第2話

「さぁ……彼が誰なのか、ということも含めて、彼本人にきちんと尋ねるべきですが……。ここはいったん、帰ってもよろしいでしょう。行き違いについても、実家からご連絡すればよいはずです」

 しょぼくれたマリーは、ヘルベチカに肩を叩かれ、ため息をついた。

 まぁ、大歓迎されないかもしれないことくらい、予想がついた。ついていた、はずだ。ちょっと浮かれていたので、庭をすぐ見せてもらえると思っていたけれど――祖母が亡くなって随分経つ。数ヶ月の間、放置されていたのだから、祖母の指示なく勝手に庭をいじれなかっただろう彼らが、不安と心配と悲しみで苦しんだであろうことも、想像がつく。

「私、無神経に悪いことをしたのかしら……」

 だとしても。ここで退いてしまったら、おしまいだ。

 歩きだしたマリーは、小走りになって少年に追いついた。険しい顔をされたが、一生懸命に話しかける。

「どこに住んでいるんですか?」

「知らない」

「知らないんですか? では、ここには貴方の他にも、たくさん人がいますか?」

「そんなこと知ってどうする」

「私、知りたいんです。おばあさまが愛した庭と、人と、出会いたいんです」

「へえ」

 無感動な反応だった。足首に、その辺に生えた草が当たって、むず痒くなった。

 マリーは諦めずに話しかけ続けたけれど、そこから先も、相手の対応は変わらなかった。

「私、刺繍が好きなんです!」

「へえ」

「ラノの詩の、新しい本が出ましたね。その中に出ていたきらきら星、すごかったですね」

「詩は読まない」

「お料理は、何がお好きですか?」

「食わない」

 それはさすがにないだろう。マリーもだんだん、気が腐ってきた。

「貴方は絶対に名前を教えてくれないつもりなんですか。カッコ仮さん」

「何だそのカッコ仮っていうのは」

「分からないから仮称です。庭は、とても美しいと、祖母から聞きました。私が継げば、おそらく庭のかたちは維持されると、家の者達も言っております。普通の庭ではないから――貴方がたが、魔法使いかどうか分かりませんけれど、普通の庭師だったりしませんか。通常の剪定などだけではこの庭を守れません。この庭は魔力を必要としているはず。どうか私を受け入れてください。私、祖母と同じ種類の、魔力だけなら、持っています」

「何か妙な言い草だな。押しかけ女房っていうか」

 マリーの言葉は、プロポーズか何かみたいに響いてしまったらしい。

 複雑な気分になって、マリーは黙った。

 庭の周囲の道は無舗装だった。むき出しの土はでこぼこしていて、歩いていると時折蹴躓く。ちらり、と少年に無表情に見られると、見下されているように思えて、マリーは必死で気をつけて歩いた。途中、ヘルベチカとすれ違う。彼女に二回目に出くわして気がついたが、どうやら少年は、ほぼ円形になっている庭の外周を、ぐるぐる歩いて回っているらしかった。

 もし少年が駆け出しても、多分置いて行かれることはない。そう考えると、マリーは少しほっとした。

 深く、息を吸い込む。清涼な香りがした。緑が多いため、小鳥や虫も多く、鳴き交わす声が聞こえる。時々足下にみみずがのたくったり、毛虫が落ちてきたりもする。虫が出るたびにマリーは「ぎゃっ」と短い悲鳴をあげ、ヘルベチカは駆け寄ってきたそうな気配を醸しだした。ヘルベチカはそれでも、入口付近に立って、マリーをそのまま自由にさせてくれた。

「この、庭の周りのサクラソウ、とてもかわいいですね。祖母が植えたのでしょうか」

 マリーを振り切れないことが分かった少年は、盛大に舌打ちした。

「とにかく! 帰れ。ここは、お前みたいなやつが来る場所じゃない」

 ヘルベチカの前まで辿り着いてから、少年は声を荒げる。

「でも」

「いいから! 帰れ! お前みたいなお嬢様に何ができる。堆肥を運んで土を作って、枯れ葉は集めて、実も集めて、種類ごとに植生を分けて。そういう事細かな手入れが、できるのか! できないだろう!」

「今はまだできません。足手まといかもしれませんが、これから学びます。教えてください。祖母がいなくても庭に来てくれていた貴方なら、きっと庭を大事に思っていて庭への入り方も知っていると思うから、お願いしているんです。――庭への入口と、入り方を教えてください、手入れの仕方を教えてください。お願いします」

「嫌だね」

 びっくりするほど深い闇色をした瞳で、少年はマリーを睨み付けた。その黒は、ほんの一部分だけ、足下のサクラソウを映し混んでいて、明るい。

「しつこいんだよ。お前は。お前にできることは、ない。何一つ、だ!」

「でも」

 マリーは思わず手を伸ばす。腕を掴みかけたマリーを、少年は嫌悪をこめて突き飛ばした。

「お嬢様!」

 ヘルベチカが叫びをあげる。尋常ではない悲鳴だ。マリーは胃の腑が縮みあがった。氷の塊を飲み込んだみたいな気持ちの悪さがあった。

「だめ! ヘルベチカ!」

 ヘルベチカの輪郭が歪む。青白い炎が彼女の全身を包み込んだ。

「だめったら」

 マリーは尻もちをついた格好で我に返った。這いずって、ヘルベチカを止めに行く。

 サクラソウの花が風に揺れている。吹きちぎられた木の葉が、マリーの肩や頭に触れて引っかかった。

「ヘルベチカ! 私は大丈夫よ」

 大きな、獣型の風が辺りに渦巻く。口が耳元まで裂け、大きな三角の耳を持った異形のヘルベチカ。その首元にしがみついて、マリーはぶらさがった。

「大丈夫。皆を傷つけないで」

 片目をすがめて距離を置いた少年は、それ以上ヘルベチカが暴れ出す気配がないのを確認してから、ため息をついた。

「とにかく、それほど大切なお嬢様なら、大事に家に囲っておけ」

 少年はシャツについた砂をはたいて、歩き去った。庭ではなく、屋敷の裏の方へ。

 マリーは追いかけようとしたけれど、人型になったヘルベチカに抱きしめられて動けなかった。

「ヘルベチカ、そこまで心配してくれなくても大丈夫よ。失礼なことをされても、私、いきなり彼に殴りかかったりはしません」

「お嬢様が人に危害を加えることなんて、心配していません! そんなことのできる方ではありませんからね! そうではなくてお嬢様が怪我をしてしまったらと思うと! お怪我はありませんね?」

「ヘルベチカは本当に心配性なわりには……」

 マリーは言葉を濁す。

 強い魔力を持つ魔女だったメアリベルの、孫であるマリーは、もしかしたら、と思っているのだ。

(もしかしたら、かっとなって、誰かを傷つけるために魔法を使うかもしれない。だからヘルベチカは、心配するべき……私ではなくて、それ以外の人が傷つくことを……)

 二人して黙り込んでいると、足音がした。

「さっきこちらに、黒髪の少年が来ませんでしたか?」

 場の沈鬱さを意に介さず、ツバメのように軽やかに、声がかけられた。

 ヘルベチカの腕をほどいて、マリーは屋敷の方へ目を向ける。新緑色の目に、それなりに背の高い、眼鏡をかけた青年の姿が映り込んだ。

「どなた……?」

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