第9章 天使の微笑み
青田に言われて先に救急車で病院へ向かった律子は、意識が戻った兄の無事を確認した後、恵子の病室へと向かった。
謝って許してもらえることではない。そうは思ったが、とにかく一度頭を下げずにはいられなかった。
幸い恵子も気がついたところのようで、顔色はひどく青ざめていたが、律子の姿を認めると横たわったまま会釈した。
律子がおずおずと自己紹介すると、恵子はうなずき、自分がどういうわけで病院のベッドにいるのか分からないと言った。
「仕事の帰りに、私の前で急にうずくまった人がいたから声をかけたの。そこまでは覚えているんだけど」
律子は申し訳なく思いながら、おそらく恵子を拉致しようとした圭一が仕組んだ事で、薬品でも嗅がせたのだろうと説明した。
「兄はあなたを道連れに、車ごと海に飛び込もうとしたんです。青田君が止めてくれなかったら……」
律子は深く頭を下げた。
「本当に何とお詫びしたらいいか」
申し訳ありませんでした、と律子が固く目を閉じてうつむいていると、恵子が言った。
「首藤く――お兄さんは?」
「軽い怪我で済んだみたいです。さっき意識が戻りました」
まだ混乱状態にある、とは言わなかった。
「そう。良かった」
恵子が微笑んだ。怒ってないのかな。律子が不思議な思いで恵子を見ていると、恵子が体を起こそうとして身を傾けた。襟元から何かがこぼれ出る。ネックレスだ。孝志と同じように細いチェーンを指輪に通している。そうだ、彼の奥さんなんだ。左手に指輪をしていないからと、兄妹揃って勘違いしていたのが滑稽に思え、同時に哀しくもあった。
その時、いきなりドアが激しく叩かれたかと思うと、孝志が飛び込んできた。なぜか潮の香りがした。
「恵子?」
夫の呼び掛けに天使の微笑みで応じた妻と目が合うと、孝志はベッドに駆け寄り、その体を固く抱き締めた。
「冷た――痛い、痛いよ」
恵子の言葉が耳に入らないのか、孝志は離れない。何度目かの呻き声で、孝志はようやく体を離した。
「無事で良かった」
妻の頬に手を当てて、孝志がつぶやく。恵子が言った。
「健太と美春は?」
「健司が見てくれてる」
恵子は安心したようにうなずくと、何か思い出したような顔をして笑った。
「ねえ、どうして濡れてるの?」
「オレが海に放りこませたんすよ」
孝志の後から入ってきていた青田が言った。
「ひどいことするだろ」
孝志がTシャツと首から提げたタオルをつまんだ。これしか買えなかった、となんだか哀しそうだ。青田は呆れたように笑っている。
「ああでもしないと、マジギレしてるたかさんを、オレたちが止められるわけないっしょ」
律子は息を呑んだ。あの場にいた青田の仲間が全員かかっても孝志を止められないとは。もう少し救急車の到着が遅れて、孝志を海へ投げ込むのが遅かったら、兄の命はなかったかもしれない。
「青田君、助けてくれてありがとう」
恵子が言った。
「たかさんを殺人犯にするわけにはいかないっすからね」
「それもそうだけど。首藤君と私を救ってくれて」
青田は照れくさそうな顔で、まあ、良かったっす、とだけ言った。恵子は微笑みながらうなずくと、夫に向かって呼び掛けた。
「約束して。首藤君に何もしないって」
律子は申し訳ないのと、ありがたいのとで胸がいっぱいになった。
孝志は何か言おうとして、大きなくしゃみをした。それから、寒い、とぼやいたあと言った。
「恵子はそれでいいのか」
恵子がうなずいた。孝志はしばらく黙ったままでその顔を見つめていたが、
「分かった、約束する」
そう言うと、深く息をついた。妻の体を包み込むようにして抱き寄せる。
「こんなこと――もう起こるわけねえからな」
ふと肩をつつかれた。律子が顔を向けると青田が微笑みながら親指でドアを指している。
律子はうなずくと、そっと夫婦に一礼して、病室を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます