第5章 助手席の天使

 翌日、律子は仕事をしながら一日中、兄のことが気になって仕方がなかった。話をすると言っていたが、話の流れによっては、12年の想いを裏切られたと逆上することもあり得る。

 図書館に電話して、かなり危険な兄の思い込みについて、事前に桜田恵子に伝えておいた方がいいかとも思った。だが、どうなるか分からないうちから不安を煽るのも、と思い直した。

 大人の二人が話をするのだから、大丈夫だろう。兄を信じよう。仕事の後、仲間に食事を誘われたが、律子は断って家で兄の帰りを待った。自分でも意外なほど、兄のことが心配だった。

 圭一は思ったより早く、帰宅した。

「どう――」

 だった? と声をかけるまでもなかった。

 兄はうなだれた頭を静かに横に振った。不治の病にかかったとでも宣告されたかのようだ。

 何となく予想はしていたが、何といって慰めていいのか分からない。ただ律子が案じていたほど、圭一は取り乱しておらず、律子は少しほっとした。

「今日は暑かったね」

 冷えた麦茶を差し出すと、圭一はしばらく茫然としていたが、やがて手を伸ばすと一気に飲み干して、大きなため息をついた。

「全部、僕の思い込みだったみたいだ」

「そう……」

「本のことはかすかに記憶にあるけど、歌のことは覚えていない、偶然じゃないかって……」

 桜田恵子は、その言葉をどんな風に兄に伝えたのだろうか。哂ったり呆れたりされても仕方がないが、できれば思いやりある態度であってほしいと律子は願った。

「彼女、結婚してた。子どもも二人いるそうだ」

 兄の12年は何だったのだろう。本に偶然挿まれていた和歌を愛の言葉と信じ込み、ずっと一人の女性を想い続けていたなんて。もちろんそう思い込んだのは兄の勝手なのだが、何とも言えない後味の悪さが律子の胸に残った。

「ご飯、どうする?」

「ほしくない」

 ぽつりと言うと、圭一は立ち上がった。

「律子」

「なに」

「明日、車貸してくれないか。有休取って気分転換にドライブでもしてくる」

 少し心配ではあったが、律子はうなずいた。朝早くから出掛けるというので、車の鍵を渡すと、圭一は自室に入っていった。

 やりきれない気分のまま一人簡単に夕食を済ませて、律子が自分の部屋に戻ろうとした時、兄の部屋から奇妙な音が聞こえた。シャーッ、シャーッ、と一定のリズムで続いている。

 聞き覚えのある音。事務作業を連想した瞬間、音の正体が分かった。350枚のコピー。

 兄は、天使を引き裂いているのだ。


* * *


 翌日、律子が目を覚ましたのは、昼近くだった。結局一晩中もやもやしていて、ようやく眠れたのが明け方だったので寝過ごしてしまったらしい。今日の勤務が遅番でよかった。

 兄が出て行ったのも気がつかなかった。

 大丈夫かな。昨日のショックから早く立ち直ってくれるといいけど。

 その日、スタンドは店長が青くなるほどヒマだった。ここまで客が少ない日も珍しい。

「5時半か。今日は早仕舞いしちゃいます?」

「まだ明るいしね、そうしたいよねえ」

 と言っても、もちろんそうはいかない。ぶらぶらしていても仕方がないので、律子が掃除をしていると、黒のシルビアが軽やかに滑り込んできた。

「あ、死神カーだ」

 噂の死神は、車のリアガラスを塗りつぶした上に描いてあった。この車に追越しされたら嫌だろうな。でも絵は悪くない。

 律子以外の従業員三人がシルビアの運転席を取り囲むと、

「なんすか、みんなして」

 青田は笑った。

「今日、めちゃくちゃヒマなんだよ」

「オイル交換してかない?」

「洗車いかがっすか~」

 同僚達の言葉に、

「何で。今自分で洗ってきたばっかすよ。ピッカピカでしょ」 

 窓も拭かなくていいと言っている。

「死神、かっこいいね」

 律子が同僚の頭越しに伝票を差し出すと、青田は驚いたような顔をした。

「あれ、今日休みじゃなかったんすか?」

「どうして?」

「さっき、天使のZとすれ違いましたよ。運転してんの、男だったけど」

「それ兄貴。車、貸したの」

「なんだ」

 青田がほっとしたように笑った。

「オレ、実はちょっとショック受けてたんすよね。助手席にいるの首藤さんだと思って」

「他に誰か乗ってたの?」

「ええ、顔はよく見てないすけど。女の人」

 いきなり殴りつけられたような気がした。

 無言で天使の絵を引き裂いている兄の姿が目に浮かんだ。

「どうしよ! お兄ちゃん止めなきゃ」

「どうしたんすか」

「青田君、あの天使のモデル、誰だか知ってる?」

 青田が戸惑いながらうなずいた。

「隣にいたのきっと彼女よ。危険だわ」

 律子は兄と桜田恵子の関係をおおまかに説明した。青田は少し考えて言った。

「お兄さんが行きそうな場所、分かります?」

 律子は額を叩きながら考えた。

「たぶん、海かな」

 妹ながら兄の趣味趣向をほとんど知らないので自信はないが、確か唯一といっていい趣味が海釣りだったと思う。

「そう言えば」

 いつだったか、釣りから戻った圭一が懐かしそうに話していた。南の海岸沿いは、兄妹が生まれ育った海辺の町によく似ているのだと。

 ただ、具体的な地名は聞かなかった気がする。

「ごめんなさい」

「いや、でもその感じだと、やっぱ海っぽいすね」

 それだけでも分かって良かった、と青田は律子を慰めるように言った。

 それから同僚の一人に公衆電話の場所を聞くと、車を降りて電話をかけに行った。

 青田は戻ってくると、律子に言った。

「オレ、Z追っかけますから」

 それから二つ三つ、律子に指示を与えた後、猛スピードで車を出した。

 律子は青田に言われた通り、すぐに孝志に電話した。そして、落ち着けと自分に言い聞かせながら用件を伝えた。

 自分の勘違いに気づいた兄が、ひどくショックを受けていると思われること。そしてその兄が、桜田恵子と思しき女性をZに乗せて走っていること。

「青田君が今、探してくれてるんですが」

 孝志が外へ出る場合には、連絡が取れるように誰かが家にいるようにしてほしい、とも伝えた。

「分かった」

 孝志がようやく声を発した。

「あの。彼女のお宅にも報せた方がいいですよね」

「そっちは大丈夫。心配しなくていい」

 孝志もすぐに家を出ると言う。私はどうしたらいいんだろう。とても家で待っている気にはならない。考えていたら、律ちゃん、と呼びかけられた。

「一緒に行くか?」

「いいんですか」

 心配だろ、と優しい声で言われた。

「なるべく早く行く。そこで待っててくれ」

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