一章 異世界に降り立つ聖女 ②

 目が覚めた時、最初に目に入ったのはてんじように描かれた天使の絵だった。

 理沙は「ああ」と深く息をき、両手で顔をおおった。じやな天使の笑みを見ても、少しも心はいやされない。

 ──まだいる。私、今日もこの世界にいなくちゃいけないんだ。

 理沙が王宮に連れてこられて、すでに三日が経っていた。

 夢だ、これは夢なんだと言い聞かせて、昨日もその前日もいのるようにベッドに入った。しかしどの朝も見慣れた自分の部屋の天井ではなく、ごうてんがい付きベッドの天井にほどこされた天使の絵がむかえる。

 理沙はのそりとベッドからい出た。うすいレースのカーテンを開けると、三ツ星ホテルのスィートルームさえかすみそうな、豪華すぎる調度品があふれた部屋が現れる。聖女だという理由で、こくひんまる部屋を提供されたのだ。ごこが悪すぎて仕方ない。自分のせまいワンルームの部屋がなつかしかった。

 ──仕事を三日間も無断欠勤して、職場はどうなっているだろう。月末までにまとめないといけない報告書があるのに。けいたいも持っていないから、れんらくのとれないことに家族だって絶対心配している。

 理沙は広いテーブルの一番隅すみの席にちょこんと座って、息を吐いた。夢と言い張るには、長い時間がちすぎている。テーブルの上には、昨日広げたままの本が数冊置いてあった。ルシアン王国の歴史書と地図を貸してもらうようたのんだもので、昨日はおそくまで本を読んでいた。

 もしこれが夢でないとして、次に考えたのはここが地球上のどこかの国である、ということだった。世界にルシアン王国という国があるなんて聞いたことはないが、万が一ということもある。どうか万が一の、実在する国であってほしかった。地球上にあってさえくれれば、帰ることだって可能だからだ。

 ──結果、望みは打ちくだかれて、ショックでベッドにたおれ込んだわけだけど。

 理沙は昨日の夜見て絶望した地図を、もう一度見返した。見たことのない形の大陸の中で、のがしそうなほどの小国がルシアン王国だった。大陸も周辺の国も、聞いたこともないものだ。理沙の知る現実の世界ではないと、はっきりきつけられた。

 ──でもだったら、どうして私は言葉が通じるの?

 この世界に来てから、次々飛び込んでくる出来事を受け止めるだけで精いっぱいで、ここ二日でようやくそんな基本的なことに思い至っていた。話す言葉だけでなく、今読んでいる本も、理沙には日本語で書かれているように見える。

 ためしにディルクに聞いてみると、理沙はルシアンの公用語を話しているときようがくの事実が返ってきた。そんなはずはないとめ寄っても、ディルクはまどったような顔をするだけだった。

 ──まさか、言葉が通じることが聖女の能力だとでも言うの?

 その後も、理沙は帰る方法を見つけるために、聖女の伝説が書かれた本など読みあさった。しかしいまだ、方法は見つかっていない。

 その時、タイミングを見計らうかのようにノックがされ、理沙が「はい」と声をかける。

「聖女様。おはようございます。朝食の準備ができましたので、運んでよろしいですか?」

 おだやかな笑みをたたえて、食事の乗ったワゴンを押してきたのはハンナというメイドだった。

 理沙より三つ上のハンナは、げ茶色のかみを美しく巻き上げ、同じ色のひとみやさしげに細めている。理沙の身の回りの世話をしてくれ、理沙が読みたいと言った歴史書などを用意してくれたのも彼女だった。

「ハンナさん。おはようございます」

 理沙が言うと、ハンナは困った顔で首をかしげる。

「聖女様。私に敬語を使う必要はございませんよ。名前も呼び捨てていただいて結構です」

「そんなれいらずなことはできません。あと、私のことは理沙と呼んでください」

 三日経っても、周囲から聖女と呼ばれることに強いていこうを感じる。自分はただの人間の鈴木理沙なんだと、もはや意地もあって「理沙と呼んでほしい」と言っていた。

「あら。私こそ、聖女様にそんな礼儀知らずなことはできませんわ」

 今度は理沙が困った顔になる。その顔が可笑おかしかったのか、ハンナが口元に手を当てて小さく笑った。「分かりました、リサ様」と言うハンナは、悪戯いたずらが成功したような顔だ。しかし子供のような表情とは裏腹に、仕草のひとつひとつがとして品がある。ちょっぴり意地悪なことを言う時ですら、その雰囲気はそこなわれなかった。

「それでお勉強ははかどられましたか?」

 食事をテーブルに並べながら、ハンナがわきに積んである歴史書や地図に視線を投げた。

「あ、はい。貸してくださってありがとうございます。それであの、ハンナさんにお願いがあるんです」

「なんですか?」

「私、この国のことをもっと知りたいんです。とりあえず城で働いている方と、お話ができませんか? よかったら協力してもらいたいんです。あっ、でもハンナさんがいそがしいのであれば私一人でやりますから」

「まあ! 我が国の現状をお知りになりたいと思ってくださっているんですね。そういうことなら、もちろん協力させていただきます」

 ハンナは感激したおもちでけ合ってくれた。理沙の胸がちくりと痛む。理沙はこの国を救うために話を聞くのではない。この国から帰る方法をさぐるために聞くのだ。本を読んで分からないなら、だれかに聞くしかないと考えてのことだった。こんなにも自分のことしか考えていないのに『聖女』だなんて、なんのじようだんかと思う。

 ──ホントの聖女様だっておこってるよ、きっと。

 そんなことを考えていると、視線を感じた。ハンナが、理沙の右手をうっとり見つめているのだ。

「ああ。指輪ですか?」

 理沙は右手を持ち上げた。薬指には、0・17カラットのダイヤモンドがセッティングされた、プラチナリングがはまっている。給料三か月分とまではいかないが、理沙としてはかなり思い切った買い物だった。仕事にもようやく慣れてきた二十四歳の誕生日に、自分へのごほうで買った。それに、ダイヤモンドは理沙の誕生石でもあるのだ。

「こんな宝石は見たことがありません。さすが、聖女様の指輪ですわね」

 ハンナの言葉通り、ルシアンでダイヤモンドはさいくつされていない。色のついていない宝石とカット技術を初めて見た国王もおどろき、理沙が聖女であるとさらに確信を深めてしまった。

 美しいダイヤモンドは、しかし見る人間の心理状態がえいきようするのか、いつも見るよりかがやきが薄い気がする。理沙は無意識にリングの部分を指ででた。これだけが、理沙と元の世界をつないでくれる物のように思えた。




 それから丸一日、理沙はハンナのしようかいで城の様々な人達と話をした。特に興味深かったのは、ハンナと同じメイド達の話と、王宮にある図書室の司書の話だった。

 司書は、今のルシアンの現状を分かりやすく教えてくれた。国の収入の三分の一をめている宝石事業は、現在採掘量が年々減ってかげりを見せ始めているらしい。そんな中でむちつようなこくな労働に、採掘者はへいしていた。追い打ちをかけるように近年は農作物も不作で、人々は不安におちいっている。

 更に、王宮では別のおんかげもある。メイド達がこっそり教えてくれたのはこうけいしや問題だ。たった一人のあとぎであるロレンツ王子が病弱なのは、貴族達の中でも不安視されていた。

 理沙は息を吐く。どれも聞いたことがある話だ。ルシアン王国物語に書いてあった通りの現状。信じられないがやはり自分は今、本の中の世界にいるのだ。

 ──しかも、『聖女』として現れることになるなんて……。

 ルシアンのきゆうじようの中に、とつじよとして現れた黒目黒髪の人間。疲弊した国を救ったとされる伝説の『聖女』に重ね合わされた理沙は、多大な期待を持たれて王宮にむかえられた。今はまだ、国賓のような位置にいて、王宮で休んでほしいと言われているだけだが、当然ながらそれで役目が終わるわけではないだろう。人々は理沙に、国へのけんしんを、そしてせきを願っているのだ。

「あ、ありえない……。へいぼんな事務員に、奇跡なんて起こせるわけないのに」

 ぶつぶつ言いながら、広いろうを歩く。司書から話を聞き終わって、自分の部屋にもどる最中だった。

「──おや。聖女様ではありませんか」

 しっとりと落ち着いた低音が背後にかかり、理沙はり返った。どうようかくしてなんとか平静を装い、みをりつかせる。

 ルシアン王国のトップ2であり、宝石事業のすべてを取り仕切っているさいしよう、ラードルフ・ヴァン・ハークが目の前に立っていた。理沙を見てにこやかに微笑ほほえむ。

「王宮に来てからずっとお部屋にこもられていて、心配しておりました。なにか不安に思うようなことがあれば、えんりよなくおつしやってくださいね」

 態度も言葉もその表情も、しんに理沙を心配してくれているように見える。実際、王宮内でのラードルフの評判は悪くないのだ。理沙は本を読んでいるからこそ彼の悪行を知っているが、現時点でラードルフに不穏なおもわくがあるなど気付いている人間はいないはずだ。今の宰相は表向き、ひたすら王の味方で、献身的にくしているように見える。

「部屋に籠っていたのは少々体調をくずしていたからで、もうだいじようです。おづかいありがとうございます」

 当たりさわりのないことを言って、とにかく退散しようとする。ラードルフは引き止めるようなことはせず、にゆうな顔で理沙を見送った。かんぺきな笑顔と態度。だがそのアレキサンドライトの瞳は、常に理沙を探っているように思えて仕方ない。背中に突きさる視線からのがれるため、理沙は足早に廊下を進んだ。

 部屋に戻った理沙は、今度は休む間もなくハンナの訪問を受けた。

「実はリサ様にお会いしたいと仰っている方がいるのですが……」

 開口一番そう言うハンナに、理沙は「誰ですか?」とたずねる。

「我が国の王子、ロレンツ・フェル・エドゥアルト様です」

 理沙は体をこうちよくさせ、ハンナを見返した。

 ロレンツ王子。それはルシアン王国のゆいいつ王位継けいしよう者であり、先ほど会った宰相が、近い将来、策をめぐらせて殺してしまう人物だった。




 ロレンツ王子の部屋は、日当たりのよい西側の角にあった。

 とびらの前には警備しているがおり、理沙とハンナの姿を認めると、扉を開けてくれる。

 扉の先には、二人のメイドがそろっていた。どうやらふたらしく、きようしんしんに理沙を見つめる瞳までもがうりふたつだ。

「ようこそおいでくださいました! 聖女様!」

「どうぞこちらへ! お茶の準備をさせていただきました!」

 片方の言葉を繫ぐようにしてもう片方が口を開く。双子はそわそわと落ち着かない様子だったが、急に部屋の奥に向き直ったと思ったら、二人ぴったり息を揃えて呼びかけた。

「ロレンツ様! 聖女様がいらっしゃいましたよ!」

「……レーアもレーナも、少し落ち着いて。聖女様が驚いてしまうよ」

 おだやかな声とともに、一人の少年が部屋の奥から現れた。

 ──わあ。美少年……。

 理沙は目を丸くして、目の前の整ったようぼうの少年を見つめる。かたまであるやわらかそうなきんぱつは、緑色のかざひもで後ろに結ばれていた。深緑のひとみは、幼さとりよ深さが同居しているようで、理沙を見て目を細めている。

 ──エメラルドみたいな瞳。みがかれ始めたばかりの、原石に近い色に似てる。

 理沙がそんな感想を内心抱いだいていると、ロレンツが胸に手を当てて軽くこしを折った。

「初めまして。ルシアン王国王子ロレンツ・フェル・エドゥアルトと申します。お会いできてとても光栄です」

 まさに気品漂ただよう王子そのものの振るいに、理沙も居住まいを正して頭を下げた。

「初めまして。鈴木理沙と申します。私もロレンツ王子とお会いできて光栄です。でも聖女ではなく、理沙と呼んでくださるとうれしいです」

 理沙の言葉にロレンツは目をまたたかせ、嬉しそうに笑った。

「リサ様とお呼びしてよろしいんですか?」

お願いします。そちらの双子のメイドの方も、理沙と呼んでくださいね。あ、お名前も知りたいです。レーアさんと、レーナさん?」

 理沙が首をかしげると、双子は興奮したように「きゃあ!」とほおに両手を当てて飛び上がる。

「聖女様に名前を呼んでいただけるなんて! どうしよう、夢みたい!」

「夢よ! そうに決まってる! でもとても光栄だわ!」

 双子はそう言って喜んでくれたが、なにかに気付いたのか困った顔でたがいに顔を見合わせた。

「ですがリサ様。私達双子の顔を見分けるのは至難のわざですわ。両親とロレンツ様以外、当たったことがございませんの」

 確かに双子は顔も声も体型もよく似ていて、例えば黒子ほくろなど一見して見分けられるとくちようはなかった。服装も同じなので、ますます瓜ふたつだ。

「私達はひとりだと思って、レーアでもレーナでも、好きなようにお呼びくださいませ」

「とんでもない。そんなことはできません」

「リサ様。ご無理はなさらないでください。僕も見分けるのに時間がかかりましたし」

 ロレンツも言いえるが、理沙は首を横に振った。

「無理してるわけじゃありませんよ。うーん、そうですね……」

 理沙は、自身のむなもとを飾っている百合ゆりの飾りを外した。それを双子の片割れにつけて、尋ねる。

「お名前は?」

「え、っと、レーアです。レーア・フェヒトと申します」

 今度は百合の飾りをしていない方に「そちらのお名前は?」と聞いた。

「レーナ・フェヒトです、リサ様」

「では今日は、この胸元の花ので名前をお呼びします」

「リサ様、本当によろしいんですよ。私達はどちらの名前でもこたえますから」

「でも、名前をちがえて呼ばれたら悲しくなるじゃないですか。どちらもてきな名前だし、ご両親からいただいたんでしょうから。大事にしないと」

 そう言うと、双子は互いに顔を見合わせて、それから「ありがとうございます、リサ様」と嬉しげな笑みを見せる。それをながめるロレンツもまた、やさしい顔になった。ハンナにいたっては、なぜかほこらしげな顔になっている。

 それからロレンツは理沙をティーセットの用意できたテーブルへと招き、お茶会が始まった。

「すごい本の数ですね」

 お茶を飲みながら、理沙は部屋に置かれた大きなほんだなを見つめた。すきもないほどに本が収められている。すべて読んでいるのだとしたら、相当な読書量だ。

 ロレンツは自身をじるように視線を落として言った。

「幼いころから体が弱くて、ベッドでできることといったら読書しかなかったんです。本の中でなら、どんなぼうけんだってできるのが嬉しくて」

 理沙は大いに共感してうなずいた。ロレンツとじようきようは違えども、理沙が毎晩本を読むのと理由は同じだ。それは本が持つ無限の可能性だった。

「僕はその……、救国の聖女にずっとあこがれを持っていたんです」

「憧れ?」

 ロレンツが少しだけ照れたように、組んでいた両手に視線を落とした。先ほどまでの大人びた様子が一転して、年相応の少年らしさがかいえる。

「聖女の伝説を読んだ時も、とても心を動かされました。彼女はただのむらむすめだったんです。でも立場がなんであれ、国のために自分の身をささげようとした。国を愛する心には、なんのへだたりもないんだと思い知らされました。大切なのは思いの強さと、それを実行する力。その姿に、僕もがんらなければと思えたんです」

 理沙はルシアン王国物語を思い返す。ロレンツ王子は幼少から体が弱く、そのせいで今も王位継承者としての立場を不安視されている。だれよりも一番、それを実感していたのは本人だろう。思う通りにならない体を、どんなにもどかしく感じていたのだろうか。

「それから少しずつ、体を動かすようになりました。散歩とかからですけど……、今はけんじゆつも少しずつ取り入れていて。体力と技術を付けて勉強して、立派な王になろうと思っています」

 双子がロレンツの言葉に大きく頷いた。この年若い主人を大切にしているのだろう。

「僕は聖女をとても尊敬しています。今こうしてお会いできて……、本当に嬉しいんです」

 きらきらとかがやく瞳が、理沙に向けられる。しようしながら、やんわりと首を横にった。

「それは私ではありませんよ」

「いいえ。あなたは聖女です。僕が本を読んでずっと想像してきた通りの、優しい方だ」

 真っぐな賛辞をおくられて、理沙は困ってしまった。ロレンツがしたってくれるような聖女でないことは、理沙自身が一番よく分かっている。

 理沙のまどう姿を見て、ロレンツはそっと言い添えた。

「こんな話をするのはこの部屋でだけですから、どうかお許しください。病弱だろうが、僕はこの国ただひとりの王子です。王子が聖女にあまりにもけいとうしているとなれば、周りにどう利用されるか分かりません。公的な場面では、適切なきよで対応しますから」

 理沙は目を丸くし、目の前の人物への印象を改めた。きちんと自分の立場が分かっていて、周りに対して公平でいようとしている。ものごしていねいで穏やかで、人を引っ張っていくけんいん力こそまだないものの、成長すればいい国王になれるのではないだろうか。

 でも、彼はもうすぐ死ぬ。

 心の隙間に入り込んできたその言葉は、冷たくするどく理沙の胸をえぐった。ルシアン王国物語の通りであれば、ロレンツ王子はさいしようの策によってぞくに殺されてしまうのだ。

 ──今、警告のつもりで本人に言ってしまおうか?

 そんな考えが頭をぎった。あらがいたいりよくを感じるが、また別の不安が押し寄せてくる。

 ──でも、本当に本の通りに話は進む? そもそも私自体の存在がイレギュラーなのに。

 ルシアン王国物語に、言い伝え以外で聖女が現れたという記述はいつさいないのだ。

 ──それに、私はこの世界の人間じゃない。いつかは絶対帰る。部外者が無責任に口出ししていいことなの? 未来を教えて、状況がさらに悪化する可能性だってある。

 様々なかつとうが頭の中をめぐり、理沙はどうしていいか分からなかった。考えにがんがらめにされて、身動きがとれない。

「リサ様? どうかしましたか? あ、おつかれになりましたか?」

 ロレンツが心配そうに理沙を見やる。計算などない、じゆんすいな慕わしさのこもったまなしが向けられた。──彼を死なせたくはない。目の前の少年のため、自分ができることはなんなのか。

 今の理沙に、答えは出なかった。


 翌朝、理沙はハンナに手伝ってもらって鏡の前でたくをしながら、今日の予定について考えていた。ロレンツ王子と話したことで、みようあせりのようなものが広がっていた。

 ──早く元の世界に帰る方法をさぐらないと。自分でもどんな行動をしてしまうか分からない。

 その時、バタバタとろうから音がしてきたと思うと、とびらがやや性急にたたかれた。

「聖女様はいらっしゃいますか」

 扉を開けて入ってきたのは、王家の使者として理沙をむかえに来たあのディルクだった。冷静でおだやかな彼らしくなく、息が上がっている。

「朝の支度中に申し訳ございません。国王様がお呼びですので、えられたら玉座の間までおしください」

「玉座の間? どなたかこくひんの方がいらっしゃっているのですか?」

 ハンナが首を傾げた。彼女の話によると、玉座の間とは国賓や他国の大使などとえつけんする部屋らしい。

「ああ。キンバリー王国の第一王子であられるリカルド様が、本日我が国を訪問された。当分の間、勉学のためにたいざいされる。それは前々から決まっていたからいいのだが、リカルド様が急に聖女様にお会いしたいとおつしやられて……。ハンナ、分かっているな。聖女様のおし物は任せたぞ」

「まあ! それは大変ですわ。承知致いたしました」

 最後のディルクとハンナの会話はもう聞いていなかった。ただひとつのことだけが理沙の頭をぐるぐると回る。

 ──ちょっと待って。キンバリー王国? 第一王子? そんなの本に出てこなかったのに!

 ルシアン王国物語の本に登場する他国は、最後にルシアンをほろぼそうとするブランドルだけだ。キンバリー王国などという国名は、全く出てこないはずだった。

 心の中が一気にきようこう状態になる。しかしそんな理沙の内心など知らず、ハンナはぎわよく服を着替えさせて聖女の姿を作り出した。

 正直こんなことをしている場合ではないし、王子になど会いたくもないと言いたいが、言えない。なんの予備知識もないまま、ディルクに連れられて玉座の前へと向かった。

 これまたじゆうこうそうな木の扉の前にはが二人いて、物々しく扉を開けてくれる。

「聖女様が参られました」

 ディルクの言葉に、部屋にいた人々の視線がいつせいに向けられた。中には三十人程ほどの人々がひかえている。

 そして理沙の目の前には、映画で見たような玉座が二つ並んでいた。この国をしようちようするがごとく、三つの宝石があしらわれたごうすぎるだ。

 その椅子に座っているのは、一人はルシアン王国の国王。そしてとなりの椅子にこしけているのは、年若い青年だった。

 青年と目が合う。

「あっ」

 こぼれるように声が出たが、小さくて周囲には聞こえなかったらしい。だが、目を合わせた青年だけは理沙が口を開いたことにすぐさま反応した。

「あなた──」

 青年が椅子から立ち上がり、わきもふらずに理沙に近付いてくる。ゆうだがしっかりとした足取り。みがきぬかれたサファイアのひとみが、数日ぶりに再び眼前に現れた。

「あの時の……」

「──初めまして。キンバリー王国第一王子、リカルド・フリードリヒ・デ・バシリウスと申します。救国の聖女にお会いできるなんて、私は幸運ですね」

『初めまして』。その言葉の真意をさとり、理沙は言いかけた台詞せりふを飲み込んだ。青年、リカルドは理沙の態度に満足げに目を細め、甘く感じるほどのみをのせる。

「貴国に聖女が現れたと聞いてはいましたが、本当にめずらしい色をしていますね。くろかみと黒い瞳を持つ者は、我が国キンバリーにもいない。周辺諸国でも聞いたことがありません」

 さも今初めて見たとばかりに首をかしげるリカルドに、理沙はなにも言わないが反発心がむくむくとき上がってくる。

 ──かわべりで、同じように黒髪黒目にげんきゆうしたのに。

 そう、リカルドはおぼれていた理沙を助けてくれた、あの『なぞの男性』だったのだ。

 どういうつもりでしているのか。わくの顔で自分を見つめる視線に気付いても、リカルドは素知らぬ顔で見返すだけだ。

「こんなに美しい聖女なら、我が国にも来て欲しい。連れて帰ってもいいですか?」

 言うなりリカルドは、理沙の手をすくうようにして持ち上げ、優雅な仕草でこうに口づけた。最後の台詞はその場にいる国王や家臣達に言ったのだろう。その場が一斉にざわめく。

「リカルド王子。おたわむれはおやめください。聖女はルシアン王国の宝とも言うべき存在です」

 国王の弱り切った声がひびいて、リカルドは「じようだんですよ」とさわやかに応じた。

 しかしリカルドは手をはなすことはせず、理沙を甘い眼差しで見つめながら更におどろくべきことを言った。

「だが、美しいと思ったのは本当です。こういうのをひとれっていうのかな」

「──はい!?」

 リカルドのばくだん発言に、理沙は素っとんきような声を上げたのだった。

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