第8章 天使と死神
次に車を停めた時、律子はコンビニで箱のティッシュペーパーを買った。孝志の車に置いてあった箱の中身を全部空にしてしまったからだ。
「大丈夫か?」
泣いたらなんだか、すっきりした。真っ赤になっているだろう目鼻を隠しながら、律子はうなずいた。
「そっか」
孝志が優しい目をして言った。
「傷つけてしまったんなら、謝る。悪かった」
自称・世界一いい男は、頭を下げると再び電話をかけに行った。やっぱりかっこいいよう。また涙が滲んできた。孝志から目を逸らして顔を上げると、わずかに茜色を残して暮れた空に、点々と星が見えた。
* * *
孝志は思ったより早く戻ってきた。緊張した顔をしている。
「青田君がZを見つけた。R港に向かってるらしい」
律子たちが今いる場所は、R港の近くだ。
「思ったより早めに合流できるかもしれないな」
30分ほど走ると、急に車の数が少なくなった。緩やかにカーブした広い道路を挟んで、倉庫の列が続いている。
「あれ、何台か先、走ってるの死神カーじゃないですか?」
こういう時、世界に一台の車は見つけやすい。後続車のライトに照らされて、髑髏がさらにおどろおどろしく見えた。たぶんその数台前を律子のZが走っているはずだ。
青田の車が左へ折れた。急にスピードが落ちる。
死神を見失わないようにしながら、少し離れてついていくと、ふいに前方が開けて、ちょっとした広場のようなコンクリート地が、黒い海に向かって張り出しているのが見えた。船着場らしいが船は停泊していない。両脇にはシャッターを下ろした倉庫が並んでいる。人気はなさそうだ。
桟橋に入る少し手前でシルビアが停止した。孝志がライトで合図を送る。青田が窓から右手を出して前方を差した。
「先に行け、ってことか」
そのまま徐行してシルビアを追い越そうとした。その時だった。
青田が車を急発進させた。
「何だ?」
急いで後を追ったが、加速力が違う。港に入った孝志と律子が見たのは、海に向かって一直線に進むZとそれを猛スピードで追う青田の車だった。だめ!
「落ちちゃう!」
律子が叫んだ瞬間、凄まじいブレーキ音がした。シルビアが左からZの前に回りこむ。シルビアに押されるようにして、Zの鼻先が右へ逸れた、と思ったら、そのまま倉庫のシャッターに突っ込んだ。
「恵子!」
孝志が車を飛び出した。律子も急いで続く。死神カーから青田が降りるのが見えたので、駆け寄った。
「青田君、大丈夫?」
青田が金髪をかきあげて息をついた。
「あっぶねえ。オレが落っこちるとこだった」
見るとシルビアの左後輪はコンクリートの端すれすれだ。
「オレは、何ともないすから」
あっちを、と言われて指差された方を見ると、無残にひしゃげたZのボンネットから、もうもうと蒸気が上がっていた。二人は?
駆け寄ろうと一歩踏み出した時、青田が何か思い出したような様子で律子を呼び止めた。
「息してるか、見て」
してなかったら、ここ、と胸の真ん中を指さしてから、両手を重ねて上下させた。
「がしがし押してください」
「はい」
「オレは救急車、呼んできます」
「ありがとう。お願いします」
律子の礼に、青田は手を上げて答え、走り去った。
Zの方へ向かうと、孝志が助手席のドアを開けて屈みこんでいるのが見えた。律子は運転席側に回った。
お願い。二人とも無事でいて。
「お兄ちゃん」
圭一はシートベルトに身を預けるようにして気を失っていた。胸の動きで呼吸は確認できた。何度か呼びかけると、兄は少し目を開けた。が、すぐにまた閉じてしまった。
「奥さんは?」
「大丈夫だ」
息してる、と返事があった。二人ともざっと見る限り、目立つ外傷はなさそうだ。
「恵子、返事してくれ」
孝志が妻の肩を叩きながら、何度も呼びかけている。律子も兄へ声をかけ続けた。
「ん……」
しばらくすると、恵子がかすかに呻いた。
「おれだ。分かるか」
「た、かし……?」
「どっか痛いとこないか?」
恵子は何かつぶやいたが、また意識を失った。
その時、爆音の波が押し寄せてきた。振り返った瞬間、強い光に照らされる。こちらへ向かって数十台のバイクと派手な改造車が数台、集まってきた。
律子がおののいていると、先頭の車から青田が降りてきた。律子の顔を見て現状を把握したのか、労わるような視線を返しながらうなずくと、青田はバイクから降り立った数名の方へ向かった。満足そうに手を打ち合っている。
そこへ孝志が近づいていくのが見えた。集団に向かって礼を言い、深々と体を折る。律子も立ち上がり、頭を下げた。
「礼なんかいいっすから」
「ほら、奥さんについてなくちゃ」
大勢からやいのやいの言われている。
「救急車、もうすぐ着くと思いますんで」
青田の言葉に、孝志は再度礼を言い、妻の方へと戻ってきた。
「誠道さん、また伝説作っちゃいましたね」
見ると、肩に刺青を入れた坊主頭が青田に笑いかけていた。
「全然嬉しかねえよ」
この歳になってよ、と青田は苦笑している。
「だってヘタしたら、三人とも夜の海にドボン、すよ」
よく間に合ったよなあ、と感心するような男の声に、
「海にドボン?」
孝志が立ち上がり、青田が笑った。
「ええ。まあ、落っこちるよりかは、鼻っ面当てといて、シャッターに突っ込ました方がいいかな、って」
結果オーライつうことで。青田が言うと、
「そうだ。もう少しでおれの恵子が沈んじまうとこだったんだよな」
孝志の声が低くなった。
「やべえ。そもそもの原因、思い出したか」
律子の方へ向かってくる青田の気配を感じたのと、孝志がしゃがみこむのがほぼ同時だった。孝志の視線が律子のすぐそば――Zの運転席に注がれた。
「野郎のせいか」
孝志の姿が消えた。こっちに回ってくる。
「ぶっ殺す!」
律子は飛び上がった。
「おい、マジで殺しちまうぞ」
青田が律子と圭一を庇いながら叫んだ。
「お前ら、止めろ!」
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