがある。体つきはさすが騎士という感じで、細身ながらも筋肉がついていた。

「ザック・ハルトマンさん? 起きてください」

 毎朝五時に起きてお弁当を作り、満員電車に揺られて仕事に行っている社会人としては、仕事サボってんじゃないわよ! とりつけたい気分だがぐっとまんする。

 ザックが片目だけをあけて、声の主の姿をかくにんした。理沙の髪とひとみに視線がいくも、おどろきもすうはいするような表情もなかった。ただひたすらめんどうくさそうに、目をすがめられただけだ。

「……聖女様が何の用だよ」

「聖女じゃなくて、鈴木理沙と申します。ザックさんにたのみたいことがあるんですけど」

「断る」

「私の護衛をしてもらいたいんです」

「聞いてねえな人の話」

 ザックの受け答えは想定内だったため、理沙は押し通して言った。

 理沙は今、自分の命を守ってくれる味方をほつしていた。

 さいくつじように自分が行くと言った時、さいしようたいして理沙は確信していた。彼はちがいなく、ロレンツを殺そうとしていた。そしてそれをしようとした理沙のこともまた、敵だと認識しただろう。

 味方が欲しい、と理沙は痛切に思った。しかも、理沙の命と自分の命と両方守れるくらいに強い人間がいい。リカルドの顔がなぜかポンと頭に浮かんだが、そつこうで論外だと切り捨てた。あんな秘密だらけのなぞ王子を信用なんてできない。

 そんな理沙が考えいた味方候補が目の前にいるのだが、一向に起き上がる気配さえない。

「俺は眠い」

「あなたのお仲間は現在、訓練に明け暮れている最中ですよ」

「だから?」

 サボっているのに悪びれる様子もない。これで本当に使えない人間なら、そつこくクビだろう。しかし、彼は周りのすべてをだまらせるほどの剣の腕を持っていた。

 ザック・ハルトマン、二十六歳。近衛騎士団所属。他国でようへいをやっていたのを、ルシアンの近衛騎士団長がスカウトして、入団。しかし、上下関係は無視、命令も規律も無視、近衛騎士としてのれいことづかいもなっていないという、ないないくしの男だった。

 理沙がなぜザックを知っているのか。ザックはルシアン王国物語の本に、最初はやる気のない騎士役として出てきた男だった。しかし物語の終盤でりんごくとの戦争がぼつぱつした際、彼は自国のほこりをかけて、一騎当千の働きをするのだ。

 理沙は味方を作ろうと決めた時、ザックの名が思い浮かんだ。念のためにハンナにザックについて調べてもらうと、ほぼ本通りの人物だと分かったため、こうして出向いている。

「屋根でひるするより、有意義な時間が過ごせると思いますよ。お願いします、私の護衛騎士になってください」

「それは、命令か?」

 じっと理沙を見つめていたザックが、ひょいと起き上がった。しなやかなひようのような動きだ。

「え?」

「自分は聖女なんだから他人が従うのは当たり前だとでも思ってんのか? それとも、金を積むから命をささげろって?」

 ザックは鹿にしたような笑いを浮かべた。この言い分では、ほかにも別のだれかに護衛を頼まれたことがあるのかもしれない。そして彼らは力でもって、ザックを従わせようとしたのだ。

「俺は相手が誰だろうが、いくら金をもらおうが、気に入らない相手の護衛はしない」

 ──ああ。やっぱり彼は、思った通りの人だ。

 どんな人間にもびたりしない。だからこそ理沙は、ザックに味方になってほしいのだ。権力にも金にもなびかないからこそ、しんらいできる。

「話は終わりだ」

「えっ。まだ終わってな……」

「あんたはその黒い瞳からなみだでも流して、せきとやらを起こしてりゃいいだろ」

 ザックはもう理沙を見ることもなく、屋根を下りてどこかへ行ってしまった。


 そんな最初のかんゆうから五日がった。

 ひとすじなわではいかないことは、よく分かっていたつもりだった。

 ──しかし、敵も強敵だな……。

 理沙はぐぬぬ、と両手をにぎりしめ、もぬけのからになった休憩所の屋根をにらみつける。四日間、理沙は毎日ザックのもとに通っては、護衛騎になってくれるよう頼み込んだ。しかしその都度断られ、げられ、しつこいと怒鳴られた。五日目の今日はとうとう、昼寝の場所まで変えられてしまったようだ。会うことすらいとわれたということだろう。

 ──どうしよう。こんなことしてたら、あっという間に視察の日になってしまう。

 どうすれば、あのいつぴきおおかみで権力アレルギーのような人間の心をとらえられるのか。

「あ!」

 そうだ、と理沙はひとつの案を思いつく。そのまま足早に王宮にもどり、準備を始めた。




「これを読んでください」

 理沙は目の前で最高潮にげんそうなザックに、一枚の紙をきつけた。

 部屋でとある用紙を作成した理沙は、休憩所の横を歩いていたザックを待ちせして、とっつかまえていた。

「あ? なんだよこれ」

「いいから目を通してください」

「……『護衛騎士におけるよう条件』?」

「そう。私があなたをやといたいから、そのための条件を提示しますってことです。よく読んで、分からないところ、なつとくできないところは言ってください」

 ザックは変なものでも見るような目で理沙を見つめ、また紙に視線を落とした。

 理沙が提示した条件は以下の通りだ。


『採用年月日・本日より

 雇用期間・本日より一か月間(延長あり。なお、雇用主が王宮を去った場合はその時点まで)

 職種及および業務内容・雇用主の護衛

 勤務場所・王宮、採掘場、並びに雇用主のおもむく場所にずいこうのこと

 勤務時間・週五日 午前八時三十分から午後五時十五分まで(休憩時間一時間含ふくむ)

 その他・残業手当、危険手当はべつ支給』


「本給については、近衛騎士のいつぱん的なお給料から算出します。安くはないはずです」

 このお金に至っては、理沙は国王に頭を下げた。そして近衛騎士団の主である国王に、一時的だが護衛役に引き抜くことも許可をもらった。国王は丁度護衛役は付けるべきだと考えており、すべて必要経費だと言ってくれた。お金を用意できない自分は情けないが、仕方ない。

 条件は整えた。あとは目の前の男の、説得のみである。理沙は息をいて、言った。

「本当の忠誠って信頼関係から生まれるものだし、それをいするつもりはありません。だから私はあなたの雇用条件を保証します。これは命令でもこんがんでもありません、おたがいが納得したうえでわすけいやくと考えてください」

 ザックは紙から顔を上げた。

「四六時中命をけろなんて言いません。一日七時間四十五分、護衛をしてほしいんです」

 めんらったような顔になったザックは目をまたたかせた。

「あんた、すっげえ変わってるな」

「私はただのへいぼんな社会人です! まあ、ここじゃ変な人なのかもしれないけど」

「他の騎士にこんな勧誘の仕方したら、騎士道のぼうとくだって言われるぜ」

「分かってます。でもあなたは言わないでしょう?」

 ザックが口をつぐんだ。互いの心をさぐり合うように、二人の視線がこうさくする。

「騎士っていう大きなくくりじゃなく、あなたという人間個人を捉えて考えてみました。どうですか? この提案にのる気はありますか?」

 ぐっとあごを持ち上げて、せいぜいゆうがあるように見せて聞く。本当は心臓がバクバクいっていた。これで断られたら、もう打つ手がない。

「……いいぜ」

「えっ」

「権力とか忠誠とか、ごちゃごちゃしたのはナシってことだろ。おもしろそうだし、やってやるよ」

 ザックは理沙の作った雇用契約書を、ピンと指ではじいてにやりと笑った。

 理沙は内心小おどりしそうな心をなだめ、こちらもふふんと笑ってやる。

「契約成立ですね、ザック・ハルトマン。七時間四十五分、私のけんになってください!」

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