第5話

 ヘルベチカは最後まで反対した。マリーを連れて帰りたがった。

 けれどマリーは言い返した。祖母のいた屋敷には何度か泊まったことがあるし、執事の人も居るから大丈夫だと。

 本物の執事かどうかすら疑っていたヘルベチカだが、執事が、メアリベル・ルブランから受け取ったという執事の証たる指輪を見せたので、不承不承頷いた。

「では私もご一緒いたします」

「いいえヘルベチカ。私は大丈夫だから。一人で泊まれるから。万が一、怖いことがあったら、ちゃんと執事さんに言って、うちへ送っていただく。それでいい?」

 絶対に帰るつもりはなかったが、こうでも言わないとヘルベチカは帰りそうにない。ヘルベチカがいては、旅行気分が抜けなくなる。マリーは、将来的にはこの屋敷に住んで、庭を守りたいと思っているのだ。

 ――ヘルベチカなしに。大人になるんだから。新しい生活を、できるというところを、見せなくては。

 新緑の色をした目を瞬いて、マリーは「ね?」とお願いする。

 ヘルベチカは散々、マリーをなだめすかそうとした。そして、マリーがどうしても頑固になっていると分かって、ヘルベチカだけがいったん帰るということでどうにか了解した。

「お嫌になりましたら、すぐに帰っていらしてくださいね。必ず手紙も出してください。一週間に一度は、実家に顔をお出しくださいね」


 帰り際、執事と二人きりにしてほしいとヘルベチカに言われたので、マリーは大人しく廊下に出た。

 そのとき、二人の会話が風に乗ってうっすらと、霞のように漂ったのを聞いてしまった。

「あの方は、魔力の強さ故に、お屋敷で――言葉は悪いのですが、大切に「囲われて」暮らしてきました。それでいて、ひねもせず、歪まず、お育ちになったことは、不思議でなりません。どうか守ってください。あの方を」

 何度も、見守ってほしいと願う言葉が繰り返されていく。守ってほしい。傷つけないでほしい、と。

「我々も、あの明るい笑みを、絶やしたくないと願うのです。何かありましたらすぐにでも、迎えに参ります。どうか、よろしくお願いいたします」

 ヘルベチカの悲壮さなど届かぬように、執事は、どこか飄然と聞き返した。

「ある程度のお世話はできますが、そこまで危険なものに狙われうる方でしょうか? 失礼いたしますが、……ごく普通の、ただのお嬢さんのようです。魔法を使うそぶりもないですし……」

「先代の、ルブラン様と同等かそれ以上の、潜在能力はおありのようです。魔力はたくさんある。ただ、使いたくないと願っておられます。私どもは、お嬢様を、あらゆるものから守り通さねばなりません。身代金目的でしたらまだしも、魔力だけを目的にする者が相手となると、お嬢様をどこまでお守りできるか、私どもも不安なのです」

「それは……」

 ものを言いかけた執事が、黙る。窓辺に、軽い足音が立った。

「力の全てを庭木に与えて去っていった、あいつの祖母のように、ひっそりと暮らさせる?」

 サクラソウの、若い声だ。ヘルベチカは一瞬驚いたようだけれど、ため息をつくように、優しく優しく、吐き出した。

「できれば、普通の娘のように、恋をして、ドレスを着て、世を楽しんでほしいとも願いますけれど。それが叶わないのであれば、せめて、あの方の願いは叶えて差し上げたい」

「ふうん。普通に暮らすことが、そんなに難しいことか?」

 そうよ。

(私にとっては……とても)

 マリーは廊下に立ちつくしたまま、唇を噛んだ。

 おばあちゃん、こわいよう。

 祖母の屋敷には暗がりが多かった。幼い頃、マリーは明かりのない廊下を歩くのが怖かった。使用人も少なくひとけがほとんどない祖母の家は、夜、とりわけ恐ろしくてたまらなかった。

 しがみついて離れないマリーに、祖母はやさしい口調で言ったものだ。

「大丈夫よ。大丈夫。ここには悪いものはいないわ」

「ほんとう?」

「本当」

 祖母の深い声音に、安堵する。けれどどこか心の底のほうで、おそろしがっている気持ちも抜けきらなかった。

「ほんとうに? こわい、こわーいおばけが、出たりしない?」

「しないしない。きれいなお花の精さんがいるくらいのものよ」

「お花の?」

「そう。おばあちゃんはね、マリー。魔法使いなの。おじいちゃんからいただいた庭で、魔法を使って遊んでいるのよ。そこではお花たちが、一緒に働いてくれるの。一緒にお話もできるのよ」

 翌朝はその庭に入れてもらったけれど、「お花の人」には出会えなかった。

「みんな、恥ずかしがり屋さんなの。ごめんなさいね、マリー」

「ううん、いいの。こんど来たときのために、マリーのこと、こわくないよって、おしえてあげてね」

 祖母はがっかりするマリーに、そっと言った。

「庭を嫌わないであげてね、マリー。いつかこの庭を貴方が、大切にしてくれると信じているわ」


 ――残念なことに、庭の様子を、今はあまり覚えていない。

「あのときにおばあさまが仰っていたお庭なのに」

 貸してもらった部屋で、ベッドに俯せに寝転がり、マリーはむくれて、枕に顔を押しつけた。

 結局、祖母の家がそこそこ遠くて、滅多には行けなかった。もっと庭や花を見せてもらう前に、祖母は世を去ってしまったのだ。

「……おばあちゃん……」

 さみしくなって、布団にぎゅうぎゅうと体を押しつける。会いたくても会えない。思い出の品や写真は残っていても、声も手触りもない。せめて、祖母の大事にしていた庭で、祖母のことを話せたら。

「マリーなら、いつか、大切にしてくれると信じているって、おばあさまは……」

 呟きながら、マリーはゆるゆると眠りに落ちた。

 燦々と太陽が照っている。青空をヒバリが飛び交う。

 庭の周辺は、いかにものどかな景色だった。

「お前の熱意は分かったよ」

 翌日も、翌々日も庭に入れてほしいと懇願され、サクラソウはうんざりしたようだ。

「それなら、お前さ。学校はどうするんだ」

 戦法が変わった。切々と諭す方向にしたらしい。

「お前は子どもだろう? 一生べったりじっくり、庭に張り付いているわけにもいかんだろうが」

「私、家庭教師の先生を頼んでみます……」

「そんな金、あるのか? 家の金であって、お前が自由にしていい金じゃないだろう」

 悪いことは言わない、ちゃんとものを学んだ方が、人として豊かな頭の中身になれる。サクラソウは親切めかして、丁寧に言った。

「バカは困るぞ。この種一粒で魔法が使えるとか言われて、ほいほい騙されて金を払うようになったらどうする。くだらないと思うことでも、勉強しておけ。そうしたら、ふとしたときに騙されないで済む。花にさえ分かることなんだから、お前がそれを分からないでどうする」

「勉強は、します! 勉強をしたくなくてここに居たいわけじゃ、ありません!」

「ハイハイ」

 サクラソウは、マリーをすげなくあしらった。

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