一章 異世界に降り立つ聖女 ①

 金曜日の午後七時。せまげんかん口でするりとヒールぐついで、すずは自宅であるアパートの部屋へと帰宅した。

「ただいま。はあ、つかれたー!」

 かばんをダイニングテーブルに置いて、すぐさま動きやすい部屋着にえる。それからメイクをささっと落としてしまうと、体がほんの少し軽くなった気がした。鏡に映ったのは、一週間の仕事を終えてちょっぴりくたびれた、二十五歳の社会人たる姿だ。

 お仕事仕様でひとつに結んでいたくろかみを解くと、ふわりとかたまで流れる。二重の大きな瞳は、理沙のへいぼんな容姿においてゆいいつほこれるところだ。

 夕飯を食べ終えて、シャワーを浴びる。すべての準備を整えた後、理沙はお気に入りのソファに座った。鞄からいそいそと一冊の本を取り出す。自宅に帰るちゆうに寄った図書館で借りてきたものだ。

 ページを開いたしゆんかんから、理沙の至福の時間が始まる。

 座りごこのいいソファで、胸が切なくなるようなれんあい小説や、ワクワクするようなぼうけんたんを読むのが、理沙の日々のいやしだった。

「さて! 今度の本はどんな感じだろう……?」

『ルシアン王国物語』。それが今回選んできた本の題名で、じゆうこうな茶色いかわびように、金字で打たれている。題名からも察せられるように、この本は『ルシアン王国』というくうの国の一代記のようだった。ルシアン王国は宝石を産出する国らしく、本文に『宝石』という単語が多く散見する。この単語にかれたのが、本を借りてきた理由だ。

 理沙は宝石がとても好きで、身近な存在でもあった。ちらりとテレビの横に置かれたほんだなに視線をやる。いつぱん小説に混じって、宝石関係の本がいくつも並んでいる。

 理沙の仕事は、総務課の事務員。働く会社は、大手のジュエリーブランドだ。幼いころからキラキラした物が好きだった理沙は、おもちゃのアクセサリーを買ってもらうのが一番嬉うれしかった。大事に宝箱に入れて、いつまでもうっとりながめているような子供だった。

 大人になっても好きな気持ちは変わらず、宝石関係の仕事にこうと決意した。

 しかし理沙には、ジュエリーのはんばい員になれるようなすぐれた社交性も、職人やデザイナーになれるような器用さも独創性もなかった。ひとつだけ得意なことがあるとすれば、コツコツ同じことを続ける根気強さ。そこで理沙は、事務員という仕事を見つけた。

 宝石を直接取りあつかうことはないが、理沙の仕事があるからこそ、社員達はジュエリーの事業を安心して進めていける。だから理沙は、総務課の事務という仕事に誇りを持っている。

 本棚から目の前の本に視線を戻すと、理沙はじっくりと『ルシアン王国物語』を読み進めていった。

 数時間後。すべてを読み終えて、理沙は物語のいんしむようにゆっくりと本を閉じた。

 ──最後はつらい話だったなあ。

 架空の世界ルシアン王国の一代記。語り手は国王の従者だ。国の成り立ちと救国の聖女の言い伝え、宝石事業で豊かになっていくこうりゆう期、やがてすい退たいしていくしゆうえんまでを記している。

 理沙が最も心を痛めたのは、やはり物語のしゆうばん部分だ。

 ルシアン王国には、ゆいいつ王位継けいしよう者であるロレンツ王子がいるのだが、宝石事業などの国家事業はさいしようが取り仕切っている。

 この宰相というのが大層な悪人で、さいくつした宝石をみつに売りさばいて私腹を肥やしていたのだ。採掘場のかんきようれつあくで、採掘者達は休む間もあたえられず働かされていた。さらに宰相は、王国を自分のものとするため、病弱な王子ロレンツを暗殺しようとたくらみ実行する。宝石の採掘視察から帰る途中の王子を、ぞくを装って殺してしまうのだ。

 宰相は何食わぬ顔で、むすを失いたんに暮れる国王に寄りい、じよじよに権力を自分に移しえていった。国王は弱り、宰相の手によってルシアンの政治ははいしていく。更にりんごくブランドルがめてきたことで戦争がぼつぱつ。やがて国王の死で、宝石によってかがやいていたはずの国が幕を閉じた。

 ──国を守るはずの宰相がこんなことするなんて、王子もルシアンの人達もかわいそう。

 悲しい物語に心が引っ張られ、ずんと気分が落ち込んでしまう。仕事終わりに読むのには、少々重い内容の本であったことはいなめない。

 理沙はためいきいて、ソファにころがり目を閉じた。

 ──ああでも、ルシアンの宝石ってどれほどれいなのかな。とても大きな原石も採掘されるって書いてあったし、いいなあ。見てみたいなあ。

 そんな風に夢想していると、仕事の疲れがまっていたのか、すぐにねむおそってくる。

 ──ダメダメ。ここで寝ないで、ちゃんとベッドに行かないと……。

 ていこうむなしく、理沙はあっという間に眠りの波にさらわれた。


 息が苦しい。

 とうとつにそう思い、酸素を取り入れるため喘ぐように口を開く。しかしのどの奥に何かがまっているような感覚で、息を吸うことも吐き出すこともできない。

 パニックになって喉をきむしった瞬間、不意に呼吸が楽になった。意識がはっきりとじようして、理沙はまぶたを開く。

 まず視界に飛び込んできたのは、深い青色。みがきぬかれたサファイアのようだといつしゆんれ、それが目の前にいる青年の瞳だと分かると、今度はその近さに目を見開く。鼻先がれ合いそうなほどのきよで、理沙は見知らぬ青年と顔を見合わせていたのだ。

「な、……っ、ごほっ」

 おどろきで上げた声は声にはならず、苦しげなせきだけが喉から出てくる。その時になってようやく、自分が固い地面にあおけになっていたことに気付いた。しかも全身がずぶれで、体がひどく重い。青年はそんな理沙の横にひざをついて、づかわしげにこちらを見ていた。彼もまた濡れていて、髪からいくつもしずくを落としている。

 青年は、理沙の背中を支えるようにして、そっとき起こしてくれた。

「──ゆっくり呼吸をしてごらん。もうだいじようだから」

 よく通る低音が耳に心地よく、理沙はとりあえず言葉に従ってしんちように深呼吸した。

 理沙が落ち着いたのが分かったのか、青年があんしたようにほんのわずか表情をやわらげる。そんなさいな変化に目をうばわれてしまうほど、整った容姿の青年だった。

 星をまぶしたようなぎんぱつは、水に濡れているが絹糸のようなこうたくを放っている。宝石を思わせる青い瞳の中には、かくしきれないこうしんのぞいているようだ。

「川でおぼれていたのを見つけた時は驚いたよ。どこか痛いところはない? 見たところはしていないようだけど」

 まだ少し頭がぼうっとしているが、とにかく聞かれた質問に答えようとする。

「怪我は……、ない、と思います。痛いところも、ない……」

「そう。よかった」

 ふっとやわらかく微笑ほほえまれる。切れ長のひとみうすくちびるは冷たい印象を与えるが、表情がのるとたんに色づいて見えた。

 まじまじ見ていたのが分かったのだろう、青年がおもしろがるように口元を引き上げた。

「その大きな黒い瞳で見つめられると、なんだか吸い込まれそうだ」

「あ……。ぶ、しつけに見てしまってごめんなさい」

「非難しているわけじゃない。君の瞳が綺麗だって話だよ」

「…………」

 見目のいい男性とは、背中がむずがゆくなるような台詞せりふを言っても様になるらしい。

めずらしい色の目だね。かみもそうだ。黒色なんて生まれて初めて見たよ」

 あなたの瞳と髪色の方が、日本では珍しい──、言いかけてはっとする。青年の容姿のたんれいさに気を取られていたが、彼は明らかに日本人ではない。しかもよく見れば、服装も変だった。あえて言うなら、とうおうの国を連想させるような服装だ。白いシャツに黒いズボンで、銀糸でていねいしゆうがされていた。せいひんには見えない、った作りのみつさを感じる。そして青年の足元には、使い込まれたように見えるけんが、さやに入って置かれていた。

 変だ。目の前の青年も、ずぶ濡れで地面に寝ていた自分もすべてがおかしい。ここは……。

「ここは、どこ?」

 自然と疑問が口をついて出た。

 そうしてようやく思い至ったように周囲を見回した時、理沙は目の前の風景にぼうぜんとした。

「な、なにこれ」

 理沙の背中越しにははば三メートルほどの川が流れており、周囲はうつそうとした木々で囲まれている。のうこうな土のにおいとさわやかな草木のかおりがおそまきながら鼻をついて、眠る前までいたはずの自分の部屋との落差に頭がくらくらした。

 頭上で照っている太陽は丁度真上にあって、全身ずぶ濡れの服や髪もすぐにかわきそうなほどの強い日差しだ。

 あり得ない、と理沙は思う。自分は確かに、部屋で眠っていたはずだ。眠っている間にだれかにここに運ばれて、その間に昼になっていたとでもいうのか。

「ルシアン王国」

 唐突に青年が口を開いた。

「え?」

「ここはルシアン王国の東部に位置する、クラウゼンという村の外れだ。地名を聞いても、聞き覚えはない?」

「はい。全く……」

 いや、ちがう。答えてからはっとして思い出す。ルシアンという国名は知っている。眠る前に、そのタイトルの本を読んだばかりだ。しかし、だからといって……。

 理沙はもう一度深呼吸し、混乱する頭を整理してから断じた。

 ──分かった。これはあれだ、夢だよ。夢を見てるんだ、私!

 このじようきようを説明できる理由はこれしかない。しかし水に濡れたかんしよくも、背後から聞こえる川のせせらぎも、目の前の男性が背中に添えてくれた時の手の温かさも、あまりにリアルだった。

「なぜ川で溺れていたのか、自分がどこから来たかは分かる?」

 自分の部屋で寝ていたのに、気付いたらずぶ濡れで地面に寝ていた。そんなこうとうけいな話を、鹿正直に話していいものか迷う。理沙が言いあぐねていると、青年が質問を変えた。

「自分の名前は言えるかい?」

「鈴木理沙です」

「スズキ・リサ? 変わった名前だ。着ている服も変わってるし。なによりその瞳と髪の色だ。君を見て、この土地の人間だと言う人はいないだろうね」

 なにもかもかすような青い瞳でじっと全身を観察されて、理沙はごこ悪く身じろぎをした。しかし、青年のこめかみから水が流れ落ちたのを見てはっとする。

「あの。私、川で溺れてたんですよね? それであなたが助けてくれた?」

「そうだね」

 理沙は居住まいを正し、頭を下げた。

「助けてくださってありがとうございます。お礼が遅くなってごめんなさい」

 青年は笑ってかたすくめた。

「気にしなくていいよ。無事ならそれでいい」

「えっと、お名前をうかがっても?」

「それって重要なことかな」

「えっ? あー、そうだ! あなたはここの土地の方なんですか?」

「どうだろう。そうかもしれないし、違うかもしれない」

「…………」

 にこにこ微笑む青年を見て、理沙は口をつぐんだ。さすがに分かる。彼は自分のことを話したくないのだ。つかみどころのない人だな、と内心で思う。しん的で善良に見え、どことなく気品がある。だがその一方で他人の反応を面白がっている節があり、子供のような好奇心に満ちたまなしの奥で、ひどくれいてつに観察されているような気分にもさせられる。

「分かりました。あなたは私を助けてくれた、とても親切ななぞの男性ということにしておきます」

 理沙がそう言うと、青年はちょっと目を見開いた後、「いいね、それ」と楽しそうに笑った。どうやら理沙の言い回しが気に入ったらしい。

「でも君の方こそ謎だ。見たことのない外見をした、黒い瞳が美しい謎の女性」

 また背中がむず痒くなった。自分のことを話されているような気がしない。

「さて。これからの問題だけど、君をどうすべきか考えないと」

 青年がうでを組んで、理沙を見つめる。しかしすぐにまゆを寄せたかと思うと、木々の間のしげみへと視線を走らせた。つられて理沙も目を向けると、遠くからガサガサと草をかき分けるような音がして、小さくて内容は聞こえないが、人の声らしきものが近付いてくる。

 青年は「村人か、それともさいくつ者かな」とつぶやくと、理沙に視線をもどして言った。

「ごめんね。俺はもう行かないといけない。それに君も、俺と行くより、ここの住人に保護されるほうが安全だろう」

 よく分からないが、ここでお別れらしい。名前すら教えてくれない会ったばかりの人なのに、いなくなると聞かされて理沙は心細さを覚えた。

 青年は手早く地面に置いてあった剣をわきに差すと、「リサ」と名前を呼んで微笑んだ。

「君は自分の名前を教えてくれたね。俺は『謎の男性』らしいけど、なにも教えないのは不公平だ。だからひとつだけ、君に明かしておこう」

「な、なんですか?」

「君にキスした」

「──え」

「すまない、命を救うためだった。おこらないでくれるとうれしい」

 そう言うと青年は、音のした方とは逆側の茂みへと姿を消した。目を丸くして固まる理沙だけが、その場に残された。


 ガタンゴトン、と不規則なれに身をゆだねながら、理沙はみような夢を見ていた。

 部屋でていたはずが、なぜか川でおぼれ、見知らぬ青年に助けてもらう夢。美しいその青年は謎めいていて、別れぎわおどろくような一言をくれる。

 ──そう……、キスしたとかなんとか言って……、びっくりした……。つまり人工呼吸ってことだよね? 最初からそう言ってよ……。

 ガタン、とひときわ大きく体が揺れて、理沙は目を覚ました。周囲を見回し、「ああ」となげくように頭をかかえる。

「夢じゃなかった……」

 理沙がいるのは、馬車の中だ。箱型のすみには、金でできたつるかべを伝うようにそうしよくされており、ベルベットのような布を張った座席部分は馬車のしようげきやわらかく受け止めてくれる。乗せられた時に外側も見たが、白色に丸みを帯びた形で、これまたしげもなく金細工がほどこされていた。一品ものの、ぜいらした美しい馬車だ。

 こんな馬車に似合うのは貴族などと呼ばれるような人達だろうと思うが、現実に乗っているのはへいぼんな会社員でしかない理沙一人だ。

「もう。どうしてこうなっちゃったの」

 ほとんど泣きそうになりながら、理沙は数時間前を思い返す。


 理沙を助けてくれた青年が姿を消してわずかもたない内に、二人の男性が現れた。

 男性はどちらも三十代後半くらいに見え、シャツにズボンという軽装だった。茶色のかみひとみで、りが深い顔立ちをしている。二人は理沙を見るなり、きようがくの表情となった。

 一人はそつとうするのではないかと思うほど体をのけ反らせ、やがて力がけたようにへなへなとこしを下ろした。もう一人も、相手を支えるりも見せずに立ちくし、声を失っている。

「そんな……、夢じゃないのか、これ……」

 思わずこぼれ落ちたとでも言うように、座り込んでしまった男性が理沙をぎようしたまま言う。

「いいや、夢なものか……! その髪と瞳の色、言い伝えの通りだ!」

 立っていた男性が興奮気味に声を上げると、二人はあわてたようにその場でひざをついた。額が地面につきそうなほど頭を下げて平身低頭する。理沙は後ろをり向いてかくにんしたが、あるのは川だけで自分以外には誰もいない。

「早く村長に伝えないと! 国王様にも使いを出さなくてはいけないし」

「聖女様、どうかお願いいたします。我々といつしよに来てくださいませんか」

 男性二人が切々とした表情でうつたえる。どう見ても、理沙の顔を見て言っている。

 ──『せいじょ』? せいじょって何?

「よく分からないがひとちがいですよ」と言ったが聞いているのかいないのか、理沙はこうようした様子の男性二人に引っ張られるようにして、村長と呼ばれる人間のしきへと行くことになった。

 森を抜けた先につないであった馬に乗せられ、土がむき出しの、そうなど全くされていない道を進んで行く。進むにつれて、民家が所々現れてきた。どれもが白い壁の家で、以前テレビで見た、高台に立つギリシャの白い家の連なりに似ていた。

 地面にある赤茶色の土は日本にはないもので、しかもここには電柱も信号もなく、車も走っていない。人が住んでいるはずなのに、人工的なものがひとつもないのだ。

 理沙の混乱は、かわべりにいた時よりもずっと増していた。

 ──ここはどこなの?

 何度目かの自問には、川縁で会った男性の『ルシアン王国』という言葉が思い返される。しかし、それは本の中で読んだくうの国名だ。本当のわけがない。それなのに理沙の五感すべてがこれは現実だと言っていて、不安は消えず、どんどんふくらんでいくだけだった。

 見知らぬ場所、見知らぬ人々。馬をひく男性二人にたずねても、彼らはきようしゆくする様子を見せるだけで、「後は村長に聞いてほしい」と言うだけだった。理沙の疑問に答えてくれる人間はいない。

 白い石造りの家をいくつか通り過ぎた先にあった村長の屋敷は、ほかの家と違い二階建てらしく、広さもあるようだった。窓は大きく開け放たれ、通気性の良さそうなうすぬののカーテンが揺れている。がいへきには蔓が伝うように生えており、小さな庭と馬小屋があった。

 中に入ったたん、使用人らしき人達も目を見開いて理沙を凝視したが、はんがわき状態の理沙を見て、服が用意される。なにやら話し合いを経て差し出されたのは、青色の無地のワンピースのようなものだった。それを着てから、さらに赤と緑のしゆうが美しい布を羽織らされる。

 次に応接間らしき場所に案内されお茶をもらうと、村長だと名乗る小太りの男性が現れた。理沙を見るなり、瞳をうるませて言葉をまらせる。

「ああ。生きている間に、こんなせきかいれるなんて……」

 理沙はもどかしげにから立ち上がって、村長に詰め寄った。

「あの! みなさん、人違いをしていると思うんです。服とお茶を頂けたことは大変感謝しているんですが、私は『せいじょ』と呼ばれる人ではないんです!」

「いいえ。あなたのそのお姿が、すべてを証明しております」

 まぶしそうに目を細めて、確信した口調で微笑ほほえまれる。周囲の人々もまた、村長の言葉に同意しているらしくうなずいている。姿が証明していると断言され、理沙はおそろしくなった。

 この場所で、自分は一体何者で、どこに属しているのだろうか。それをなぜ、理沙が分からずに他の人間が知っているのだろう。

 ──でも最初に私を川で助けてくれたあの人は、こんな態度じゃなかった。

 理沙の外見がめずらしいとは言っていたが、村人達や村長と違って、おおぎように理沙を上に見るようなことはしなかった。最初の青年の反応こそがつうではないのか。

 こんわくする理沙を置いて、物事はどんどん先に進んでいく。ほどなくして来客を告げる使用人らしき人の声が屋敷に木霊こだました。

「王家の使者の方が参られました! 国王様とのえつけんのため、聖女様を王宮へおむかえに上がったそうです!」

 ──王宮ですって?

 理沙はほうに暮れた。自分ひとりだけを置いて、世界が目まぐるしく回っているような気持ちになった。

「私……、これからどうなっちゃうの?」

 寄る辺ないその呟きは、周囲のけんそうまぎれ、だれの耳にも残らず消えていった。


 そうして今、理沙は貴族が乗るような馬車に揺られて、王都にある王宮へと向かっている最中なのだった。頭で処理できないことが多すぎてつかれてしまったのか、馬車に乗った途端少しねむってしまったらしい。夢なら覚めてほしい、と思ったのに、いまだに理沙は変な世界にいる。

 馬車が進むにつれて、段々と人の声や雑多な音が多く聞こえてきた。馬車に窓がないので外は見えないが、物売りの声、馬がわだちを走る音、いななき、誰かの笑い声、り声などがする。先ほどいた村とは比べ物にならないほどの、人々の数と熱量を感じた。

 人の気配をこんなにも感じるというのに、理沙は逆にひとりであるということを強く意識していた。馬車でひとり見知らぬ場所に運ばれていて、それが果たして正解なのかも分からない。不安がまたどっと増して飲み込まれそうになり、理沙は慌てて意識を切りえた。

 ──王都ってところに入ったのかもしれない。てことは、王宮も近いのかも。

 理沙はとびらのある方の壁にそっと両手をついて、髪に巻いた布をもう一度確かめる。王家の使者というはくはつの初老の男性はディルクと名乗り、理沙に髪と顔をかくすようにと、柔らかな銀糸の布をわたしてきた。そして、決して外に顔を出さないようにと言いふくめたのだ。とりあえず言われた通り、布を巻いて髪を隠し、馬車でじっとしていたが……。

 ──あーもうだめ! 気になってしょうがない。よし、少しだけのぞいてみよう。

 理沙がそうっと馬車の扉のノブに手をかけたしゆんかん、馬車が止まった。慌てて手を引っ込めると、ほどなくして扉が外側から開き、王家の使者ディルクが顔を見せた。ひょろりと背の高い老人だが、背筋はピンとびて美しい。髪と同じくまゆが白く、目に少しかかっている。

「王宮にとうちやくいたしました。我が王がお待ちですので、どうぞこちらへ」

 差し出された手につかまって馬車を下りた理沙は、広がった光景に息をんだ。

 はくの城が、目の前にそびえ立っている。城はけんろうな茶色のじようへきに守られており、それゆえに城の白さがきわって見えた。

 屋根からき出たようなとうせんたんするどく、どこまでも天に伸びていきそうだ。ひときわ大きく高い塔には国旗らしきものがはためいている。風になびいてよく見えなかったが、えがかれていたのは分かった。窓は数えるのをあきらめたくなるほど無数にあり、まどわくすべてに細工が施されている。けんを示すというよりは、神秘的なふんを感じさせる芸術性に富んだ城だった。

 不意に、この城をどこかで見たことがあると思った。しかしすぐに打ち消す。実際に見たわけではないのだ。でも、なんだか見覚えがあるような気がする。

 じっと城を見上げながら考え、理沙は答えに思い至った。

 ──そうだ……。私の脳内で作った城とそっくりなんだ……。

 数時間前、理沙はソファでルシアン王国物語を読みながら、活字を頭の中で映像化していた。ルシアン王国がほこる美しい城のびようしやは、まさに今理沙が見ている城そのものだった。

「まさか……。うそでしょう?」

 見上げながら思わずつぶやくと、ディルクが首をかしげた。

「どうしましたか?」

「あ、いえ……。ええと、とても美しいお城だと思いまして」

 あわてて取りつくろうと、ディルクが誇らしげに笑った。

「ありがとうございます。中はもっと美しいですよ」

 その言葉にうながされ、の姿をした男性が二人がかりで開けたきよだいな扉から、理沙は城の中へと足をみ入れた。

 入ってすぐに、ホールのように開けた場所が広がった。てんじようが高く奥行きがあって、一体何をする場所なのかとおどろいてしまう。見回してみると、かべにずらりといくつものしようぞうかざられていることに気付く。共通点は、男女一組であること、二人とも正装で、男性の頭上にはおうかんかがやいていることだ。

 ──映画とかで見たことある。これはたぶん、歴代の王様達の肖像画だ。

 肖像画を目で追っていると、一番奥の肖像画だけ他と違って、女性がひとり描かれているようだった。

 奥にあるためよく見えず近づこうと歩き出すが、別のことに気付いて足を止める。

「こっ、これ! サファイア!?」

 思わず大きな声が出て、理沙は壁にけ寄った。

 肖像画をかける壁には美しい鳥が描かれているのだが、そのひとみ部分にめ込まれていたのは、理沙のちがいでなければサファイアだった。つるりと丸くみがかれた青色が、鳥のつぶらな瞳を見事に表している。

「さふぁいあ、とは? これはそうぎよくという宝石です。他にも、花の中心部に紅玉という赤い宝石が入れられていますし、こちらの木々にはすいぎよくがちりばめられております」

 にこにこしながらディルクが説明してくれる。理沙から見れば蒼玉はサファイアであり、紅玉はルビー、翠玉はエメラルドだ。この国独自のめいしようなのだろう。ディルクが指差す先の宝石を見つめながら、理沙は自分のじようきようを一時忘れ、感激に打ちふるえた。

「噓でしょ……。どの宝石も色ににごりがなくて、すごく質がいい。きれい……。これ光にかざして、色んな角度で見てみたい。それにどれも10カラット以上あるよね。あーもう、きれい……。こっちのルビーなんて20カラットあるんじゃないのかな? この大きさで、なんてあざやかな赤……もうだめ感動する、きれいすぎるよ……」

 力が追い付かなくなり、ひたすら「きれい」を連発してしまう。宝石好きの血が一気にさわいだ。自分は今、質、大きさ共に国宝級の宝石に取り囲まれているのだ。

「王宮に来られた方は、必ずここで足を止められ、見事な宝石に目をうばわれます」

 ディルクの言葉に理沙はなつとくした。壁のそうしよくにこれだけしげもなく宝石を使うということは、国がうるおっているあかしを示したいのだろう。先ほど、この城は芸術性に富んでいるといったが、実はそうではないのだ。外からでは分からない、中に入って初めてこの城は、国の権威をおとずれた者に示している。

「それにこの三つの宝石は、我が国にもたらされた、神からのおくり物ですから。ああ、もちろんそれは、聖女様のけんしんあってこそ……」

 そこでディルクは言葉を切った。奥の扉が開かれたのだ。場の雰囲気がガラッと変わり、いく人もの人達がこちらに向かってくる。

 先頭を歩くにゆうな顔つきの男性は、見た中で一番豪ごうしやかつこうをしていた。金糸をぜいたくに織り上げたローブのようなものを着て、かたからマントのようなものを羽織っている。なにより男性の頭上には王冠が乗っており、身分を問うまでもない。彼に付き従うようにして、二十人程ほどの人間が後ろにひかえている。

 全員の視線が、一様に理沙に向けられていた。きんちようで、じわっと背中にあせにじむ。

「国王様」

 ディルクが深く一礼をする。理沙も慌ててディルクにならって頭を下げた。

 ──国で一番偉えらい人だよね? どうしよう、王様に対するれい作法なんて知らないよ!

「ディルク。何時いつまでっても部屋に来ぬので、こちらから出向いてしまったぞ」

「申し訳ございません。聖女様に、この広間の宝石についてご説明申し上げておりました」

「ああ、それはいい。彼女ほど説明にあたいする人物はいないだろう。そう思わないか、ラードルフ」

 最後の国王の問いかけは、誰か別の人間に向けられたようだった。頭を深く下げているために、ゆかしか見えない。

「ええ。私もそう思います」

 重低音の落ち着いた声の主が、国王の言葉に同意する。理沙は何気なく呼ばれた男性の名前に、がくぜんとした。

 ラードルフ。ルシアンという国名と並んで、この名称にも聞き覚えがあった。ルシアン王国物語の本の中で、国をほろぼす要因を作るさいしようの名前と同じなのだ。

「──さあ、聖女よ。顔を上げておくれ」

 最後の台詞せりふは理沙に向けられているのだろう。さすがにここに来るまで、何度も呼ばれたので分かっている。理沙は言葉に従って、国王を真正面からえた。

 目の前の国王は、所々目元にしわがあり、遠目でうかがった時よりねんれいを重ねているように見えた。じりが下がり気味で、少したよりなさも感じるがやさしい印象だ。

「おお……! 黒い瞳だ。実物は初めて見る! ラードルフ、見たか?」

 国王の一歩後ろにたたずむ男性ラードルフが、「ええ」と言葉少なに目を細めて理沙を見た。背の高いじようで、げ茶色のかみゆるやかに背中にかかっている。青緑色の瞳は、見る角度によっては赤色も混じり、アレキサンドライトのようだ。

 周囲の人々も理沙の顔を見るなり、ざわめいた。どの顔にも、国王と同じようにこうようかんが滲んでいる。しかしその中で、理沙にはラードルフだけがいて見えた。彼はわずかに微笑ほほえんでいるにもかかわらず、周囲が向けてくるような高揚も興奮も見受けられない。ただひたすら、温度のないみを浮かべるだけだ。そんなラードルフに周囲は気付くことなく、笑みを向けられている理沙だけがすくめられたように感じ、たじろぎ、慌てて視線をらした。

「肖像画を新たに描かなくてはならぬな。見よ。我々が言い伝えにのつとって想像で描かせた絵があるのだ」

 国王が指差す先には、先ほど見ようと思っていた女性だけが描いてある肖像画がある。

 ドクン、と心臓がいやな音を立てた。

 見知らぬ場所なのに、風景や人にかんをもつ理由。もしもこの国が、本当に理沙の読んだ本の世界なら、『聖女』と呼ばれる人物にも心当たりがあった。

「ルシアン王国を豊かな国へと導いてくれた、救国の聖女だ」

 その肖像画の女性は、とした横顔だけを見せ、に座っている。赤と青と緑の布地を重ねたようなドレスに身を包み、しつこくの髪はこしまで緩やかに垂らされていた。うつむきがちなまぶたから見えるのも、黒い瞳。

 ──やっぱりそうなんだ……。私、救国の聖女だと間違われてる!

 ルシアン王国物語を読んだ時、聖女の言い伝えがあったことももちろんおくしていた。神にその献身が認められ、流したなみだが三つの宝石になったという物語。ルシアンに宝石がもたらされた始まりとされるが、つまりはただのおとぎばなしのようなものだと思っていた。

「衣装については、国のためしきさいささげた聖女をたたえる意味で、彼女にもともとあった色を使ってかせてある。ああ……、まさに今のそなたのようだ」

 理沙は自分の服を見下ろした。村長のしきえさせられた衣装にも、赤と青、緑が使われている。慌てて説明した。

「こ、これはぐうぜんです。村長さんが用意して下さったもので」

「それならば村長はよい仕事をしたな」

 あせる理沙など気にすることなく、国王は満足げに笑うだけだった。そしてまた、同意を得るようなりでラードルフに視線をやる。ラードルフは微笑んだ。

「同感です。本物の聖女であれば、大変素らしいことです。この三色を同時に使うことは、聖女にしか許されませんからね。無関係な人間が身にまとうなど考えられません」

 その言葉に、理沙はそうはくとなった。服の色にそんな制限がかかっているとは知らなかった。今すぐ着替えたいと心がさけぶが、こんな場所ではそれもかなわない。

「本物の聖女でなければ大変な不敬ですし、国王様や我々臣下、そして国民をあざむいていることになる。きよつけいまぬかれないでしょう」

 ──極刑って……。

 理沙は「聖女じゃない」と言いかけていた口を閉じた。知らぬ間にがけせんたんに立っているような、げ場のなさを感じる。確かに理沙は自分から『聖女』だと名乗ったわけでもないし、この服装もこうりよくだ。しかしこうして王宮に現れた時点で、それは理沙の意思であると思われている。背筋を冷たい汗が伝う。

 ──もし私が聖女じゃないと言ったら? 命がおびやかされるってことなの?

「本物かはすぐに証明できよう。──さあ、聖女よ。その布にかくれた髪を見せておくれ」

 国王を筆頭に、臣下達だろう人々が熱望のまなしでもって理沙を見ている。理沙はぼうぜんと、聖女のしようぞうを背にして立ちくした。

 布を取りたくない。取ったら、すべてが確定してしまう気がした。もどれない予感がした。だが、取りたくないとこばんで許されるふんではない。異様な静けさが広間を包む。

 理沙はゴクリとのどを鳴らした後、しゅるりと、はだざわりのよい銀の布を外した。さらされたのは、黒い髪。理沙にとっては当たり前の、生まれた時から変わらない色だ。

 だが、ここルシアン王国では違うのだ。今の理沙の姿と、背後にある聖女の姿が、彼らの目にどう映るのか。

 答えは次のしゆんかんの、彼らの行動によって示された。

 国王以外のその場にいるすべての人々が、いつせいひざまずいてこうべを垂れたのだ。

「救国の聖女よ。再びルシアンに、神のおんけいをもたらしてくれ。我が国を──救ってくれ」

 国王がそううつたえる。理沙は今この瞬間から、自分の意思とは関係なく、彼らにとっての『聖女』となった。

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