第2章 世界に一つきりの天使
律子の愛車、フェアレディZは、恋に破れて失意の日々を送っている時に、偶然中古車屋で見かけた。ひと目で気に入って、当時の貯金額や以後のローンはさておき、厄落としのつもりで購入を決めた。いわば律子を復活させてくれた、よき相棒だ。
そのZに、今日からは世界に一つきりの天使も同乗する。孝志が律子のためだけに描いてくれた傑作。愛車に乗る幸せがさらに増そうというものだ。
踊るような気持ちで家へ帰ると、律子は兄と二人で住んでいるマンションのドアを開けた。
「おかえり」
先に帰っていた兄の圭一が、珍しく笑顔を見せた。
「どうしたの? お兄ちゃん、顔がふにゃふにゃになってるよ」
森元の表現は正しかった。自分も孝志のことを考えている時、こんな顔をしているのか。確かに分かりやすい。これから気をつけよう。
「何か、いいことあったの?」
「分かる?」
律子が驚くほど圭一は上機嫌だ。こんな兄を見るのは初めてだ。
兄が母親のお腹に置き忘れてきた明るさを律子が全部持って出てきた、と言われるくらい、兄妹の性質は対照的だった。
性格は違うが、仲が悪いわけではないし、干渉し合わない兄妹の同居はうまくいっているほうだ、と律子は勝手に思っている。
圭一は東京の大学を出てから故郷へ帰らずに、この町で教職に就いた。近隣の私立高校で化学を教えている。
都会暮らしに憧れていた律子は地元の短大を卒業後、兄を頼って故郷を離れ、都内で就職先を探した。お金が貯まったら出て行くからと言いつつ、一度は就いた事務職も3年ほどで辞め、ここ2年ほどはアルバイト生活をしているので、結局今でも居候の身だ。
4歳違いの生真面目な兄とは、普段あまり話すこともなかったが。とにかく今日の兄は変だ。いいことってなんだろ。
「今日はね、僕の人生で最高の日なんだ」
兄が両手を握り合わせて言った。
「ずっと離れ離れになっていた恋人とね、運命の再会をしたんだよ」
「へえ、すごいじゃない!」
兄が女性の話をするのも初めてだ。圭一は今29歳だが、それまであまりに女性の影がないので、故郷の両親も律子も、圭一が同性しか愛せないのではと真剣に心配したほどだった。性格は温厚だし、顔もそれほど悪くない方だと思うのだが、人付き合いが苦手で、ちょっと偏屈なところがある圭一は、妹の自分がひいき目に見たとしても、ちょっと男としての魅力に欠ける気がする。
男はもっと華がないとね。そう、竹中さんみたいに。お兄ちゃんは“いい人なんだけど”って言われて、振られるタイプ。まあ、これでちゃんと兄が女性を愛せる男だということが分かった。親に話したら安心するだろう。
兄妹揃って、思ったことが顔に出るタイプらしい。圭一が“運命の女性”の話をしたがっているのがよく分かった。
「私、お兄ちゃんに恋人がいたなんて全然知らなかったよ」
少しからかうように言うと、圭一は恥ずかしそうに笑った。
兄の話では、“運命の人”は、高校の同窓生だという。お互いに想い合っていながら、家庭の事情で彼女が学校を中途退学し、そのまま行方が分からなくなった。上京したという噂を頼りに東京の私立大学に進学したものの、恋人の消息はつかめず、結局逢えないまま12年の歳月が流れた。
「その彼女と今日、やっとめぐり逢えたんだ」
「すごい。ロマンチックねえ」
自分自身が片想いまっ盛りの律子は、胸がいっぱいになった。
「12年、長かったよ。どこで逢ったと思う? S町の図書館だよ。司書をしているらしい」
へえ。狭い国でも人間ばかりはたくさんいる、この日本で。故郷を離れた後、まさか二人とも同じ県の、隣あった町に住んでいたとは。灯台下暗しってこのことだ。
「ねえ、12年間、ずっとその人だけを?」
大学時代や教師になってから、付き合った女性が一人や二人はいるだろう。孝志ではないが、兄も謎の多い男だ。この際、いろいろ聞いてみよっと。冷やかし半分で律子が言うと、
「他の女なんて。僕が愛しているのは彼女だけだ。1日だって忘れたことなかった」
まあ、お兄ちゃんらしいか。律子は思った。兄は思い込んだら一直線タイプなのだ。良く言えば粘り強いが、悪く言えば執念深い。
「想いが通じて良かったね。おめでと」
「ありがとう」
「どんな感じの人?」
「律子がびっくりするほど、きれいだよ。こんど紹介するよ」
圭一は誇らしげに言った。
じゃ、今度はこっちの話を聞いてもらおうかな。
「実はね……」
律子が話すと、圭一は予想通りの反応を示した。
「車に絵を? またどうして急にそんなこと思いついたの」
「私も好きな人がいるんだ。うちのお客さんなんだけど。塗装のプロなの」
「あれ、銀行の人は?」
「とっくに別れたわよ。ね、車見てよ。すごく素敵なんだから」
いつもなら明日外に出たついでに、と言いかねない兄だが、運命の女性との再会がよほど嬉しかったのか、圭一は素直に靴を履いた。
律子は外に出ると、駐車場に停めてある愛車を指差した。
「へえ、思ったより下品じゃないね」
苦笑しながら車に近づいた圭一だったが、ボンネットの天使を見るや、目を見張った。
「これ……これは?」
「いいでしょ。世界に一つきりなんだよ」
「ああ、やっぱり、運命なんだ!」
圭一が手を握り合わせて、叫んだ。
「お兄ちゃん?」
おかしくなったのではないかと思うような表情だ。
圭一はがばりとボンネットに張りつくと、天使の顔を指で撫でた。
「彼女だ! 生き写しだよ」
なんと真珠色の光沢を放つ美しい天使は、“運命の人”そっくりだというのだ。確かにすごくきれいな顔。でもこの天使のモデルが実在するとは思わなかった。
「この車、僕にくれない?」
「なに言ってんの。だめに決まってるでしょ」
「頼むよ。律子には新車買ってあげるからさ」
「嫌よ。車も絵も気に入ってるんだから」
こんなことになるなら見せるのではなかった。圭一は車にしがみついたまま、じっと絵を見つめている。
「僕も車買って、同じものを描いてもらおうかな」
本気らしい。
「同じ作品は二度と描かないって。世界に一つっていうのが大事なんだから」
孝志の受け売りを伝えると、
「そうなのか……」
兄がこの世の終わりというような切ない顔をして、つぶやいた。
「本人に逢えたんだから別にいいじゃない」
まあ、12年の想いが爆発したんだから、こうなるのも当然か。なんだか少し可哀想になってきた。
「スケッチならあるけど」
「本当?」
部屋に戻って、デザイン案も含めたスケッチを見せると、圭一は飛び上がった。
「こっちの方が桜田君の雰囲気が出てるよ。紙ならどこでも持ち歩けるしね」
拝まんばかりの勢いで礼を言われたが、律子も孝志の直筆スケッチを手放したくはない。複写ではだめかと言うと、
「コピーか。いいね。たくさん刷ろう」
圭一は部屋中にこの絵を貼るのだと言った。
ちょっとやばいんじゃない? 我が兄ながら薄気味悪く思っていると、圭一がぽつりと言った。
「この絵を描いた人、桜田君のこと知ってるのかな」
「え? どうだろ……」
兄の言葉を信じるとすれば、天使そっくりの美女が実在する。律子が見惚れるくらいの天使だ。もし孝志の知り合いだったら……一瞬胸がちくりとした。
「そんなにあの天使と彼女って似てるの?」
圭一はきっぱりうなずいた。律子は妙な胸騒ぎが広がるのを感じながら、どうか兄の思い違いであってほしいと願った。
「彼女に片想いでもしてて、絵に描いたのかもしれないね」
けろりと言う兄を、はたきたくなった。お兄ちゃん、その絵を描いたの、私が好きな人だってこと忘れてない?
「でも諦めてもらおう。彼女は僕のものだし、彼女だって12年間そう思ってきたんだから」
圭一は言った。
「なるべく早く一緒になる。誰にも渡さないよ」
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