第6章 天使の家族
“他の女なんて”と言っていた兄を思えば、青田が見た助手席の女性はおそらく桜田恵子だろう。ただ、昨日圭一から話を聞いた感じでは、よほどの心変わりをしない限り、恵子が自ら兄の車に乗り込むとは思えなかった。
やっぱり思い切れなかったのかな。お兄ちゃん、まさか彼女を道連れに死のうだなんて思ってないよね。最悪の事態ばかり想像してしまう。孝志を待っている間の20分がひどく長く感じられた。
龍のバンがようやく到着した。律子が駆け寄ると、緊迫した表情の孝志が運転席でうなずいた。事情を察して送り出してくれる同僚達に会釈を返し、助手席に乗り込む。
孝志は青田が走り去ったのと同じ方角に、車を走らせた。
どうか二人とも無事でありますように。律子が両手を組み合わせていると、
「図書館の彼女、結婚してるって言ったよな」
運転しながら孝志が言った。
「ダンナはおれだ」
え?
ぽかんとしていたら、目の前に何か突き出された。写真? あ、真ん中天使の人。本当に似ている。兄が絵を見て騒いだのも当然だ。
「左から美春4歳、恵子、健太8歳。後ろですかしてんのが甥の健司」
みんなお揃いのスカジャンを着ている。楽しそう。高校生くらいの甥っ子だけは苦々しい表情でそっぽを向いているが。
「おれの家族」
ダンナ……家族? 初めはぴんとこなかったが、そのうち頭の中がぐるぐる回りだした。
「じゃあ、お兄ちゃんが勘違いしてて、連れてっちゃった天使って」
「おれのカミさんだ」
「ええっ!?」
兄が人妻を拉致して無理心中しかかってるというだけでもショックなのに。さらに追い打ちをかけるような衝撃的事実を知らされるとは。
「竹中さん、独りじゃなかったんだ……」
ばかだ私、こんな時に何言ってんだろ。
泣きたくなってきた。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。しばらくは言葉もなかったが、これだけは言わなければと思い、律子はなんとか萎えた気力を振り絞った。
「すみません。兄がとんでもない迷惑をかけてしまって」
「律ちゃんが、悪いわけじゃない」
孝志は言ってくれたが、だからといって律子の気が済むはずはなかった。
「お兄さんの話、恵子から聞いた」
「え?」
「歌のことも、後で思い出したそうだ」
百人一首の歌を、一人が二首ずつ覚えるという古文の宿題。書いて覚えるようにと、短冊状に切った藁半紙が何枚も配られた。
「じゃあ、奥さんに当たった歌のうちの一つが、たまたま」
崇徳院のあの歌、だった?
「みたいだな」
なぜ宿題の短冊が本に挿んであったかは、不明だが、おそらく栞代わりに使っていたのを忘れたまま、本を返してしまったのではないか、とのことだった。
「それを、兄が借りたんですね」
「お兄さん、相当ショック受けてたみたいだって、心配してたよ」
「そうですか……」
奥さんにとってはいい迷惑以外の何ものでもなかっただろうに。人柄については、兄の思い込みではなかったようだ。だが、それだけに今のこの事態が、なおさら申し訳なく思える。
「暗くなってきましたね」
運転席の方を見ると、窓から紅色に染まった雲の群れが見えた。日が長い季節ではあるが、いずれは夜がやってくる。孝志も同じことを考えたのか、
「完全に暮れる前に、見つけたいな」
つぶやくように言った。
「海沿いを探すって言ってたけど、青田君はどっちに行ったんだろう」
「初めは、K海岸の方に向かうって言ってましたよ」
「じゃあこっちは反対側から回ろう。もう少し走ったらコンビニ寄って、電話だな」
孝志の声は穏やかだった。優しくされるとかえって辛いよ。律子はそっとため息をついた。孝志とのドライブも、こんな状況では全然嬉しくない。青田や孝志を一人で待つのが嫌で、ついてきてしまったが、今となってはどこかへ消えてしまいたい気持ちだった。
「お兄さんは、どんな感じの人?」
また問われた。
「生真面目で内気なタイプです。正直言って、こんなに思い込みが激しいとは思わなかった」
昨日、家に帰ってきた時点では、兄はそれほど取り乱していなかったと律子は言った。
「運転しながら一人で考えてるうちに、やっぱりもう一度会って、話がしたいって思ったのかも」
「12年前の約束を果たせって?」
「ええ、もしかしたら」
「どうして、危険だ、って思った?」
一瞬迷ったが、律子はスケッチの大量コピーについて話した。
「350枚っていう辺りで、かなり変なんですけど」
出勤前にそっと兄の部屋を覗いたら、350枚の天使は大量の紙くずに変わっていた。それも怒りに任せて引きちぎったのではない。ものさしでも当てながら破ったのか、すべて紐のように細く裂いてあった。何時間やってたんだろう、そう思ったら怖くなった。
「だから、思い詰めたら何するか分からないな、って」
車ごと海に飛び込むかも。そこまでは言えなかった。
「そうか」
「本当にすみません」
兄のこと、許せないでしょうね。と言うと、
「ああ」
前を向いたままで、孝志は言った。
「ひょっとすると、殺すな」
悪寒が背中を這い上がった。律子のことを気遣ってくれてはいるが、本当は怒りと不安を押さえ込むのに必死なのだ。
「でも心配ない。絶対、無事だから」
自分自身に言い聞かせるような言い方だった。
「大丈夫だ」
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