第5話
*
ヘルベチカは最後まで反対した。マリーを連れて帰りたがった。
けれどマリーは言い返した。祖母のいた屋敷には何度か泊まったことがあるし、執事の人も居るから大丈夫だと。
本物の執事かどうかすら疑っていたヘルベチカだが、執事が、メアリベル・ルブランから受け取ったという執事の証たる指輪を見せたので、不承不承頷いた。
「では私もご一緒いたします」
「いいえヘルベチカ。私は大丈夫だから。一人で泊まれるから。万が一、怖いことがあったら、ちゃんと執事さんに言って、うちへ送っていただく。それでいい?」
絶対に帰るつもりはなかったが、こうでも言わないとヘルベチカは帰りそうにない。ヘルベチカがいては、旅行気分が抜けなくなる。マリーは、将来的にはこの屋敷に住んで、庭を守りたいと思っているのだ。
――ヘルベチカなしに。大人になるんだから。新しい生活を、できるというところを、見せなくては。
新緑の色をした目を瞬いて、マリーは「ね?」とお願いする。
ヘルベチカは散々、マリーをなだめすかそうとした。そして、マリーがどうしても頑固になっていると分かって、ヘルベチカだけがいったん帰るということでどうにか了解した。
「お嫌になりましたら、すぐに帰っていらしてくださいね。必ず手紙も出してください。一週間に一度は、実家に顔をお出しくださいね」
帰り際、執事と二人きりにしてほしいとヘルベチカに言われたので、マリーは大人しく廊下に出た。
そのとき、二人の会話が風に乗ってうっすらと、霞のように漂ったのを聞いてしまった。
「あの方は、魔力の強さ故に、お屋敷で――言葉は悪いのですが、大切に「囲われて」暮らしてきました。それでいて、ひねもせず、歪まず、お育ちになったことは、不思議でなりません。どうか守ってください。あの方を」
何度も、見守ってほしいと願う言葉が繰り返されていく。守ってほしい。傷つけないでほしい、と。
「我々も、あの明るい笑みを、絶やしたくないと願うのです。何かありましたらすぐにでも、迎えに参ります。どうか、よろしくお願いいたします」
ヘルベチカの悲壮さなど届かぬように、執事は、どこか飄然と聞き返した。
「ある程度のお世話はできますが、そこまで危険なものに狙われうる方でしょうか? 失礼いたしますが、……ごく普通の、ただのお嬢さんのようです。魔法を使うそぶりもないですし……」
「先代の、ルブラン様と同等かそれ以上の、潜在能力はおありのようです。魔力はたくさんある。ただ、使いたくないと願っておられます。私どもは、お嬢様を、あらゆるものから守り通さねばなりません。身代金目的でしたらまだしも、魔力だけを目的にする者が相手となると、お嬢様をどこまでお守りできるか、私どもも不安なのです」
「それは……」
ものを言いかけた執事が、黙る。窓辺に、軽い足音が立った。
「力の全てを庭木に与えて去っていった、あいつの祖母のように、ひっそりと暮らさせる?」
サクラソウの、若い声だ。ヘルベチカは一瞬驚いたようだけれど、ため息をつくように、優しく優しく、吐き出した。
「できれば、普通の娘のように、恋をして、ドレスを着て、世を楽しんでほしいとも願いますけれど。それが叶わないのであれば、せめて、あの方の願いは叶えて差し上げたい」
「ふうん。普通に暮らすことが、そんなに難しいことか?」
そうよ。
(私にとっては……とても)
マリーは廊下に立ちつくしたまま、唇を噛んだ。
*
おばあちゃん、こわいよう。
祖母の屋敷には暗がりが多かった。幼い頃、マリーは明かりのない廊下を歩くのが怖かった。使用人も少なくひとけがほとんどない祖母の家は、夜、とりわけ恐ろしくてたまらなかった。
しがみついて離れないマリーに、祖母はやさしい口調で言ったものだ。
「大丈夫よ。大丈夫。ここには悪いものはいないわ」
「ほんとう?」
「本当」
祖母の深い声音に、安堵する。けれどどこか心の底のほうで、おそろしがっている気持ちも抜けきらなかった。
「ほんとうに? こわい、こわーいおばけが、出たりしない?」
「しないしない。きれいなお花の精さんがいるくらいのものよ」
「お花の?」
「そう。おばあちゃんはね、マリー。魔法使いなの。おじいちゃんからいただいた庭で、魔法を使って遊んでいるのよ。そこではお花たちが、一緒に働いてくれるの。一緒にお話もできるのよ」
翌朝はその庭に入れてもらったけれど、「お花の人」には出会えなかった。
「みんな、恥ずかしがり屋さんなの。ごめんなさいね、マリー」
「ううん、いいの。こんど来たときのために、マリーのこと、こわくないよって、おしえてあげてね」
祖母はがっかりするマリーに、そっと言った。
「庭を嫌わないであげてね、マリー。いつかこの庭を貴方が、大切にしてくれると信じているわ」
――残念なことに、庭の様子を、今はあまり覚えていない。
「あのときにおばあさまが仰っていたお庭なのに」
貸してもらった部屋で、ベッドに俯せに寝転がり、マリーはむくれて、枕に顔を押しつけた。
結局、祖母の家がそこそこ遠くて、滅多には行けなかった。もっと庭や花を見せてもらう前に、祖母は世を去ってしまったのだ。
「……おばあちゃん……」
さみしくなって、布団にぎゅうぎゅうと体を押しつける。会いたくても会えない。思い出の品や写真は残っていても、声も手触りもない。せめて、祖母の大事にしていた庭で、祖母のことを話せたら。
「マリーなら、いつか、大切にしてくれると信じているって、おばあさまは……」
呟きながら、マリーはゆるゆると眠りに落ちた。
*
燦々と太陽が照っている。青空をヒバリが飛び交う。
庭の周辺は、いかにものどかな景色だった。
「お前の熱意は分かったよ」
翌日も、翌々日も庭に入れてほしいと懇願され、サクラソウはうんざりしたようだ。
「それなら、お前さ。学校はどうするんだ」
戦法が変わった。切々と諭す方向にしたらしい。
「お前は子どもだろう? 一生べったりじっくり、庭に張り付いているわけにもいかんだろうが」
「私、家庭教師の先生を頼んでみます……」
「そんな金、あるのか? 家の金であって、お前が自由にしていい金じゃないだろう」
悪いことは言わない、ちゃんとものを学んだ方が、人として豊かな頭の中身になれる。サクラソウは親切めかして、丁寧に言った。
「バカは困るぞ。この種一粒で魔法が使えるとか言われて、ほいほい騙されて金を払うようになったらどうする。くだらないと思うことでも、勉強しておけ。そうしたら、ふとしたときに騙されないで済む。花にさえ分かることなんだから、お前がそれを分からないでどうする」
「勉強は、します! 勉強をしたくなくてここに居たいわけじゃ、ありません!」
「ハイハイ」
サクラソウは、マリーをすげなくあしらった。
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