第6話

「今日もふられましたか」

 マリーが休憩しに屋敷に戻ると、ベランダでは執事がお茶を用意しながら笑っていた。どうやら上から見ていたようだ。

 ここしばらく、サクラソウを見つけては説得しに行くか、草むしりをするか、本を読むか、祖母のことや日々の思い出を教えてもらってくつろぐことが、マリーの日課になっていた。

 昨日と違うお茶を飲みながら、マリーはかすかに見える庭を、恨めしげに見つめた。

「もうちょっとで、入れそうなのに」

「魔法で門を開けたりしないんですか?」

 執事がさも楽しげにからかう。

 マリーはカップを握りしめて、唇を曲げて瞬きを繰り返した。

 執事が笑みを引っ込める。

「……何か、言ってはならないことを、私は言ってしまったようですね」

「いえ……そんなこと……」

 マリーが気を使って「大丈夫」と言いかけたところ、執事は、不意に笑顔で踏み込んだ。

「貴方は魔法を使わないんですね」

 ルブラン様もそうでしたが、と、執事は小首を傾げて問いかけた。

「苦手なんですか?」

「にが、て」

 苦手、ではある。苦手と呼んでも、よいものかどうか、分からないけれど。

「苦手というより、使いたくないんです。……祖母もだと思いますが、魔力が強いことが、いいっていうものでもないんです」

 感情の振れ幅が大きければ大きいほど、力は、人を容易に苦しめ痛めつける「魔法」へと姿を変える。

 手を強く握り込んで、マリーは半笑いになって言った。

「下手に魔法を習うと、使ってしまう。おばあさまのしていたように、魔力そのものを分け与えるくらいにしておいて、害にならないようにしないとならない」

 祖母のように。

 ――祖母は力が強くて、若い頃は、少し泣くだけで嵐になるというほどだった。十代の彼女は心を沈め、凍らせて過ごしていた。

 そんな彼女の前に現れたのは、これまで人が行ったことのない海の果てへ行こうとする、貿易船の持ち主――マリーの祖父だ。

「この世でもっとも危険な旅をするからには、この世でもっとも強い魔女の護符がほしいものだな!」

 たったそれだけの理由で、彼女の噂を聞きつけて彼女の家にたどり着いた彼は、彼女にあけすけにものを言い――「何だ、フツーの娘じゃないか」「魔女と言うからには、黒猫や蝙蝠を飼わないのか?」「喋らんのか?」「笑ったらいいのに。台風が来る? 意味が分からん」――何度か追い返され、やがてその熱心さで、護符を書いて貰うに至った。そして彼は出港し、無事に、戻ってきたのだった。

 その後、二人は結婚した。実家を出て、新しい屋敷と庭を得て、祖母は新しい暮らしを始めた。

 そんなふうに、誰かが、マリーを連れていくことが、あるのかもしれないけれど。

 マリーは自分で、この庭に来た。庭を選んだ。

 いつ来るかしれない誰かを待つよりも、自分で動くほうが、確かだった。


 マリーが物思いにふけっていると、執事が、虫でも吹き飛ばすような、細長いため息をついた。

「……私には、貴方がどれほどの危険人物なのか分かりません。ですが、もし貴方のおっしゃるとおりだとしても、そういう、やむにやまれぬ事情だけでこの庭を選ばれたのだとしたら、悲しいですね」

「! 違います、ごめんなさい。庭は見たかったし、祖母との約束もあります。私、どこへも行けないから仕方なく来たんじゃない。どこへも行けないなら、せめて、庭を、と望みました」

 執事は何だか不思議な笑みを浮かべた。怒っているのではなくて、小鳥が首を傾げるのを見ているような、楽しげな笑みだった。

「かわいいなぁ」

「えっ」

「何だか一生懸命で。見ているこちらの胸も、温かくなってくるんです。ふふ」

「えっ」

 もしかしたら、この執事は、密かに、とても意地悪なのではなかろうか。

 かわいいかわいい、と嬉しそうに言われながら、マリーは、子ども扱いされている、と憮然と思った。

 夕暮れが魔法のように空を染める。夏が訪れる前に、必要な庭木を剪定しなくてはならない。

 執事はそう思いながらも、田舎に帰ってしまった庭師を呼び戻すかどうか、決めかねていた。

 ベランダからマリーに声をかける。

「マリーお嬢様。そろそろ日暮れです。屋敷にお戻りください」

「はあい!」

 持参した前掛けを泥だらけにしたマリーは、急いで屋敷裏へ駆けて行った。多分、裏にある井戸の水で、手を洗って来るつもりだろう。

 教えてもいないのに、子どもはすぐに、いろんな場所の秘密を暴く。

 森の入り口にある小さな林檎の木とか。小鳥が巣を作っている楡の木のこととか。

 そのうち裸足で駆け回りそうで、まぁ元気なことはいいことだけれど、あの狼みたいな教育係に知られたら大変だなと、執事は思う。

「お前の「大変だな」は、ものすごい無責任なんだよ」

「おや、声に出てましたか?」

「顔に出てた」

 ベランダの柵によじ登り、サクラソウは、テーブルとイスとティーセットを順に見やった。

「お前、お嬢様が「見ないで」って言うからって、こんな高いところからお茶飲みながら見下ろしてたら、いっそう嫌がられるだろ」

「別に拒否されてないですよ?」

「あいつ……高みの見物されてることに、気づいてないな……」

 律儀なサクラソウは、あの少女に心をかけているようだ。

 涼しい風が吹く。同じ風が、空の高いところにある雲を、縞模様にたなびかせた。

「どうするんです、あの子」

「どうするもこうするも。お前、気に入ってるな?」

「だとしたら、どうなんです? 庭を、開けますか?」

「別に。俺の主人は、お前じゃない」

「それもそうだ」

 執事は肩をすくめてから、ティーカップを持ち上げ、中の液体を軽く回した。

「この、お茶の貿易も、香辛料の流通も、みな、ルブランの当主が先人でした。今は他の会社も多いけれど――庭は、どうなるんでしょうか?」

 他の者の手に渡ることがあるのか。

 暗にそう言っている執事の青年を、睨みつけて、

「バァカ」

 親切にも言い返してやってから、少年はその場を後にした。

 ベランダの脇で、鉢植えのクレマチスに混ざって、サクラソウが一輪、そよいでいた。

 歩きながら考える。思い出が不意に胸をふさぐから、メアリベル・ルブラン――あのばあさんが消えてから、サクラソウは不機嫌だった。


「庭の周りに植えたらいいって、夫が貴方を連れてきたのよ。覚えている?」

 きらきらした日差しの中、メアリベルは穏やかに微笑んでいる。

 どうだかな、と言い返しかけて、彼女の表情にかげりが見えた気がして、やめる。

「覚えてる」

「そう。本来の環境とは違う場所に連れてきてしまって、ごめんなさいね」

「別に。枯れもしないし、ちゃんと咲いてる。問題ない」

「そう? よかったのかしら。ずっと、気になっていたの」

「いい。問題ないよ」

 この姿形だって、彼女がきちんとした格好の孫達を誉めるのを見て、まねをしたのだ。

 気に入られなくてもいいなんて、思っていない。

 ――好かれたい。

「きっと、私が去った後、誰かが庭を守ろうとしてくれる。それまでの間……庭を、守りながら暮らしてね」

 老齢だった彼女は、あの夏を越えて、しばらくしてから亡くなった。

(あのとき言っていた「誰か」って、あいつのことか?)

 マールブランシュ・ルブランのことだろうか?

 胸が痛む。

 あいつを受け入れてしまったら、本当に、絶対に、メアリベル・ルブランが帰ってこないことを認めてしまうようで。

(それに……あのばあさんのことをだんだん忘れていって、あいつのことばっかり言うようになりそうで、それは怖い)

 でも。

 あの子はきっと、祖母のことを忘れない。

 「おばあさまはどうやって貴方をここに運んだんですか?」なんて言いながら、たびたび、故人を思い出すのだろう。

 自分達も、それができる。きっと。多分。

 それは前へ進む、ほんの小さな一歩。

(なぁ、ばあさん。それは、あんたへの裏切りには、ならないだろうか)

 律儀なサクラソウはそう考えて、それから、風に鼻先をくすぐられてくしゃみをした。

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