第3章 天使のモデルは

 次の日、仕事帰りだと言って、孝志が給油に来た。律子は数分前に勤務時間が終わったところだったが、顔を拝みたかったのと、モデルのことが気になっていたこともあり、そのまま龍のバンに近づいた。

 改めて絵の礼を言うと、孝志はにっこり笑った。

「どう? 天使のZ」

「すごく評判いいですよ。みんなかっこいいね、って」

 微笑んだつもりだったが、心の中の複雑な思いが顔に出てしまったのが自分でも分かった。 

 律子がすぐに背を向けて給油ノズルを取り上げると、

「どうした?」

 孝志が運転席から呼びかけてきた。

「気に入らなかったか?」

「そんなことないです」

「正直に言えよ」

 ほんとです、と口だけ動かして言うと、

「首藤様」

 今度は窓からにゅっと顔を出してきた。

「ご納得いただけなかった場合は、代金の半額をお返しさせていただきますが」

 突然、営業マン風になったのがおかしくて、ふっと気がゆるんだ。変な人。同僚たちも言っていたが、たいていの人はこのペースに巻き込まれてしまうらしい。そっと深呼吸して、フロントガラスに向かう。

「本当、気に入ってますって。私の宝物だもん」

「だったらいいけどさ」

 孝志は言ったが、視線は律子の顔に注いだままだ。

「でも、何か変だな」

 心を見透かされるような気がした。迷ったが、律子は思いきって尋ねた。

「あの天使、モデルっているんですか?」

「え?」

 孝志は一瞬戸惑ったようだったが、まあね、と言った。

「って言っても、本人目の前にして描いたわけじゃないし、許可もなく描いちまったから」

 本人が知ったらびっくりするだろうな、とおかしそうに言った。

「でも、なんでそんなこと聞くんだ?」

「兄が恋人にそっくりだって言うんです。新車買ってやるから、あの車譲れって。説得するの大変だった」

「すごい惚れ込みようだ」

 スケッチのコピーについては言わなかった。350枚もコピーを取ったなんて、気味悪がられるに決まっている。

「事情があって離れ離れになってたんだけど、ずっと想い合ってた“運命の人”だとか。昨日、12年ぶりに偶然再会したんです」

 あまり長く窓拭きをしているのも変なので、律子は伝票を取りにいった。

「3850円です」

 ふうん、と律子に札を手渡しながら、孝志は言った。

「夢中になると、その辺のものなんでも好きな人に見えるっていうからな。まして天使だ」

「兄の思い込みですよね。生き写し、っていうのはちょっと大げさかも」

 言っておいて、律子が釣銭を取ってくると、孝志は何か考えているようだった。

「そんなに似てるのか……」

 彼女に片想いでもしているのだろうか、という兄の言葉が頭をよぎった。切ない気持ちでいると、孝志が聞いてきた。

「今、仕事中だよな」

「いえ、実はとっくに終わってます」

「残業? この世界一いい男の顔が見たくて?」

「え? まあ、絵のお礼言いたかったし」

 律子が苦笑しながら言うと、

「ちょっと、話せるかな」

 孝志は駐車場で待ってる、と言って車を移動させた。

 タイムカードを押して着替えた律子が従業員用の駐車場に行くと、孝志は律子の車の前にいた。つなぎ姿の長身を屈めて天使の絵を見ている。律子が近づくと、体を起こして、にかっと笑顔を向けてきた。

「やっぱ、うまいな。天才だ」

 神業だろ、これは。と他人の作品でも褒めているかのような口ぶりだ。

「そうですね」

 いつかこの人に“沈黙は金、秘するが花”という言葉を教えてあげよう。そう思いながら、律子は孝志の隣に並んで、一緒にボンネットを見下ろした。幸せ。でも、胃の辺りがさっきからずっと、重いままだ。

「お兄さんが言ってた“運命の人”だけど」

 どんな人か聞いてもいい? と急に真面目な顔で聞かれた。

 いつもの雰囲気とは全然違う。こんなに興味を持つからには、やはり何かあるのだろうか。

「私も詳しくは知らないけど、S町の図書館で働いてるとか」

「名前は?」

「桜田さん。下の名前は分かんないです」

 孝志はうーんと唸った。そのまま考えこんでいたが、

「どうも同一人物らしいな……」

 天使はやはり“運命の人”だった。兄の思い込みではなかった。

 では、孝志と天使の女性はどういう関係なのか。律子が今一番気になっているのはそこだった。森元によれば“彼女はいない”。じゃあその人に片想いを? だがさすがにそれを聞く勇気はなかった。

「お互い惚れ合ってる、って? お兄さんの勘違いってことないかな」

 そんなこと私に言われても。

「兄は、彼女の方もずっと待ってたようなことを言ってましたけど。なるべく早く一緒になるって」

「そうか。でも、変だな」

 変なのは竹中さんだ。何が言いたいんだろう、そう思っていたら、孝志が言った。

「図書館の彼女、もう結婚してるよ」

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