第80話 一日の始まり
窓から差し込む陽ざしに、僕は夜が明けたことを知る。
「寝ている場合じゃない!」
僕は一人慌てて叫びながら、布団を跳ねのけ飛び起きる。
すると、布団の横に見覚えのない小洒落た衣服と石鹸、洗面用具、それにメモが置いてあるのに気付く。
たまにはお洒落して、デート楽しんできて。
書かれた言葉に、僕は心の奥底から熱い何かが湧き上がってくるのを感じる。
そう、今日はティアさんが決戦前の宣言通りくれた休日だ。
そして同時に、
「バーム、わざわざ言うまでもないと思うけど一応言っておくわ。明日はエイミーとデートするのよ。仕事の事なんて一切考えちゃダメ。エイミーも疲れているだろうとか、そういう余計な気もまわさない。日ごろこき使っている私が言うのもなんだけど、明日一日は自分たちのためだけに使いなさい」
脳裏をよぎる昨日のティアさんの言葉。
そう、今日はエイミーとの初デートの日だ。
改めてそう思うと、心の奥底からさらに熱い何かが湧き上がって、鼓動が早まり、体はにわかに火照り、とくに気温が高い訳でもないのに汗が頬を伝い始める。
いけない、舞い上がりすぎだ、落ち着いて、深呼吸して、それから……
そう自分に言い聞かせて、頬を両手で勢いよく打つ。
そうして頬から伝わる痛みが、僕に少しだけ冷静さを取り戻させてくれると同時、これが現実であるということを告げる。
「よしっ、先ずは身支度だ」
そうあえて声に出すことで決意を新たにし、僕は動き始める。
先ず高級品である石鹸と大量の水を使い、身を清める。
戦場ではかなりの贅沢だが、
「いいバーム、明日身を清める時は必ず石鹸を使用する事。それに高級品だからって絶対にケチっちゃダメ。デートの時くらいは贅沢してもいいから。お金のことも心配しないで」
昨日の内、ティアさんにそう厳命されていた。
幸い水も今この城では容易に手に入るので問題ない。
ただ後から兵が持ってきた請求書を見てティアさんが蒼くなっていたところから察すると、無駄遣いはしてはいけないと思う。
身を清めると、用意してもらった小洒落た衣服を身にまとい、水の入った桶に自身の姿を映し、容貌を整える。
普段はいちいちこんなことはしないので慣れないが、今日は特別な日と、入念に整える。
身だしなみが整えば、いよいよエイミーを呼びに行く。
エイミーが泊まっている宿舎に近づくにつれ、高鳴る鼓動。
向かう途中、整備隊長とすれ違う。
「これはバーム殿。先日は見事なお働きでした。今やあなたは我が軍の英雄です。我々もあなたと共に戦えたこと、誇りに思います」
笑顔でかけられる言葉に、
「いや、僕の働きなんて大したことありません。整備隊長と、整備兵の皆、それにティアさんのおかげです」
そう答える僕。
しかし整備隊長は首を横に振り、
「いや、あなたがいなければ成しえなかったことです。それになにより、あなたは整備隊に対する周りの見方を変えた。今やこの城に、整備隊や整備兵を侮る者はいませんし、整備兵自身も、前線で戦う者達に気兼ねせず、堂々と働いています。自分たちも、前線で戦う者達に負けないくらいの働きができるのだと。だからバーム殿も、もっと胸を張ってください。あなたは私の英雄でもあるのですから」
そう、優しく言ってくれる。
だが僕の改革は、整備隊に良い事ばかりでなく、痛みももたらしたはずだ。
そしてその痛みを一番に引き受けてくれているのは、きっと整備隊長だろう。
そう思うと、自分一人、こうして浮かれていてよいものかと思う。
「ありがとうございます。整備隊長が皆との間を取り持ってくれたからこそできたことです。本当に、ありがとうございました」
僕はそう言って、頭を下げる。
「いやいや、頭をお上げください。ところで――」
整備隊長はそう言うと、それまでの笑顔をどこか意地の悪いものに変化させて、
「本日は噂のあの別嬪さんとお出かけですかな?」
そう耳元で、小声でささやく。
その一瞬、心の奥底からまた熱い何かが急速に湧き上がってあふれ出し、頬は火照り、鼓動が急速に早まる。
「え、えっと、その、え、エイミーと僕とは、その、そういう仲、かは、でも、僕は彼女の事……」
そう慌てて口にし、しかし思考が空回りし、言葉は次第に先細っていってしまう。
整備隊長がどこまで僕の言葉を聞き取ることができたのかはわからない。
だが整備隊長はその内、その表情をまた柔和なものに戻すと、
「もし働いている我々を差し置いて出かけることにわずかでも後ろめたい思いを抱いているのなら、そんなものは気にする必要ありません。この休日はあなたと彼女の活躍に対する正当な報酬。誰にも気兼ねせず、堂々と満喫してください。それに個人的にも、バーム殿とエイルミナ殿のこと、応援しておりますぞ」
そう言って僕の肩を優しく叩き、手を振りながら歩み去っていく。
整備隊長がいてくれて、本当に良かったと思う。
いや、整備隊長だけじゃない、他にも優れた人は大勢いて、その人たちの協力が得られたからこそ、今回の作戦はうまく行った。
どんなに知識や技術を持っていたとしても、一人で出来る事なんてたかが知れている。
決して驕ってはならない。
そう心に刻むと、今日という一日を無駄にしないために、僕は再び歩き始めるのだった。
エイミーの宿舎にたどり着くと、そこにはまだエイミーの姿は無く、代わりに中からティアさんのあわただしい声が聞こえてくる。
「化粧ってこれでいいの? これでいいのよね? ああ、戦場の日々でおめかしの技術や知識を身に着けてこなかったことが、こんな形で裏目に出るなんて。道具だけは何とか手に入ったけど、私たち以外の女性はみんな避難しちゃったから、誰かに聞くわけにもいかないし。早くしないとバームが来ちゃう」
その直後、格子窓からティアさんが外を覗き、僕の姿を認める。
そして表情を蒼くすると、さらに慌てた様子で、
「来ちゃった、どうしよう。ええぃ、こうなったら仕方がないわ。エイミーは私と違って地が良いから、これでも多分大丈夫。というかバームならどんな姿でも、あなたでありさえすれば喜ぶに決まっている。さあ、行っておいで」
そう言って、誰かの背中を押す。
程なく、宿舎から姿を現す人影。
思わず息を呑んだ。
風になびく亜麻色の髪。
白を基調とした衣服は、城にいた頃身に着けていた物と比べれば随分おとなしいが、それでも彼女が着れば、まさしく姫君が身につけるにふさわしい逸品へと変貌する。
「どうバーム? 私には、鎧兜の方がふさわしいと思うけれど」
そう、少し恥らいながらこぼすエイミー。
「誤算だった。まさかエイミーに、化粧も含めておめかしの知識と技術がこれっぽっちも無いなんて。まあ私も人の事言えないんだけど。で、どうバーム? って、聞くまでも無かったか」
エイミーに続いてぼやきながら出て来たティアさんが、僕の顔を見て言う。
僕はエイミーがまだ城にいた頃の、専属の侍女が完璧な化粧を施し、高価できらびやかな衣装と装飾を身に着けた彼女の姿を思い出していた。
確かにその姿は美しかった。
だがそもそも彼女は、化粧や装飾なんて施さなくても、出会った時のようなフード姿や、戦場で鎧兜を身に着け、砂埃にまみれた姿だって美しいのだ。
だから今日の、城にいた頃より薄く、少し乱れた化粧も、あの頃より少し控えめな衣装も、
「……にっ、似合ってるよ」
やっとのことで、その言葉を絞り出す僕。
するとエイミーは僕の方を見、あの陽の光の様な笑顔を浮かべ、
「ありがとう」
心を包み込むような、暖かい声で言う。
瞬間、体中が火照り、高鳴る鼓動が脳に響き渡る。
「こらっ、バーム。まだデートは始まってすらいないのよ。そんな風にいつまでも見とれていたら、あっという間に日が暮れてしまうわ」
ティアさんのその言葉に、ようやく我に返る僕。
するとエイミーはそんな僕を見てクスリと笑い、
「行きましょ!」
そう言って手を掴むと、勢いよく引いて僕を誘う。
僕は引かれるその手に誘われるまま足を踏み出し、足をもつれさせながらも彼女についていく。
一日はまだ、始まったばかりだった。
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