一章 異世界に降り立つ聖女 ①
金曜日の午後七時。
「ただいま。はあ、
お仕事仕様でひとつに結んでいた
夕飯を食べ終えて、シャワーを浴びる。すべての準備を整えた後、理沙はお気に入りのソファに座った。鞄からいそいそと一冊の本を取り出す。自宅に帰る
ページを開いた
座り
「さて! 今度の本はどんな感じだろう……?」
『ルシアン王国物語』。それが今回選んできた本の題名で、
理沙は宝石がとても好きで、身近な存在でもあった。ちらりとテレビの横に置かれた
理沙の仕事は、総務課の事務員。働く会社は、大手のジュエリーブランドだ。幼い
大人になっても好きな気持ちは変わらず、宝石関係の仕事に
しかし理沙には、ジュエリーの
宝石を直接取り
本棚から目の前の本に視線を戻すと、理沙はじっくりと『ルシアン王国物語』を読み進めていった。
数時間後。すべてを読み終えて、理沙は物語の
──最後は
架空の世界ルシアン王国の一代記。語り手は国王の従者だ。国の成り立ちと救国の聖女の言い伝え、宝石事業で豊かになっていく
理沙が最も心を痛めたのは、やはり物語の
ルシアン王国には、
この宰相というのが大層な悪人で、
宰相は何食わぬ顔で、
──国を守るはずの宰相がこんなことするなんて、王子もルシアンの人達もかわいそう。
悲しい物語に心が引っ張られ、ずんと気分が落ち込んでしまう。仕事終わりに読むのには、少々重い内容の本であったことは
理沙は
──ああでも、ルシアンの宝石ってどれほど
そんな風に夢想していると、仕事の疲れが
──ダメダメ。ここで寝ないで、ちゃんとベッドに行かないと……。
息が苦しい。
パニックになって喉を
まず視界に飛び込んできたのは、深い青色。
「な、……っ、ごほっ」
青年は、理沙の背中を支えるようにして、そっと
「──ゆっくり呼吸をしてごらん。もう
よく通る低音が耳に心地よく、理沙はとりあえず言葉に従って
理沙が落ち着いたのが分かったのか、青年が
星をまぶしたような
「川で
まだ少し頭がぼうっとしているが、とにかく聞かれた質問に答えようとする。
「怪我は……、ない、と思います。痛いところも、ない……」
「そう。よかった」
ふっと
まじまじ見ていたのが分かったのだろう、青年が
「その大きな黒い瞳で見つめられると、なんだか吸い込まれそうだ」
「あ……。ぶ、
「非難しているわけじゃない。君の瞳が綺麗だって話だよ」
「…………」
見目のいい男性とは、背中がむず
「
あなたの瞳と髪色の方が、日本では珍しい──、言いかけてはっとする。青年の容姿の
変だ。目の前の青年も、ずぶ濡れで地面に寝ていた自分もすべてがおかしい。ここは……。
「ここは、どこ?」
自然と疑問が口をついて出た。
そうしてようやく思い至ったように周囲を見回した時、理沙は目の前の風景に
「な、なにこれ」
理沙の
頭上で照っている太陽は丁度真上にあって、全身ずぶ濡れの服や髪もすぐに
あり得ない、と理沙は思う。自分は確かに、部屋で眠っていたはずだ。眠っている間に
「ルシアン王国」
唐突に青年が口を開いた。
「え?」
「ここはルシアン王国の東部に位置する、クラウゼンという村の外れだ。地名を聞いても、聞き覚えはない?」
「はい。全く……」
いや、
理沙はもう一度深呼吸し、混乱する頭を整理してから断じた。
──分かった。これはあれだ、夢だよ。夢を見てるんだ、私!
この
「なぜ川で溺れていたのか、自分がどこから来たかは分かる?」
自分の部屋で寝ていたのに、気付いたらずぶ濡れで地面に寝ていた。そんな
「自分の名前は言えるかい?」
「鈴木理沙です」
「スズキ・リサ? 変わった名前だ。着ている服も変わってるし。なによりその瞳と髪の色だ。君を見て、この土地の人間だと言う人はいないだろうね」
なにもかも
「あの。私、川で溺れてたんですよね? それであなたが助けてくれた?」
「そうだね」
理沙は居住まいを正し、頭を下げた。
「助けてくださってありがとうございます。お礼が遅くなってごめんなさい」
青年は笑って
「気にしなくていいよ。無事ならそれでいい」
「えっと、お名前を
「それって重要なことかな」
「えっ? あー、そうだ! あなたはここの土地の方なんですか?」
「どうだろう。そうかもしれないし、違うかもしれない」
「…………」
にこにこ微笑む青年を見て、理沙は口を
「分かりました。あなたは私を助けてくれた、とても親切な
理沙がそう言うと、青年はちょっと目を見開いた後、「いいね、それ」と楽しそうに笑った。どうやら理沙の言い回しが気に入ったらしい。
「でも君の方こそ謎だ。見たことのない外見をした、黒い瞳が美しい謎の女性」
また背中がむず痒くなった。自分のことを話されているような気がしない。
「さて。これからの問題だけど、君をどうすべきか考えないと」
青年が
青年は「村人か、それとも
「ごめんね。俺はもう行かないといけない。それに君も、俺と行くより、ここの住人に保護されるほうが安全だろう」
よく分からないが、ここでお別れらしい。名前すら教えてくれない会ったばかりの人なのに、いなくなると聞かされて理沙は心細さを覚えた。
青年は手早く地面に置いてあった剣を
「君は自分の名前を教えてくれたね。俺は『謎の男性』らしいけど、なにも教えないのは不公平だ。だからひとつだけ、君に明かしておこう」
「な、なんですか?」
「君にキスした」
「──え」
「すまない、命を救うためだった。
そう言うと青年は、音のした方とは逆側の茂みへと姿を消した。目を丸くして固まる理沙だけが、その場に残された。
ガタンゴトン、と不規則な
部屋で
──そう……、キスしたとかなんとか言って……、びっくりした……。つまり人工呼吸ってことだよね? 最初からそう言ってよ……。
ガタン、とひときわ大きく体が揺れて、理沙は目を覚ました。周囲を見回し、「ああ」と
「夢じゃなかった……」
理沙がいるのは、馬車の中だ。箱型の
こんな馬車に似合うのは貴族などと呼ばれるような人達だろうと思うが、現実に乗っているのは
「もう。どうしてこうなっちゃったの」
ほとんど泣きそうになりながら、理沙は数時間前を思い返す。
理沙を助けてくれた青年が姿を消して
男性はどちらも三十代後半くらいに見え、シャツにズボンという軽装だった。茶色の
一人は
「そんな……、夢じゃないのか、これ……」
思わず
「いいや、夢なものか……! その髪と瞳の色、言い伝えの通りだ!」
立っていた男性が興奮気味に声を上げると、二人は
「早く村長に伝えないと! 国王様にも使いを出さなくてはいけないし」
「聖女様、どうかお願いいたします。我々と
男性二人が切々とした表情で
──『せいじょ』? せいじょって何?
「よく分からないが
森を抜けた先に
地面にある赤茶色の土は日本にはないもので、しかもここには電柱も信号もなく、車も走っていない。人が住んでいるはずなのに、人工的なものがひとつもないのだ。
理沙の混乱は、
──ここはどこなの?
何度目かの自問には、川縁で会った男性の『ルシアン王国』という言葉が思い返される。しかし、それは本の中で読んだ
見知らぬ場所、見知らぬ人々。馬をひく男性二人に
白い石造りの家をいくつか通り過ぎた先にあった村長の屋敷は、
中に入った
次に応接間らしき場所に案内されお茶をもらうと、村長だと名乗る小太りの男性が現れた。理沙を見るなり、瞳を
「ああ。生きている間に、こんな
理沙はもどかしげに
「あの!
「いいえ。あなたのそのお姿が、すべてを証明しております」
この場所で、自分は一体何者で、どこに属しているのだろうか。それをなぜ、理沙が分からずに他の人間が知っているのだろう。
──でも最初に私を川で助けてくれたあの人は、こんな態度じゃなかった。
理沙の外見が
「王家の使者の方が参られました! 国王様との
──王宮ですって?
理沙は
「私……、これからどうなっちゃうの?」
寄る辺ないその呟きは、周囲の
そうして今、理沙は貴族が乗るような馬車に揺られて、王都にある王宮へと向かっている最中なのだった。頭で処理できないことが多すぎて
馬車が進むにつれて、段々と人の声や雑多な音が多く聞こえてきた。馬車に窓がないので外は見えないが、物売りの声、馬が
人の気配をこんなにも感じるというのに、理沙は逆にひとりであるということを強く意識していた。馬車でひとり見知らぬ場所に運ばれていて、それが果たして正解なのかも分からない。不安がまたどっと増して飲み込まれそうになり、理沙は慌てて意識を切り
──王都ってところに入ったのかもしれない。てことは、王宮も近いのかも。
理沙は
──あーもうだめ! 気になってしょうがない。よし、少しだけ
理沙がそうっと馬車の扉のノブに手をかけた
「王宮に
差し出された手に
屋根から
不意に、この城をどこかで見たことがあると思った。しかしすぐに打ち消す。実際に見たわけではないのだ。でも、なんだか見覚えがあるような気がする。
じっと城を見上げながら考え、理沙は答えに思い至った。
──そうだ……。私の脳内で作った城とそっくりなんだ……。
数時間前、理沙はソファでルシアン王国物語を読みながら、活字を頭の中で映像化していた。ルシアン王国が
「まさか……。
見上げながら思わず
「どうしましたか?」
「あ、いえ……。ええと、とても美しいお城だと思いまして」
「ありがとうございます。中はもっと美しいですよ」
その言葉に
入ってすぐに、ホールのように開けた場所が広がった。
──映画とかで見たことある。これはたぶん、歴代の王様達の肖像画だ。
肖像画を目で追っていると、一番奥の肖像画だけ他と違って、女性がひとり描かれているようだった。
奥にあるためよく見えず近づこうと歩き出すが、別のことに気付いて足を止める。
「こっ、これ! サファイア!?」
思わず大きな声が出て、理沙は壁に
肖像画をかける壁には美しい鳥が描かれているのだが、その
「さふぁいあ、とは? これは
にこにこしながらディルクが説明してくれる。理沙から見れば蒼玉はサファイアであり、紅玉はルビー、翠玉はエメラルドだ。この国独自の
「噓でしょ……。どの宝石も色に
「王宮に来られた方は、必ずここで足を止められ、見事な宝石に目を
ディルクの言葉に理沙は
「それにこの三つの宝石は、我が国にもたらされた、神からの
そこでディルクは言葉を切った。奥の扉が開かれたのだ。場の雰囲気がガラッと変わり、
先頭を歩く
全員の視線が、一様に理沙に向けられていた。
「国王様」
ディルクが深く一礼をする。理沙も慌ててディルクに
──国で
「ディルク。
「申し訳ございません。聖女様に、この広間の宝石についてご説明申し上げておりました」
「ああ、それはいい。彼女ほど説明に
最後の国王の問いかけは、誰か別の人間に向けられたようだった。頭を深く下げているために、
「ええ。私もそう思います」
重低音の落ち着いた声の主が、国王の言葉に同意する。理沙は何気なく呼ばれた男性の名前に、
ラードルフ。ルシアンという国名と並んで、この名称にも聞き覚えがあった。ルシアン王国物語の本の中で、国を
「──さあ、聖女よ。顔を上げておくれ」
最後の
目の前の国王は、所々目元に
「おお……! 黒い瞳だ。実物は初めて見る! ラードルフ、見たか?」
国王の一歩後ろに
周囲の人々も理沙の顔を見るなり、ざわめいた。どの顔にも、国王と同じように
「肖像画を新たに描かなくてはならぬな。見よ。我々が言い伝えに
国王が指差す先には、先ほど見ようと思っていた女性だけが描いてある肖像画がある。
ドクン、と心臓が
見知らぬ場所なのに、風景や人に
「ルシアン王国を豊かな国へと導いてくれた、救国の聖女だ」
その肖像画の女性は、
──やっぱりそうなんだ……。私、救国の聖女だと間違われてる!
ルシアン王国物語を読んだ時、聖女の言い伝えがあったことももちろん
「衣装については、国の
理沙は自分の服を見下ろした。村長の
「こ、これは
「それならば村長はよい仕事をしたな」
「同感です。本物の聖女であれば、
その言葉に、理沙は
「本物の聖女でなければ大変な不敬ですし、国王様や我々臣下、そして国民を
──極刑って……。
理沙は「聖女じゃない」と言いかけていた口を閉じた。知らぬ間に
──もし私が聖女じゃないと言ったら? 命が
「本物かはすぐに証明できよう。──さあ、聖女よ。その布に
国王を筆頭に、臣下達だろう人々が熱望の
布を取りたくない。取ったら、すべてが確定してしまう気がした。
理沙はゴクリと
だが、ここルシアン王国では違うのだ。今の理沙の姿と、背後にある聖女の姿が、彼らの目にどう映るのか。
答えは次の
国王以外のその場にいるすべての人々が、
「救国の聖女よ。再びルシアンに、神の
国王がそう
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます