第90話 立ち塞がる現実、心で一蹴して

「どうしてバーム? スパイに対して甘い対応をとることがどれほど危険か、あなたでも理解しているでしょう? それとも、それを覆すことができるだけの特別な理由があるの?」


 そう鋭く、冷たく、斬り裂くように問いかけるティアさん。

 僕は彼女の優しさも、その上で現実を見極め、先ほどの判断を下したのだということも理解しているつもりだ。

 本来なら、素人の浅知恵と感情論で口を出すべきことではないのだろう。

 だがそれでも、このまま彼女を殺させるわけにはいかない。


「はい。彼女は優れた知識と技術、何より熱意を持っています。ことその道に関しては、僕なんて足元にも及びません。提案してくれた新兵器の案も、彼女なくしては絶対にありえませんでしたし、もし彼女がいなくなれば、今後の成功はおぼつかないでしょう。彼女の発案した新兵器は、それこそ何百、何千という将兵の働きにすら匹敵します。

 それにティアさんはさっき言いました。彼女は人質に危険が及ぶ可能性を冒してまで帝国に協力し、光神国に一矢報いようとしたのだと。その強い思いは、光神国と戦う最大の原動力となるはずです。彼女は知識、技術、熱意、戦う理由。全てを持っています。こんな逸材を、こんなところで簡単に殺していい訳がありません。彼女を生かせば、失うものよりはるかに大きなものを得られると、僕は考えます」


 そう、合理的理由も含め、思いつく限りのことを口にする僕。

 そんな僕の言葉に、周りの皆は頷きこそせずとも否定せず、視線をティアさんへと向ける。

 だがティアさんはまとった雰囲気を変えないまま、


「ならどうするべきだというの、バーム?」


 続けて問いかけてくる。

 その言葉に、僕はもう一度つばを飲む。

 思いついた方法は、たった一つ。

 かなり危険な、それもひとつ大きな問題をはらんだ手だが、今はこれしかない。

 直後、僕はその視線を一度、未だ床で取り押さえられているハンナへと向ける。

 すると程なく、僕の視線に気づいてか、顔を上げ、僕を見つめ返す彼女。

 その一瞬、彼女の浮かべた困惑と戸惑いの表情は、年齢相応のか弱い少女のそれだった。

 

 やはり僕は、立ち向かわなければならない。

 そう決意を新たにすると、再び視線を、ティアさんの氷のように冷たい瞳へと戻す。

 優しいティアさんが、その優しさを自ら斬り捨てなければならない程の現実がある。

 だが、それを仕方がないと割り切り、どうしようもない現実に屈するなんてやり方は、強く優しい彼女には似合わないし、させるわけにはいかない。

 僕が危ない橋を渡ろうとするたび、彼女はいつも共に手を取って、一緒に橋を渡ってくれた。

 危ないからと別の安全な道を示し、危険な道の先にある大切なものを諦めさせようとしたわけじゃない。

 道連れになって一緒に橋から落ちてしまうかもしれない。

 そんなリスクを理解したうえで、それでも危険を冒して共に橋を渡ってくれたのだ。

 時には危険を冒してでも、手を伸ばさなければならないものもある。

 彼女はそれを、僕に教えてくれた。

 そして今、彼女は逆の立場になって、橋を渡ることに躊躇している。

 ならば今度は、僕が彼女の手を取らなければ。

 僕はそう決意すると、息を吸い込み、思いをぶつけるのだ。

  

「処刑したように見せかけたうえで、密かにかくまいます。ハンナさんのようにわざと帝国に捕まる道を選んだスパイは、全員。そしてハンナさんなら設計に開発、それ以外の人も、その人の特性や能力に応じた労働で、帝国に協力してもらいます。勿論本人の承諾が得られた場合に、厳重な監視下に置いたうえで、ですけど。その代わり帝国軍は、ハンナの家族を含む人質の救出に、全力を尽くします。

 人質を失う危険を冒してまで、光神国に協力する事をこばんだ者たちです。きっと必要な労力に見合った働きをしてくれると、僕は考えます。それにいくら、『スパイとして成果を出そうと努力した末、帝国側に捕らえられたような場合、少なくとも人質の命は奪われることはない』などといったところで、やはり実際にスパイとして成果を出した者と比べれば、人質の境遇は厳しいものなのではないでしょうか? 殺されることはないというだけで、監獄生活に近いものを強いられたりだとか。だとすればそれは、ハンナさんと同様の境遇の人たちにとっても、真に望んだ結末ではないはず。ならば再び、帝国に協力する道を選んでくれる者も、いるのではないでしょうか?」


 そう、ティアさんの冷たい瞳を真っ直ぐ見返し、正面から斬り返すかのように、言葉を放つ。

 自分で言っていて問題だらけなのは分っていた。

 だがそれでも、やはりこれ以外の選択肢を、僕は思いつくことができなかった。

 そんな僕の言葉に、なぜだか目を見開き、ティアさんに視線を向けるゲウツニー。

 一方のティアさんはその目を細めると、数拍の後、静かにゆっくりと、


「バーム、自分で言っていて分っているでしょう? それを実行することがどんなに難しく危険な事か。それにそんな事をして、もしその事実が明るみに出れば、それこそ取り返しのつかない事態になる。そうでなくても、わざと捕まったか結果的に捕まっただけかを見分けるなんて容易なことじゃないし、隙を見て脱出や再度暗殺をたくらむ者も出てくるでしょう。それにそもそも、人質を失うことを恐れてわざと帝国に捕まるような道を選んだ者が、その危険を冒してまで帝国のために働くことを選ぶと思う?」


 そう諭すように、わざと落ち着いた口調で語りかける。

 その言葉はどれも事実だ。

 だが、


「どれほど危険なことかは、これでも理解しているつもりです。でも、その危険を冒すだけの価値が、彼女のような者たちを生かすことにはあると、そう僕は思うのです。それに何より、僕はティアさんに、帝国を代表する者として、ハンナさんのような境遇の者たちにも救いの手を差し伸べられるような、そんな存在であってほしい。あの日、途方に暮れていた僕に救いの手を差し伸べてくれた、あの日のティアさんのように」


 僕はそう、言葉を紡ぐ。

 半分は僕の理想の押しつけのようなものだ。

 だがそれでも、僕はこの際ティアさんに、理想を押し付けることにした。

 

 そんな僕の言葉に、ティアさんは沈黙を守る。

 その脳裏で色々な思いや考えが複雑に渦巻いていることは、表情には出なくても明らかだった。

 そして僕はそんなティアさんに、最後に、


「もしそれで帝国に損害が発生するような事態になったなら、勿論僕は、どんな処分も甘んじて受け入れます。だからどうか、お願いします」


 そう言って、できるだけ深く頭を下げる。

 

 長い沈黙があった。

 ただ重苦しいのとも違う、ゆったりとしてどこかほのかに暖かな空気が、場を包んでいるような気がした。

 やがて誰かが小さく溜息を吐くと、


「だそうよ、ハンナさん。どうする? あとはあなた次第よ」

     

 聞こえてきたティアさんの言葉に、僕は顔を上げる。

 視線を向ければ、ティアさんはハンナから僕へと視線を移し、鋭く冷たかったその表情を崩し、やれやれと肩をすくめたうえで、また視線をハンナへと向ける。

 それを見、僕は視線をハンナへと移す。

 その状況に、ハンナはティアさんを見つめ返した後、視線を僕へと向ける。

 驚愕に困惑、希望に不安、さまざまな感情が複雑に入り混じった表情を浮かべ、瞳を左右へ泳がせる彼女。

 突然のことだ、躊躇するのも無理はない。

 後はティアさんの言うとおり、彼女次第だ。

 だが僕は彼女に、その手で未来を、掴み取ってほしい。

 だから僕は、見つめる彼女の瞳をまっすぐ見返し、努めて笑顔を浮かべ、最後に一言だけ、言い添えるのだ。


「大丈夫だよ」

 

 瞬間、瞳を大きく見開く彼女。

 直後、様々な思いと感情の入り混じっていたその表情が、一瞬のうち、全く真っ白なものへと変化する。

 たっぷり数泊の間があった。

 それは感情や考えの戦いというより、自分の本当の思いに対する、最後の躊躇だったのだろう。

 だがそれでも彼女は、落ちたら二度と戻って来ることのできない断崖に向かって、それでもゆっくりほんの数センチ、つま先を前に出すように、恐る々る、口を開く。

 その目尻に透き通った大きなしずくを、零れ落ちそうなほどに浮かべながら。


「いいの?」


 投げかけられる言葉。

 その震える、弱々しい、だが精一杯の勇気を振り絞った言葉に、僕は手を差し伸べるように、うなずきを返す。

 彼女はそれを見、


「私、私――」


 そう、視線を地面に落とす。

 そして一度唇をかむと、数泊の後、再び顔を上げ、今度はティアさんに視線を向ける。

 そしてその瞳を真っ直ぐ見据えると、口元を真一文字に引き結ぶ。

 そんな彼女の浮かべた表情が、僕には、落ちたら二度と戻って来ることのできない断崖を前にして、崖から距離をとり、助走をつけ、絶対に飛び越えてみせると決意した、そんな表情に見えた。

 そして数泊の後、彼女は断崖を飛び越えるように、口を開き叫ぶのだ。


「お願いです。監獄生活でも、どんなに厳しい労働でも構いません。私にできる全力を尽くします。必ず役に立って見せます。だからどうか、私を助けて。そしてもしできるなら、囚われている私の家族を救い出して。私にできることなら、何でもしますから!」


 叫びは、狭い小屋の中に響き渡る。

 それはきっと、彼女の本当の願いだったのだろう。 

 

 また数泊の沈黙があった。

 その場の全員の視線が、ティアさんに集まる。

 それから数泊、ティアさんはハンナから視線を僕へと移すと、わざとらしく溜息を吐いて、


「負けたわ」


 そう言っていつもの微笑を浮かべる。

 そしてすぐに視線を、ハンナを取り押さえている兵へと向けると、


「彼女を一番広い独房へ。ただし尋問の必要はないし、食事や衣類などの待遇もこれまで通りでいいわ。それと、彼女の仕事道具一式を彼女の独房へ運び込んで。彼女にはこれまで通り、いや、これまで以上に働いてもらわなければならないから」


 そう指示すると、今度こそ踵を返し、マントを翻して去っていく。

 そんなティアさんの背中に向かって、僕とハンナはまた頭を下げ、


「ありがとうございます」


 そう精一杯叫ぶ。

 

 またティアさんにわがままを聞いてもらった。

 きっと僕は一生、彼女に頭が上がらないだろう。

 でも、これでよかった。

 僕は心の奥底からそう思うのだった。





「本当のことを言わなくてよいのですか?」


 バームのもとを去ってからしばらくの後、ゲウツニーはティアの背中に問いかける。


「ダメよ。ただでさえ大失態をさらしたというのに、これ以上恥ずかしい姿は見せられないわ」


 ゲウツニーの言葉にそう、言葉と裏腹な微笑を浮かべ答えるティア。


「恥ずかしいだなどと思う必要はありません。むしろ最初から、総帥に悪役の演技など無理だったのです。それにそれでこそ、あなたは我々の総帥たる存在なのです」


 対するゲウツニーは真剣な表情を浮かべ、真っ直ぐ毅然と、そう答えてみせる。


「いいえ、私は弱くて、わがままで、甘くて、卑怯な総帥よ。そのために皆には、余計な苦労ばかり掛けてきたわ。本来ならトップとして失格よ。でも――」


 そういって足を止めると、ティアはゲウツニーの方を振り返り、


「そんな私にここまで付き従って、破綻しないように支えてくれた。間違った道を歩もうとする私に、正しい道を無理に行かせるのではなく、共に間違った道を歩んでくれた。ありがとうゲウツニー。皆にも感謝している。それに、バームにも」


 そういって頭を下げるティア。

 対するゲウツニーは少し驚きあわてて、


「おやめください。総帥たるもの、そう簡単に部下に頭を下げるものではありません」


 そう逆にかしこまる。

 だがその時、


「やっぱり最初から、殺す気なんて無かったのね」


 側面から現れたエイルミナのかけた言葉に、二人は慌てず視線を向ける。

 エイルミナが後を追ってきていたことに、二人は気づいていた。


「やはりバームはともかく、あなたには隠せないわよね」


 そう諦めるようにあっさりと認めるティア。


「ということはやっぱりあれは、バームのための小芝居?」


 エイルミナのその言葉に、ティアは続けてうなずき、


「ええ。現実は甘くない。時に厳しい判断も必要だって、そういう所を見せたかったの。だって彼、あまりに優しすぎるもの。でも失敗しちゃった。バームの気迫に押されて、悪役の演技すら続けられないなんて、私は本当に弱くて、卑怯。だから本当のことを言わないのは最後の意地。全然カッコ付かないけどね」


 そう力なく笑って、しかし今度こそ、その表情を引き締めると、


「でも彼にはいずれ知ってもらわなければならない。彼の設計や発明が、今日もいくつもの命を奪っていること。そして私は彼に、それを強いている事。私は彼の理想の上司なんかじゃないこと。そうして私の本当の姿に気付いて、見定めて、その上で自らの意思で、進む方向を決めなければならないことを。その上で彼が私のもとを去るというのなら、私は追いはしない。

 そしてそれはバームだけじゃない」


 そう言ってエイルミナの瞳をまっすぐ見据える。

 エイルミナもまたその瞳をまっすぐ見つめ返し、


「――分かっています」


 歴戦の戦士としての精悍な表情を浮かべ、短く、だがはっきりと答えてみせる。

 その言葉に、ティアはまた微笑を浮かべる。

 そして数泊の後、今度はその表情をいたずらっぽく変化させると、


「でもその前に、あなたは女も磨いた方がいいわ。うかうかしていると、ライバルにとられちゃうわよ」


 そう第三者らしく、楽しげに言って見せる。

 その言葉と態度に、エイルミナはしばらくの間、そこに秘められた意味に気づくことができず首をかしげ、だが数泊の後その意味を理解すると、眼を見開きわずかに頬を染め、二人のいる方向に慌てて視線を向ける。

 そんなエイルミナの、先ほどまでの歴戦の戦士らしさなどかけらもない、年ごろの一人の少女としての姿に、ティアもまた総帥としての自分の立場など忘れ、笑みを浮かべるのだった。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る