第四話 ピュテルイの谷

 見た。

 確かに。

 シヤトラの森が揺れ動くのを。

 木々がなぎ倒され、土煙が巻き起こり、この魔獣がここにしてきたことを。

 魔獣が咆哮する。

 そしてその兎は──


「友ノタメ、友人ノタメ……カツテノ盟約、イマ果タサン」


 片言の言葉でそういって、人類軍へと突進していったのだった。


「なにが──」


 絶句する姫さま達。

 大混乱に陥る人類軍。

 僕だけが、万物全知のちからで理解していた。

 あの魔獣こそ、かつて姫様の父親──アルヴァ王に肉を差し出した首切り兎。

 ハイドリヒ伯のエルフの森で暴れた最強の魔獣。

 そして──姫様の母親、ロジニア・ド・エレオス・アガフィが

 殺さない代わりに、いつか我が子を守るように頼んだ最強の守護者だった。


「姫様! いましかないです!」

「──ッ! 全軍、走るの!」


 僕の言葉で自分を取り戻した姫様が檄を飛ばす。

 彼女を崇拝する親衛連隊は、すぐさま命令に従った。

 走る。

 ピュテルイの谷へと──


§§


「防御陣構成!」


 ピュテルイの谷へ逃げ込むなり、騎士レニス・ダオは旗手を翻し、全軍に指令を出した。

 そして、その場にいた3000名すべてが、その命令に従った。


「なにをしているの!? 私が魔術で渓谷をふさぐから、早くこちらに来るの!」

「それはなりません、姫様。ええ、なりませんとも」


 彼は笑顔で、そう答える。


「姫様はお優しい。だから、我々全員が生き残る方策を考えています。されども、ここを破壊し、敵の足を止めても──支流に辿り着くまでには、追い付かれてしまいますよね?」

「そ、れは」


 彼女は、息をのんだ。

 その場に言わせたすべてものが発する、覚悟を決めた雰囲気に。


「もとより我々は決死隊。姫様を守るための親衛連隊。ならばいまこそ、その真価をお見せしましょう!」


 意気軒高し、応! と掛け声を上げる3000名。

 だけれど、彼らだけがここにいても、陽動ができるとは限らない。

 人類軍の目的は、姫様だ。

 だから──


「はい、ここは不肖、このデーエルスイワにお任せください」


 一歩、そのウンディーネは進み出る。

 瞬く間にその姿が解け、新たな形を作り上げる。

 豊満な肢体が、華奢なそれに。

 雪のような銀髪に、リンゴのように赤い目。黄金の虹彩。

 太い尻尾。

 その矮躯は、まぎれもなく姫様そのものだった。


「これからが、この部隊の指揮を執ります」

「デーエルスイワ、それはダメなの。私は、民のすべてを守る使命が」

「──姫様がここで倒れれば、魔族は滅びます」

「────」


 姫様に扮したウンディーネは、ゆっくりと頭を振る。


「いいえ、滅ぶだけならいいでしょう。ですが、悪辣な人間のことです。あのロジニア皇帝のやることです。我々は家畜以下の害虫として扱われるでしょう。そんなことは──許されません」


 だから、自分たちがここで持ちこたえると。


「でも、ダメなの。だって、あなたたちは」


 それでも言いつのろうとする姫様の両肩に、細く小さな双肩に、デーエルスイワさんは優しく手を置き、こういった。


「──ッ!」


 姫様の表情が崩れる。

 いまにも泣きだしそうな、砕けてしまいそうな顔になって──それでも彼女は、持ちこたえる。

 ギリギリのところでそれを飲み込み、頷きを返す。


「アトラナートさん」


 デーエルスイワさんが、同じ侍従であるアラクネへと、厳しい声をかけた。


「必ず……姫様を祖国へ連れて帰ってください」

「……もちろんですだ! 侍従の意地にかけましても!」


 涙をこぼしながら頷くアトラナートさん。

 そして、決死隊3001名は、僕らを送り出す。


「さあ、ソーツ・タイフェ諸君! 俺たちの──初陣だ!」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 彼らは一斉に構え、振り下ろす。

 唯一の装備。

 この日のために用意されたあらゆる魔術を跳ね返し、傷をいやす盾と鎧を。

 光機一文字が1000も刻まれた、特別な武装を。


 白銀の盾が、城壁のように並んだ。

 僕らは走り出した。


「生きてなの!」


 姫様は叫んだ。


「必ず、生きて戻るの、騎士レニス・ダオ! その時はあなたも大貴族なの!」

「……それは、まるで夢のようです、姫様」


 彼はそういって、笑った。

 ひとが、魔族であっても、浮かべてはいけない笑顔。


 それは、死出の旅を覚悟したものだけが見せる、凄絶な笑みだった。

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