第10章 死神の助手席

 翌日、兄の様子を見にいくと、圭一はかなり落ち着きを取り戻していた。今は頭と首が少し痛むだけだという。

「本当にばかなことしたよ」

 圭一は寂しげな表情で笑った。

「車のこと、悪かった。一つきりの絵だったんだろ」

「いいのよ、もう」

 正直な気持ちだった。今の律子にあの天使の微笑みは辛すぎる。

「もう、死のうなんて思わないでね」

 律子が言うと、圭一は力なくうなずいた。あんな思いは二度とごめんだ、と言う。 

「死ぬ直前て、死神が迎えに来るんだよ」

 あの髑髏、怖かった……とつぶやいている。

「お兄ちゃん、化学の先生でしょ」

 そういう話、嫌いじゃなかったっけ、と呆れていると、

「本当に見えたんだよ」

 怯えるように言った。

 兄が言っているのは、シルビアの死神のことだろうか。でもシルビアはずっと兄の後ろを走っていたのだから、そのリアガラスに描いた絵が兄に見えるはずはない。まあ、お兄ちゃんが懲りたと思ってるならいいか。

 懲りたといえば、恵子についてはどう思っているのだろう。昨日の病室での恵子とのやりとりを話していいものか律子が考えていると、圭一が口を開いた。

「桜田君、さっき来てくれたよ」

「え、ここに?」

 これから病院を出ると言って、訪ねて来たのだという。

 まさか一晩経ってから怒りが沸き起こったのだろうか。そうでないことを祈りつつ、律子は聞いた。

「なんて言ってた?」

「本に挿まってた和歌の話、覚えてるかい?」

「うん」

「たとえあれが偶然だったにしても、僕たちは再会した」

 お兄ちゃん、まだそんなこと言ってるの。

 律子がたしなめようとすると、

「学校を途中でやめたから、あまり友達との思い出が残っていないんだそうだ。いつか逢おうという川の流れは、懐かしい友人同士の縁のことだと考えたい。彼女、そう言ってくれたよ」

 律子は満ち足りた表情をして語る兄の顔を見つめた。

「良かったね」

「僕は12年間想い続けたけど、彼女はそれに値する女性だと思う」

 S図書館から初めて戻った日の、興奮気味の目ではなかった。この様子ならきっと立ち直ってくれるだろう。

「世の中の男が放っておくはずない。結婚していて当然だよね」

「そうね」

 律子は昨夜の様子を思い出した。病室に飛び込むなり妻を抱き締めた孝志。その仕草や妻へ向ける眼差しに、誰であってもこの夫婦の間に入りこむことはできない、と思った。

「世界一幸運な彼女の夫が、どんな人かは知らないけど」

 知らなくて良かったと思う。孝志のあの調子では、兄など怒りの視線だけで吹っ飛ばしてしまうだろう。

「きっといい人なんだろうね」

 兄は、恵子の夫が、律子の好きだった男だと知っていて言っているのだろうか。

 そう、すごく――本人曰く、世界一いい男。


* * *


 それから一週間ほど経った。

 孝志と青田を乗せた天翔ける龍のバンがスタンドにやって来た。もうこの店に孝志が来ることはないだろうと思っていた律子が驚いていると、

「ここが一番感じいいからな」

 孝志が言った。以前と同じ笑顔だ。

「でも知り合いだからって手抜いたりしたら」

 すぐよそに行っちまうからな、と憎たらしいような口ぶりだ。律子は孝志の心遣いが嬉しかった。

「手抜きなんてしたことないでしょ」

 律子はふくれてみせたが、やはりそのままでは気が済まなかったので、兄が起こした事故を改めて孝志に詫び、恵子の安否を尋ねた。

「もう気にすんな。おれのスイートハニーもぴんぴんしてるから」

 孝志は言ったが、少し前まで兄は、後で出てきたむちうちの症状に難儀していたから、恵子も似たような痛みに苦しんだだろうと思う。心の中で詫びた。

 律子は助手席の青田にも呼びかけた。

「本当にありがとう」

 一度礼には出向いたものの、律子としては足を向けては寝られないような心境だ。重ねて礼を言っていると、孝志が口を挟んできた。

「全員ほとんど無傷だったのは、幸運の死神のおかげだぞ」

「そっすね」

 竹中さん、本当に青田君のこと尊敬してるのかな。

 死神のシルビアは修理中だという。兄と恵子を助けた時、傷つけてしまったのだろう。

「そっか、ごめんね」

 律子が修理代は自分に請求してほしいと言うと、いや、と手を振った。

「自分で直せるから。こういう時、板金屋は便利っす」

 思わず、拝みたくなった。

「ど派手な車だから、すぐ分かるよ」

 森元がやってきて、孝志と話し始めた。

 なぜかこの二人が話すと漫才のようになる。律子が笑いながら助手席側のフロントガラスを拭いていると、

「車、残念でしたね」

 青田が話しかけてきた。

「今度買うのもZすか」

「どうかな」 

 さすがに今は次の車のことを考える気にはならない。そのうち考えると律子が言うと、青田は黙ってうなずいた。

 孝志が森元と何か言って笑っているので、律子は青田に釣銭を渡した。

「首藤さん」

 青田が領収書を見て、神妙な顔をしている。

「え?」

 何か間違ってたかな。律子が顔を寄せると、青田は一瞬視線を合わせたが、すぐに逸らした。良かったら、と小声で言う。

「シルビアの助手席――空けてありますから」

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Dragon-Jack Co. 天使がくれた相聞歌(ラブソング) 千葉 琉 @kingyohakase

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