第4章 天使がくれた相聞歌
せっかく二人きりで話ができたのに、なんで話題が他の女の人なのよ。それも竹中さんが好きかもしれない人。しかも美人の人妻。
むかむかしながら家に帰ると、熱に浮かされたような兄が出てきた。
「仕事終わってから急いで図書館行ってみたんだけど、彼女帰っちゃってたよ」
運命の人と再会してから、兄は人が変わったようになった。怖いくらい上機嫌だ。仕事から戻った律子をねぎらい、キンキンに冷やしたビールまで出してくれた。
こうして兄妹で食卓に向かい合っていると妙に改まった気になってくる。以前の圭一に自分から話し掛けようという気が起きなかったのは確かだが、一緒に住んでいて、今までいかに会話が少なかったか分かった。
“図書館の彼女、もう結婚してるよ”
孝志の言葉を伝えたら、兄はどんな反応をするだろうか。ここ二日の変わりようを見ていると、想像するのが怖い気がした。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「昨日話してた人のことだけど」
もう少し聞いてもいいかと尋ねると、圭一は満面の笑みを浮かべた。
「図書館で12年ぶりに会った時、二人でどんな話したの?」
結婚しているなら、それらしい話がでるはずだ。
圭一は嬉しそうに、隣町の図書館を訪ねた理由から話し始めた。授業で使いたい資料がSの図書館にあると聞いて、わざわざ出向いたのらしい。
「急いでたし、思ったより広かったから、カウンターに資料の場所を聞きにいった。そしたらそこに彼女がいたんだ」
図書館のカウンターで応対する天使。どうもぴんとこない。
ともかく12年ぶりの再会はどんなに劇的だっただろう。ドラマみたいに抱き合って泣いた? まさかね。
「初めは見間違いかと思った。でもどう見ても桜田君本人だ。泣きたいほど嬉しかったけど、あまりに突然だったし、胸が苦しくて、何も言葉が出てこないんだ」
「やっぱり、そういうもんなんだね」
「僕たち、何も言えないまま、しばらく見つめ合ってたよ」
圭一は、どこか遠くを見ながら言った。
「そして、僕がうなずいたら彼女もうなずいた。それで充分だった」
兄によると、桜田――桜田恵子はぱっと頬を押さえて言った。
“何年ぶりかしら! こんなところで会えるなんて”
またこうも言った。
“懐かしいわ”
圭一が言うには、涙ぐんでいるようだったという。
「他には?」
「家は近くなのって聞かれたから、そうだと言ったら“じゃあ、またあえるわね”って。17歳の時のままの笑顔だった」
「で?」
「それだけ。忙しそうだったからね」
「え、そうなの?」
結局、肝心なことは二人とも何一つ話していないのだった。
「じゃあ、お互いの近況とかってまだ分かんないんだ」
「うん、これから徐々に話すよ」
時間はたくさんあるからね、と夢見るような表情だ。胸が痛んだが、律子はなるべく穏やかな調子で切り出した。
「あのさ。お兄ちゃんと同学年なら、彼女も29歳だよね」
「そうだよ」
「美人だしさ。ひょっとして、もう結婚してる、ってことないかな」
「結婚? まさか。僕という男がいるのに」
圭一は話にならない、というように笑った。
「それに、僕達が一緒になることは12年前に約束してあるんだよ」
* * *
「再会したのが図書館っていうところも、運命的なんだ」
圭一はしみじみと言った。
「高校の時、僕も彼女も図書委員だった。2年になって初めての集まりで顔を合わせて。僕はその日のうちに、美しく聡明な彼女に恋をした」
お兄ちゃんたら、こんなセリフを恥ずかしげも言っちゃうんだから。こっちがこそばゆくなってくる。絵に描いたような優等生だと言われていた兄の学生時代に、恋の思い出があったとは。
「昔から美人だったの?」
「うん。あの天使の絵、そのままだよ」
「じゃあ、ライバル多かったんじゃない?」
「さあ、どうだろうね」
やはり一直線タイプだ。周りが見えていない。
それにしても、恋愛に積極的な行動をするとは思えない兄が、どうやって天使の心を射止めたのだろうか。
「お兄ちゃん、なんて言ったの?」
「え?」
「彼女によ。なんて告白したの?」
「僕は何も言ってないよ」
うっそお!
律子は喉まで出かかった言葉を必死で飲み込んだ。兄には悪いが、同学年の女子にもてるタイプではないと思う。まあ人の好みはいろいろだから……。
「じゃあ、その桜田さんから?」
「一応、そういうことになるのかな」
彼女の口から直接聞いたわけじゃないけど。圭一が言った。
ちょっと待ってよ!
「どういうこと? 二人とも愛し合ってたっていったよね」
「そうだよ」
「お互い何にも言ってないのに、どうして分かるの?」
胸騒ぎがした。表情や目を見れば気持ちが分かるなどと言おうものなら、絶対に兄を止めなければ。
「証拠、あるよ。変な言い方だけど」
「証拠?」
圭一は立ち上がると、部屋から本を取ってきた。背表紙をこちらに向ける。『武者小路実篤集』? 下の方に数字を記したラベルが貼ってある。
律子の前で本を開くと、圭一は挿んであった紙片を取り出して見せた。藁半紙を切って作ったような短冊だ。
「律子は国文科だったからその歌、知ってるだろ」
“瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに 逢はんとぞ思ふ”
律子はうなずいた。百人一首にも入っている有名な相聞歌だ。圭一が本の表紙を撫でた。
「この本を彼女が借りていたから、僕は次に読みたいと言っておいた。そしたらこれが挿んであったんだ。もちろん彼女の字だよ」
きれいな字……っていうか、お兄ちゃん図書室の本、返さないで卒業しちゃったの? いや、そんなこと考えてる場合じゃない。律子が頭を振っていると、圭一が続けた。
「たくさんの和歌がある中で、桜田君があえてこの歌を選んだのはなぜだと思う?」
「さ、さあ」
嫌な予感がしてきた。
「あんなに優秀だったのに、家庭の事情から、彼女は中途退学しなくちゃならなかった」
まるで自分の落ち度でもあるかのように、圭一は語った。
「だから、学校を去る直前に彼女は僕にこの歌を残したんだ。たとえ今は引き裂かれても、いつか必ず一緒になろう、って」
自分の気持ちを、同じ想いを詠った恋愛歌になぞらえた、というわけだ。
「しかも『愛と死』のページに挿んで」
思わず唸った。
これは恐らく、いやほぼ間違いなく兄の思い込みだ。律子には和歌も、それが挟んであった恋愛小説も、偶然が重なった結果としか思えなかった。そもそも愛のメッセージを贈るのに、藁半紙に鉛筆書きしたりするだろうか?
仮に当時、桜田恵子がメロドラマのようなロマンスを好む女子学生で、自分の思いを込めた和歌を兄に贈ったのだとしよう。
でも、それは12年前の話だ。
「時間が経ちすぎているから、約束なんてきっと忘れてる、律子はそう思ってるんだね」
律子は黙ってうなずいた。
「彼女はそんな人じゃないよ」
腹の中が重苦しくなってきた。
「お兄ちゃん」
律子は言った。
「冷静に聞いてくれる?」
「どうしたの。怖い顔して」
「実はね。彼女、結婚してるらしいの。ある人がそう言ってた」
お願い、壊れないで。祈るような思いで見ていたら、圭一はふん、と鼻を鳴らして笑みを浮かべた。
「そんなの噂だろ?」
「え?」
「勝手なこと言われると困るなあ。大丈夫。彼女、指輪してなかったもの」
「そ、そうなの?」
「明日、彼女に逢って話してくるから」
心配いらないよ、とまた微笑む。その顔つきを見ていたら、余計に不安が増してきた。
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