第4話

 マリーは、招待されて屋敷内に入った。扉を開け放つと、危惧していたほど埃臭くない。涼しい風が吹き抜けて、マリーはほう、と息をつく。

「使用人も、先代が亡くなられてすぐに暇を出して返してしまいまして……掃除が行き届いておらず、申し訳ございません」

「……執事さんおひとりで、管理を?」

「えぇ、多少手伝う者もありますが、何しろ屋敷が広大です。一部屋ずつ手入れしてはいますが、妙な盗賊が入らないよう玄関や戸を閉めているので、どうしても、お化け屋敷みたいな雰囲気が出てしまいます」

「お化け」

 ひっそりと、マリーは呟く。お化けは、怖い。

 ヘルベチカの視線を受けて我に返った。慌てて進む。

 ヘルベチカが頑として譲らないので、鞄は彼女に預け、マリーは階段をそっとのぼった。小さい頃の記憶通り、かなり段数が多い。

(私、そんなにまだ小さいかしら……すごく広く感じる)

 目の前の青年は軽やかに進み、まるで体重を感じさせなかった。

(足が長いと、いいな……)

 そうこうしているうちに階段が終わる。廊下を歩き、二階の窓際を通って、広いベランダに案内された。

「わあ」

 屋敷の周辺には緑が多い。遠くには、街の教会や家並みが、飾りみたいに散らばっていた。

 ベランダから、ほんの少しだけ庭が見えた。木々が茂って、見通しは悪い。

 この屋敷には上の階もあるようだが、先程説明したとおり使用人もおらず使っていないので荒れていると、執事は告げた。

「お化けが出ても助けに行けないかもしれませんから、勝手に上階に行って、迷子にならないでくださいね」

「あの……お化け、出るんですか?」

「なにぶん、古い建物ですので……私の知らない幽霊が、いるのかもしれません。気をつけて。探検する際には私に教えてくださいね」

 恐れさせられたマリーは、こくこくと小刻みに頷いた。


 すずやかな香りのするハーブをさして、お茶が饗された。

 祖母とのつながりを聞きたい、と思ってマリーが顔をあげると、執事は先手を打って口を開いた。

「先程のサクラソウのことですが――サクラソウは庭の周囲に植えられています。ルブラン様は、人として実体化したサクラソウに、庭を守ってねと頼んだようですが――ご覧になった通り、彼は細腕の子どもです。庭を荒らそうとする不届き者が現れても、庭を守れるかどうか。庭の周りの塀や柵を覆い尽くす蔦や茨が、実のところ防波堤みたいなものですよ」

 非難がましく響きそうな言葉だったけれど、執事の顔つきが柔らかくて、年下を見守る年長者の視線を感じさせた。

 マリーはカップを置く。真っ白な磁器には、底に祖父の家の紋章が入っている。その、藍色の染料も、祖父が船一つで運んできた、遠い異国の品だった。

「あの、サクラソウだけが人になるんですか? 蔦や茨も、人の姿にならないんですか?」

「なりますよ。以前は多くの花が、庭の中でルブラン様と言葉を交わしました。人に化けないものも多かったのですが、そのもの達は花や実をつけて精一杯生きました。自分達を愛でて、いとおしいと思ってくれる人間の前で、それに応えまいと思う花はいませんよ」

「祖母は、花々に愛されていたんですね」

 吹きちぎられた葉が、庭から飛んでくる。髪を押さえて微笑んだマリーに、執事は優しく笑みを返した。

「ルブラン様が庭を大事にされたからです。私のことも、目をかけてくださいました。屋敷の管理を任せられて、私は一人ででも、守り通そうと誓ったものです」

 それで、密かに武術の稽古までしていたのだと、執事は柔らかな容姿に似つかわしくないことを言ってみせた。

「おばあさまの大事にしていた庭」

 マリーは小声で口ずさむ。季節は初夏に近づいて、風が涼しい。

 異国と貿易をしていた祖父。若い頃の祖母が、当時実家の屋敷を一歩も出ずに引きこもっていたのを、連れ出して、庭を与えた張本人だ。

「私に、できるかしら」

 サクラソウの嫌がる理由が、分からないわけではない。庭を触ったこともないマリーが、祖母の庭に手を出して、もしも壊してしまったら。何よりも、祖母と大事にしてきたあの人達の思い出を、知らずに、壊してしまうかもしれないのだ。そのことは、少し怖い。

「私、みんなの気持ちを、台無しにしてしまわないかしら……」

 真顔で聞いていた執事が、こそばゆそうに微笑んだ。恥ずかしくなって、マリーは首をすくめてしまう。

「ごめんなさい。弱音を吐いてしまいました」

「いいえ。私は嬉しいんですよ。お若い方が、この庭を愛そうとしてくださることが、嬉しくてたまらないんです」

 だって、誰にも見てもらえないなんて、寂しいじゃないですか。

 呟いて、執事は、広い空を見上げる。青空の色を映して、青紫の瞳は水のように輝いた。

「もしも望まれるのなら、ここにしばらくご滞在されますか」

「えっ、いいんですか」

「初めから、そのおつもりでしょう」

 マリーの荷物とヘルベチカの不機嫌な顔で、大体予想がついていたようだ。

 執事の話は、マリーにとってありがたい。

「しばらくここにいて、頑張ってサクラソウの人を説得してみせますね!」

 執事は「わぁサクラソウも大変だなあ」みたいに他人事の感想をうっすらと呟いたが、マリーにそれと悟らせなかった。

 ベランダから外の景色を見下ろしているうち、マリーは、下にサクラソウの少年がいることに気がついた。立ち上がって駆けてゆく。ヘルベチカはついてこなかった。執事を相手に、一節、話をぶつけるようだ。

 サクラソウはマリーを見て、また来たな、と、わがまま放題の小さい子ども相手みたいに、面倒そうな顔をした。

「帰れ」

「帰りません!」

 サクラソウに首根っこを掴まれても、「帰りませんったら帰りません」と、マリーは言い返し続けた。

 結い上げた髪の、後れ毛が、ほつれてぼさぼさと首筋にあたる。後でヘルベチカに「まぁ!」と言われることだろう。

「お前もたいがいしつこいな」

 暑さを感じていないふうなサクラソウの、ひやりとした手が、マリーの首から離れていった。

 サクラソウが腕組みする。

「じゃ、百歩譲って、お前が庭を継ぐとしてもだ。どうやって庭の面倒を見る? 具体的な案はあるのか?」

 ――最初から思っていたけれど。サクラソウは花のくせに、ずいぶんと口うるさい。

「会計役の執事の爺さんが、ここの維持費について散々文句を言ってたんだよ。維持費ができるだけかからないような方法はあるか?」

「アルバさんですか?」

「ありゃ若造だろ」

「でも、執事だってご自分でおっしゃって――」

「会計をやってた爺さん執事は、ルブランのばあさんが死んだときに辞めて、田舎へ引っ込んだ」

「え」

 サクラソウは「それで、案も何もないわけか」と、嘲笑する手前の、冷たいため息を吐き出した。

 ここで負けてはいけない。マリーはぐっと顔をあげた。

「肥料については、葉を集めて堆肥にします。油かすや動物性の肥料は、仕入れないとならないけれど……仕入れよりも地産地消を望むのであれば、鶏を飼う……とか……それで肥料代は少し浮きます」

「そのくらいまでなら、誰にだって考えつく」

 それみろ何もないだろう、とばかりに見下ろされ、マリーはむっとして口を閉ざした。

「何だ」

 反抗的な気分だったので、マリーはサクラソウを睨んでみた。

「貴方は、文句ばっかり。他に何か、言えないんですか」

「言えないさ。だって俺は、たかだか花の分際なんだ。人間の決めたことや自然全体の事象に左右される。気に入られなきゃ引っこ抜かれて終わりだしな」

 マリーは何だかがっかりした。

「そんな、貴方が花だっていう、当たり前のことを理由にしないでください。貴方には手も足もあって、ものが言えるのだから、本当に花の形しかないものよりは、よっぽど自由で、やれることがあるはずですよ! 自分自身を縛り付ける言葉なんて、嫌いです」

 はっきりと言い返したマリーに、サクラソウはしばらくぽかんとした顔をしていた。

「……何だあれ……」

 むっとしすぎていたマリーは、彼が何かを言う前に、さっさと屋敷に駆け戻っていた。

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